月曜の午前、民間保護施設の事務室で、大迫施設長は一枚の申請書を莉子の机に置いた。申請者の欄には、人気動画配信者として知られる神谷蓮の名があった。
「今期、あと一頭決まれば目標達成だ。正職員登用も具体的に検討できる」
二十六歳の莉子は、胸の内でその言葉を反芻した。契約更新のたびに先を案じる生活から抜けられるかもしれない。
神谷は広い持ち家に住み、収入も十分で、大型犬の飼育経験こそないが訓練士を雇う予定だと記していた。長期保護中のジャーマン・シェパード・ドッグ、ベルの希望者として、書類上は申し分なかった。
「面会は今日の午後。君が担当してくれ」
大迫は続けて、一週間後に公開譲渡式を行うと施設の公式サイトで告知済みだと明かした。
莉子は申請書の下部を見た。担当職員と獣医師、二つの適合性承認欄は、どちらも空白だった。
「まだ面会前です」
「だから今日、確認する。これだけ条件のいい相手を逃す理由はない」
手順が逆だと思った。それでも、決まれば実績になるという考えが、不安を押し込んだ。莉子は申請書を受け取り、面会の準備に立った。
同日の午後、面会室には二台のカメラと照明が持ち込まれた。神谷のほかに撮影スタッフが二人おり、赤い録画ランプが一斉にともった。
ベルが入室した瞬間、神谷はカメラへ笑顔を向けた。
「今日から家族になるかもしれないベルです。かっこいいでしょう」
神谷が腕を広げて近づくと、ベルは耳を伏せた。大きな体を低くし、鼻先を何度も舐めながら、出口へ後退した。
「ベル、おいで。怖くないよ」
明るい声とともに神谷が距離を詰めるたび、ベルは莉子の脚の後ろへ逃げた。リードを持つ莉子の手に、細かな震えが伝わった。
「初対面なら、よくある反応です」
口にしかけた言葉を、莉子はのみ込んだ。以前も、固まって顔を背ける犬を、慣れれば平気だと送り出したことがある。その後どう慣れたのか、自分は確かめていなかった。
莉子は休憩を提案した。スタッフが照明を消し、カメラを床へ下ろすと、ベルの荒かった呼吸は二分ほどで静まり、低かった腰も戻った。
莉子は記録票を開いた。照明点灯時刻、カメラ二台、神谷との距離、耳と姿勢、口元を舐めた回数、出口への後退、撮影停止後の回復時間。印象を交えず、見たままを書いた。
撮影を再開すると、ベルは再び身を低くした。莉子はその時刻も記し、承認欄には触れなかった。
同じ日の夜、莉子は犬舎前でベルの様子を確かめていた。夜間警備に入った黒田誠が散歩用のリードを手に現れると、ベルは柵際まで自分から歩み寄った。
黒田が扉を開けても、呼び寄せることはしなかった。ベルは彼の手元を嗅ぎ、鼻先で垂れたリードを押した。黒田が金具を首輪につなぐまで、その場で静かに待っていた。
運動場では、ベルは黒田の歩調に合わせた。遠くで金属音が鳴ったときも、逃げずに黒田の横へ戻り、彼を見上げた。
「応募する気はないんですか」
莉子が尋ねると、黒田は歩きながら首を振った。
「今の賃貸は、大型犬が不可です。気持ちだけで連れて帰るわけにはいかない」
黒田は、大型犬を飼育できる住居への転居契約を進めていると話した。ただし、家主の許可証がそろうまでは応募資格がないことも理解していた。
莉子も、好意だけで黒田を候補にするつもりはなかった。記録票には、現時点で資格外と明記したうえで、ベルが自発的に接近し、リードを差し出した事実だけを書き足した。
昼と夜の違いは、ベルがいつも怯えているわけではないと示していた。相手と接し方によって、反応は変わる。その差を消してはいけないと、莉子は思った。
翌日の午前、施設長室で莉子は行動記録を大迫に示した。撮影中の反応と停止後の回復、黒田との散歩時の様子を順に説明し、神谷には撮影なしの再面会が必要だと述べた。
「一時的な緊張だ。犬なら環境が変われば緊張する」
「撮影を止めると回復しています。再開すると、同じ反応が出ました」
大迫は机上の譲渡書類を莉子の前へ押した。
「公開譲渡式はもう告知した。今さら撤回すれば施設の信用に関わる。署名してくれ」
承認欄の空白が、莉子の正職員への道と同じ大きさに見えた。ペンを持つと、大迫は声を落とした。
