海外赴任の辞令が出た週の水曜日、真琴はいつもの散歩道で亮介を待っていた。夕暮れの歩道を、白と茶と黒の斑を揺らしながら麦がやってくる。真琴を見つけたビーグルは足を速め、亮介の手にあるリードを張った。
真琴は差し出された持ち手を取らずに言った。
「赴任先に麦を連れていく。だから、これからは私に単独で譲ってほしい」
亮介の手が止まった。麦だけが二人の間で鼻を動かしている。
「飛行機に何時間乗せると思ってる。着いた先の住環境も変わるし、真琴が勤務中、麦はどうするんだ」
「向こうにも犬を預ける場所くらいある」
「決めてあるのか」
答えられない間を、真琴は責められている時間だと感じた。
「購入契約は私の名義よ。マイクロチップの登録者も私。離婚のとき思いどおりにならなかったからって、今さら意趣返ししないで」
亮介は何か言いかけ、やめた。それが図星を突かれた者の沈黙に見えた真琴は、リードを奪うように受け取った。
その夜、真琴は段ボールに囲まれたマンションの床へ書類を広げた。購入契約書、マイクロチップの登録証、保険料の明細、動物病院の領収書。自分の名前がある箇所に、次々と付箋を貼った。
赴任準備の一覧には、勤務時間、日中の預け先、輸送後のケアという項目も作った。しかし、どれにも「現地で調整」としか書けなかった。
梱包用のテープを引くたび、麦が立ち上がった。玄関へ行き、真琴のところへ戻り、また箱の間を歩く。
「落ち着いて。こんなの、慣れれば平気なんだから」
麦に言ったつもりだったが、その声は部屋の壁に硬く返った。真琴は麦の様子を不安ではなく訓練不足だと決め、担当する日を増やすと亮介に一方的なメッセージを送った。
翌週の水曜日、麦は朝の食事を半分以上残した。真琴の家で過ごす日を増やしてから、積み上がった箱の隙間を休みなく歩くようにもなっていた。
夕方、受け渡しに来た亮介は、麦の皿を見るなり眉を寄せた。
「食べてないのか」
「慣れる途中よ。いちいち大げさにしないで」
「日を増やしてからずっとこうなんだろ。いったん元の予定に戻そう」
「あなたが決めないで」
声が重なった瞬間、麦が身をひねった。真琴の指から持ち手が抜け、リードが乾いた音を立てて歩道を滑った。
「麦!」
麦は振り返らず、いつもの散歩道を走った。真琴と亮介が追いついたとき、麦は亮介の勤務先の店の入口に立ち、前足で何度も扉を掻いていた。
息を切らした亮介がリードを踏んだ。真琴は胸の痛みを押さえながら、「たまたま道を覚えていただけ」と言った。
翌日の午前、二人は麦をかかりつけの動物病院へ連れていった。獣医師は麦の脚や腹を調べ、大きな外傷がないことを確かめた。
「食欲が落ちて、落ち着かないのは、環境の変化によるストレスかもしれません。滞在場所や受け渡しの回数を急に変えるのは避けてください」
獣医師は麦の背を撫でながら、長距離輸送と渡航後の生活についても尋ねた。急な移動に長時間の留守番が重なるのは望ましくなく、連れていくなら段階的な準備と日中の預け先が必要だという。
「訓練すれば適応できますよね」
真琴が食い下がると、獣医師は静かに問い返した。
「赴任先の預け先は、もう決まっていますか」
真琴は膝の上の書類袋を握った。隣にいる亮介を見れば負ける気がして、麦の爪先だけを見つめた。
診察の翌日の夕方、真琴は処方された薬を渡すため、亮介の店を訪れた。店の奥には犬用のベッドと水入れが置かれ、通路へ出ないよう低い柵が床に固定されていた。
壁には一日の予定表があった。食事、散歩、投薬、通院日。それぞれの時刻が書き込まれている。
