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三月下旬、閉店まで一週間となった夕方、森川家の居間には段ボール箱が積み上がっていた。俊介はその隙間に座り、自転車店もこの家も手放すこと、再開発と借金の整理が終われば遠方の工場で働くことを、言い訳を削るような口調で説明した。
「工場の寮には犬を連れていけない。俺がハチを飼うのは無理だ」
向かいに座る真紀も膝の上で指を組んだ。別居後に結衣を迎えるため進めている転居先は勤務先に近いが、ペット不可だった。
「坂井さんの家なら庭もあるし、前からハチをかわいがってくれていたでしょう。つらいけど、それがいちばんいいと思う」
二人はすでに同じ結論にたどり着いていた。足元のハチだけが話の意味を知らず、結衣の膝に鼻先を押しつけてきた。
反対だと言えば、現実を知らない子どものわがままだと退けられる。そう思った結衣は何も言えず、赤い首輪を握りしめた。黙っているうちに、坂井夫妻が一週間後の午後に迎えに来ることまで決まった。
翌日、俊介に頼まれて店への連絡を調べるため端末を借りたとき、坂井家から譲渡時刻を確認するメッセージが届いた。結衣は既読にし、指が震えるまま、そのメッセージを消した。
夕食のあと、結衣は俊介に言った。
「お母さん、引っ越し先を変えるって。ハチを飼えるところにするらしいよ」
俊介は驚いたが、真紀へ確かめようとはしなかった。「そうか」とだけ答え、空になった食器を重ねた。
翌日の帰り道、結衣は真紀にも電話をかけた。
「お父さん、工場の近くで犬を飼える部屋を見つけたって。だからハチは連れていくって」
「寮に入るんじゃなかったの?」
「条件が変わったみたい」
短い沈黙のあと、真紀は「本人がそう決めたなら」と答えた。両親が互いに直接連絡することを避けているのを、結衣は知っていて利用した。
それでも、嘘だけにすがっていたわけではなかった。結衣は通学路で不動産情報を検索し、真紀の勤務先から通えるペット可住宅を探した。家賃の差額、初期費用、転校制度、週末に高校生を雇う店、朝夕の散歩と動物病院への通院にかかる時間まで調べ、学校の図書室で印刷した。
だが、それを両親に見せることはできなかった。転校も部活動も諦めると口にした瞬間、できるはずがないと拒まれる気がした。資料は通学鞄の底へ押し込み、二つの嘘だけを両親のあいだに立たせた。
譲渡前日の夜、真紀が荷造りを手伝いに来た。居間の隅にハチの食器や未開封の餌が残っているのを見て、眉をひそめた。
「明日連れていくなら、俊介さんはどうして何も準備していないの?」
「店の片づけで忙しいだけだよ」
「明日の朝、本人に確認する。大事なことなんだから」
俊介は閉店作業のため、まだ自転車店にいた。明朝、真紀が電話をすれば二つの嘘は終わる。結衣は、ハチが一時的にいなくなれば、譲渡も確認も延期できると考えた。
夜の散歩から戻ると、結衣はハチを庭へ入れ、門の掛け金を最後まで下ろさなかった。風が吹けば外れると分かっていたが、ハチは遠くへ行かない、すぐに見つければいいと自分に言い聞かせた。
玄関へ入ってしばらくすると、外で金属の触れ合う音がした。風で門が開き、物音に耳を立てたハチが庭から夜道へ抜け出したことに、結衣は気づかなかった。
三十分ほどして、真紀が水を替えようとしてハチがいないことに気づいた。空の庭と開いた門を見た瞬間、結衣の胸を、想像していなかった恐怖が貫いた。
「ハチ!」
サンダルのまま外へ飛び出そうとする結衣を、真紀が呼び止めた。警察と俊介に連絡し、二人は実家の前で別れて捜すことにした。
ハチは暗い道を走り、やがて川沿いへ出ていた。家族四人がまだ同じ家で暮らしていた頃、休日になると歩いた道だった。川に沿って進み、角を二つ曲がれば、俊介の自転車店がある。
半分下ろしたシャッターの前で爪の音がしたとき、店内では俊介が工具を箱に詰めていた。外をのぞくと、ハチが荒い息をしながら立っていた。俊介は駆け寄って首輪をつかみ、濡れた背を抱え込んだ。