「できないなら担当を替える。登用の話も白紙になると思ってくれ」
莉子はペン先を紙へ近づけた。ここで署名すれば、一頭分の数字が増える。神谷の家は広く、金銭面の心配もない。ベルも、いつかカメラに慣れるかもしれない。
だが、それは確認ではなく期待だった。しかも、ベルではなく自分たちに都合のよい期待だった。
莉子は譲渡規程を開き、該当箇所を読んだ。
「担当職員の承認は、飼育環境だけでなく、対象犬との適合性を保証するものです。私はまだ保証できません」
署名欄を空白のままにし、莉子は書類を持って施設長室を出た。
同日の午後、診療室で莉子は長谷川医師に行動記録を提出した。長谷川は時刻と状況がそろっていることを確かめ、ベルの診察を始めた。
関節や口腔に痛みはなく、体温や心拍にも急性疾患を疑う所見はなかった。診察を終えた長谷川は、撮影開始とストレス反応、撮影停止と回復が二度対応している箇所を指でなぞった。
「これを一時的な緊張だけで片づけることはできません。私の承認も保留します」
担当職員と獣医師の双方が未承認になれば、規程に基づく再評価を発動できる。長谷川は譲渡審査委員会の招集を決めた。
莉子は神谷を排除したいわけではないと伝えた。撮影なしの面会を複数回行い、ベルから自発的な接近が見られること。譲渡後三十日間は撮影をしないこと。その二点を条件案として提出した。
「選ぶ余地をベルに残したいんです」
長谷川は記録を閉じ、うなずいた。
二日後の午後、施設の会議室で譲渡審査委員会が開かれた。神谷、大迫、長谷川、莉子のほか、二人の委員が席についた。
莉子はまず、神谷の収入や住居に問題はないと認めた。そのうえで記録票を配り、カメラと照明があるときに限って、ベルが一貫して拒否反応を示した経過を説明した。
「神谷さん個人を拒んでいると断定はできません。だからこそ、撮影のない環境で複数回の面会が必要です」
委員長は条件案を読み上げた。撮影なしの面会を重ね、ベルから接近する様子を確認すること。譲渡成立後も三十日間は撮影しないこと。
神谷は椅子にもたれ、腕を組んだ。
「譲渡までの過程を含めて動画にする予定なんです。三十日も撮れないなら、企画にならない」
「犬の適応を優先するための期間です」と長谷川が言った。
「それなら、別の犬を検討します」
神谷はそう答えて席を立った。扉が閉まったあと、会議室には短い沈黙が残った。
委員会は、生活環境ではなく接し方の不適合を理由に、申請の見送りを決めた。大迫は公開譲渡式の撤回を余儀なくされた。
莉子の正職員登用は保留となった。ただし、候補者ごとの反応や回復時間を残せるよう、行動記録の様式と再審査手順を改善する仕事が彼女に任された。
数字にはならない結果だった。それでも莉子は、空欄を守ったことを後悔しなかった。
数週間後の朝、施設の駐車場に黒田の車が止まった。大型犬を飼育できる住居への転居を終えた黒田は、必要書類と家主の許可証を提出し、撮影のない複数回の面会も済ませていた。その日は段階的な預かりの初日だった。
黒田は車の後部扉を開けたまま、数歩離れた。ベルの名を呼ばず、手も叩かず、ただ待った。
莉子は記録用のスマートフォンをポケットに入れたまま、リードを緩めた。ベルは車を見て、次に黒田を見た。急かす者がいないことを確かめるように、その場でしばらく鼻を動かした。
やがてベルは一歩ずつ黒田へ近づいた。差し出された手を嗅ぎ、それから自分で車の後部へ前脚をかけた。振り返ることなく、残りの脚も乗せた。
莉子は写真を撮らなかった。記録用紙に時刻を書き、その横へ「自発的に乗車」とだけ記した。
黒田が静かに扉を閉める。窓の向こうで、ベルは伏せずに座り、前を見ていた。
絆は、人間に選ばれた証拠を残すことではない。犬が安心して相手を選べる時間と条件を、誰かが守ることなのだ。
車が動き出しても、莉子はスマートフォンを取り出さなかった。カメラを向けないその朝、ベルが選んだ一歩だけが、記録よりも確かに残った。
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