「店の許可を取った。早番中心に勤務を変えて、毎日、麦を連れてこられるようにした」
「いつから準備してたの」
「赴任の話を聞いてからだ。反対するだけじゃ駄目だと思ったから」
麦は迷わず奥へ進み、ベッドの上で二度回ってから伏せた。やがて耳の力が抜け、診察以来初めて深く眠った。
亮介は感情ではなく、麦の一日を基準に準備していた。真琴が集めたのは、麦と暮らすための予定ではない。麦を連れていく権利ばかりだった。
それでも、ここで譲れば、自分だけがまた選ばれない気がした。離婚でも、これからの仕事でも、亮介の暮らしにさえ負けた者になる。その恐れを押し切るように、真琴は店を出た翌日、民事調停の申立書を提出した。
申し立てた日の夜、真琴はマンションの床へ申立書の控えと渡航準備の一覧を並べた。調停で問われる今後の飼育計画を、書き直そうとした。
赴任先の勤務時間は未確定。預ける施設は未定。検疫を終えた後、麦をどのように新居へ慣らすかも空欄だった。何度ペンを置き直しても、具体的な言葉は出てこない。
箱の陰では麦が目を開けたまま横たわっていた。眠りに落ちかけては、外の音に耳を立てる。店の奥のベッドで、体を丸めて眠っていた姿とは違っていた。
真琴は申立書を見た。自分が怖いのは、麦を失うことだけではない。亮介に譲り、自分が敗者になることだった。
「あなたのためって言いながら、私は私のことしか見てなかったね」
麦は立ち上がらなかった。ただ、箱の暗がりから真琴を見た。
真琴は一覧の空欄を指でなぞった。埋めるべきだったのは書類ではなく、麦の一日だった。翌朝になったら調停を取り下げようと決め、初めてペンを置いた。
翌週の水曜日、取下手続きを済ませた真琴は、亮介の店を訪れた。麦は店の奥から出てきて真琴の匂いを嗅ぎ、尻尾を振ったあと、亮介の足元に腰を下ろした。
「麦は、ここに残したい」
亮介はすぐには答えなかった。真琴は用意してきた紙を開いた。
「医療費と保険料は、これからも分担する。帰国したときに会うのは、麦の生活時間や体調を崩さない範囲にする。私の都合で連れ出さない」
「わかった」
「海外から映像で見せてほしいって頼むかもしれない。でも、それで麦が落ち着かなくなるなら断って」
「そのときの麦を見て決めよう」
二人は曜日の取り分も、どちらの名義かも口にしなかった。麦がどこで眠り、いつ食べ、どうすれば穏やかに暮らせるかを基準に取り決めた。離婚してから初めて、会話の主語が自分たちではなく麦になった。
出発日の水曜日の朝、真琴は空港へ向かう前に店へ寄った。麦といつもの散歩道を短く歩き、店先へ戻る。リードの持ち手には、麦の歩調に合わせてできた小さな癖が残っていた。
真琴はそれを亮介へ渡し、しゃがんで麦の耳に触れた。柔らかな耳は手の中ですぐ温まった。
「元気でね」
立ち上がり、振り返らずに歩き出そうとした。けれど数歩で足が止まり、真琴は肩越しに店先を見た。
麦は真琴を見ていた。追いかけてはこなかった。亮介に促されると、慣れた足取りで店の中へ入り、奥の居場所へ戻っていった。
胸の奥に、遅れて痛みが広がった。呼べば来るかもしれないと思ったが、真琴は呼ばなかった。追ってこないことは拒絶ではなく、麦が安心できる場所を得た証しなのだと、その痛みごと受け取った。
空港へ向かう車内で、真琴はリードのなくなった手を握った。一緒にいる長さではなく、相手に適した居場所を選ぶ覚悟でしか測れない絆もある。窓の外へ流れていく街を見ながら、真琴は空になった手を、もう開かなかった。
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