その直後、川沿いから結衣が走ってきた。反対側の道からは真紀も駆け込み、避け合っていた二人は閉店前の自転車店で顔を合わせた。
「見つかったならよかった。真紀、今夜はそのままハチを連れて帰ってくれ」
俊介が言うと、真紀は息を整えながら首を振った。
「どういうこと? あなたが工場の近くで飼うんでしょう」
「俺は、君が引っ越し先を変えたと聞いた」
二人の視線が同時に結衣へ向いた。そのとき、俊介の端末が鳴った。坂井家からで、明日の午後、予定どおり迎えに行ってよいかという確認だった。
俊介が通話を終えると、店内にはハチの息遣いだけが残った。結衣は逃げるようにうつむいたが、もう両親のあいだに隠れる場所はなかった。
「私が言ったの。お父さんにはお母さんが飼うって、お母さんにはお父さんが飼うって。坂井さんのメッセージも消した」
「門は?」と俊介が聞いた。
結衣の喉が詰まった。それでも、首を振ってごまかすことだけはできなかった。
「わざと、ちゃんと閉めなかった。いなくなれば、明日の話が延びると思って……遠くには行かないと思った」
俊介の顔から怒りより先に血の気が引いた。
「車にひかれていたかもしれない。ハチの命を交渉の道具にした人間には、任せられない。明日は予定どおり坂井さんに渡す」
結衣は反論できなかった。店の奥から古いタオルを取り、ハチの濡れた足を一本ずつ拭いた。自分が望んでいたのは一緒に暮らすことではなく、そのための家も金も時間も、誰かに用意させることだったのだと、初めて気づいた。
翌朝、坂井夫妻が迎えに来る数時間前、結衣は両親を居間に呼んだ。通学鞄の底から折れた資料を取り出し、段ボールの上へ一枚ずつ広げた。
「お母さんの勤務先まで電車で通えるペット可の部屋。今の契約予定のところより家賃は月にこれだけ高い。初期費用も増える。私はこの地域の高校へ転校して、部活を辞める」
結衣は時刻を書き込んだ表も置いた。朝六時からの散歩、帰宅後の散歩、餌、掃除、予防接種、病気になったときの通院時間が並んでいた。
「週末はこの店で働ける。家賃の差額を全部は出せないけど、一部と餌代は払う。医療費はこれくらいかかる。私だけで無理な分を、どう分けられるか相談したい」
俊介は腕を組んだまま、黙って資料を見ていた。真紀は候補の住宅から勤務先までの経路と、毎月の収支を何度も見比べた。
「嘘を帳消しにしてほしいんじゃない。信用が戻るまで、散歩した時間も使ったお金も毎日共有する。できなかった日は隠さない。だから、もう一度だけ話し合ってください」
真紀は、通勤時間が今より増えることと住居費の差額を計算した。俊介は工場の給与から出せる医療費と、緊急時に戻れる日を確かめた。やがて俊介は坂井家へ電話をかけ、結論を午後まで待ってほしいと頼んだ。
話し合いは、誰がハチを所有するかではなく、誰がどの負担を続けるかという形に変わった。真紀は契約予定だった住居を断り、通勤時間が増えても結衣の見つけたペット可住宅へ移ると決めた。
結衣は転校し、部活動を辞め、朝夕の散歩と週末のアルバイトを引き受けた。俊介は工場の給与から毎月ハチの医療費を送り、月に一度帰る日は朝から夕方まで世話をすると約束した。
三人は費用、散歩、通院、緊急時の連絡先を紙に書き、それぞれ署名した。それから坂井夫妻に事情を説明して謝罪し、譲渡を取りやめてもらった。
一か月後、母と結衣が移ったペット可住宅の周りには、まだ歩き慣れない道が続いていた。朝の散歩でハチは何度も立ち止まり、家族の顔を確かめるときのように結衣を振り返った。
以前の結衣なら、行きたい方へリードを引いていたかもしれない。けれど今は、ハチが不安そうに止まるたびに足を止めた。追いついたハチの歩幅に合わせ、二つの家のあいだにできた新しい道を、同じ速さで歩き始めた。
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