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六月初旬の夜、マンションの集会室で、高瀬一郎は苦情件数をまとめた一覧表を配った。鳴き声が月に十一件、無断利用が六件、フェンスの劣化が三か所。六十五歳の元銀行員らしく、一郎は数字の並びに乱れがないことを確かめてから口を開いた。
「一週間後の臨時総会に、ドッグランの閉鎖と駐車場への転用を提案します。新設できる二区画の収入は、修繕積立金に回せます」
理事の大沢修が大きくうなずいた。一方、ドッグランに面した住戸の藤井健太は、閉鎖には賛成だが、決定までまだ一週間もあるのかと渋い顔をした。
「午前中の会議で鳴かれると、相手先にまで聞こえるんです」
木村静江も、入口が共用通路に近すぎると訴えた。幼いころ犬に追われて以来、小型犬でも近づいてくれば足がすくむという。
一郎は苦情の内容を手帳に書き足した。このマンションの住戸を近く売るつもりの彼にとって、騒音も傷んだ設備も、価格を下げる項目だった。
「閉鎖までの一週間、利用実態を記録します。感情ではなく、事実を根拠に判断していただきます」
すると、夜勤前の看護師、佐伯美咲が手を挙げた。
「そこまでおっしゃるなら、現場を見てください。夜勤が続くので、一週間だけ、マルの朝の散歩をお願いできませんか」
犬が苦手な一郎は、露骨に眉を寄せた。しかし、利用状況を直接観察できるという言葉には抗いがたかった。
「七日間だけです。排泄物の処理方法は、紙に書いてください」
翌朝六時半、一郎はポメラニアンのマルに引かれ、中庭のドッグランへ向かった。小さな体のどこに力があるのか、リードは銀行の窓口にできた月末の列よりまっすぐ張っていた。
ところが入口を入った途端、マルはフェンスの下部で立ち止まった。青い結束帯を見つめ、四本の脚を踏ん張って動かない。
「散歩というのは、歩くものだろう」
一郎が引いても、マルは尻を地面につけた。そこへ、脚の悪い老犬ハナを連れた塚本良平がやってきて、緩んでいた青い結束帯を締め直した。
「これでよし。ハナは小さいから、下の隙間を抜けるんです。みんなで毎朝、ここを見てましてね」
結束帯が所定の位置に収まると、マルは突然駆け出した。一郎はよろめき、辛うじてフェンスにつかまった。
「先に言っていただきたい」
一郎は息を整え、手帳に「フェンス下部、無許可の仮補修」と記した。塚本の善意より、管理規約にない処置であることのほうが、彼には重要だった。
散歩を始めて三日目の朝、ドッグランには何人もの住民が出入りしていた。夜勤明けの佐伯は自分のマルではなく、森下奈緒の犬を連れて戻ってきた。
三歳の息子を抱いた森下が、眠そうな佐伯に声をかけた。
「お昼からは私がマルちゃんを見ます。昨日みたいに、そのまま寝てください」
「助かる。明日の早朝は、そっちの子を私が散歩させるから」
塚本も、通院日の午後だけハナを見てもらえないかと二人に頼んだ。佐伯と森下は、慣れた調子で時間を割り振った。
一郎の記録では、同じ利用者が長時間ドッグランを占有していることになっていた。だが実際には、夜勤、育児、通院の穴を埋めるため、犬と当番が次々に受け渡されていたのだ。
マルが一郎のズボンに前脚をかけ、淡い毛をたっぷり残した。一郎は顔をしかめながら、手帳の「滞在」という文字を二重線で消し、「引き継ぎ」と書き直した。
五日目の午前九時、数匹の鳴き声が重なった。直後、ドッグランに面した窓が開き、ヘッドセットを首に掛けた藤井が顔を出した。
「今、会議を止めたんです。これが毎日では仕事になりません」
同じころ、共用通路を歩いてきた木村が、マルの姿を見て足を止めた。入口の前を通り抜けられず、壁に手を添えて後ずさりし、遠回りして建物へ戻っていった。
一郎は手帳を開いた。騒音と通行上の支障。閉鎖の正当性を示す項目が、二つ同時に増えたはずだった。
しかし森下が、泣き出した息子をあやしながら言った。
「静かにする時間を決めるなら、私たちは守ります。いつなら駄目なのか、今は分からないんです」
藤井も窓越しに、少し声を落とした。
「終日なくせと言いたいわけじゃありません。平日の午前、会議が集中する時間だけ静かなら、かなり違います」
一郎は、苦情にも時刻があるのだと思った。木村が犬と鉢合わせしない時間と通路を求めていることも、閉鎖という一語だけでは記録できなかった。
七日目の早朝、前夜の強い風で青い結束帯が切れていた。フェンスの下には、小型犬なら頭を差し込めるほどの隙間が開いていた。
マルはいつもの場所で座り込み、一郎が促しても動かなかった。そこへ遅れてきたハナが、頼りない脚取りで隙間へ向かった。
「塚本さん、リードを」
一郎はとっさに身をかがめ、腕で隙間を塞いだ。備品箱を探ると予備の青い結束帯があり、彼は慣れない手つきでフェンスを締めた。
留め具がかちりと噛み合うと、マルは一度だけ一郎を見上げ、勢いよく駆け出した。追いかけながら、一郎は初めて、その青が規約違反の印ではなかったと気づいた。
誰かの見落としを、別の誰かが朝ごとに補う。その習慣をマルまで覚え、安全が戻るのを待っていたのだ。
一郎はその日の閉鎖提案書を鞄から出さなかった。代わりに、午後から住民の部屋を一軒ずつ回った。
藤井は、平日の九時から正午までが最も静音を必要とする時間だと説明した。犬の声そのものが嫌いなのではなく、取引先との会議で信用を失うことを恐れていた。
木村は玄関先で、幼いころ追ってきた犬の大きさも色も覚えていないと話した。ただ、入口付近で突然犬と向き合うと、今でも体が動かなくなるという。
「利用時刻が分かって、入口が見えにくくなれば、別の通路を選べます」
大沢は集会室で試算表を広げた。駐車場収入がなければ、将来の大規模修繕で管理費を上げることになると譲らなかった。
夜、一郎は佐伯、塚本、森下にも集まってもらった。
「存続を望むなら、負担も必要です。防音柵とフェンスの改修費の一部を、飼育世帯の追加負担にできますか」
佐伯たちはすぐには答えなかった。それでも、ドッグランを生活の支えとして使っている以上、自分たちだけ無料というわけにはいかないと、最後には同意した。
一郎は平日午前を静音時間とし、小型犬とその他の犬で予約枠を分ける案を作った。防音柵と隙間のないフェンスを設け、入口には目隠しを置き、利用時刻を通路側にも掲示する。駐車場にした場合の収入との差額、飼育世帯の追加負担、改修後の苦情件数を半年ごとに検証する方法まで表にした。
一週間後の夜、臨時総会は最初から荒れた。大沢は、駐車場収入を捨てれば修繕費が不足すると訴え、飼育住民は、あの場所がなければ夜勤や育児、通院を支え合えないと反論した。
一郎は改修案の収支表をスクリーンに映した。数字を説明し終えても着席せず、手元の資料を伏せた。
「先に、私自身の利害を申し上げます。私はこの住戸を売却する予定でした。資産価値を上げたいという都合から、ドッグランの閉鎖を急いでいました」
室内が静かになった。一郎は、無断の長時間利用と見えたものが犬の引き継ぎだったこと、苦情を出す側も終日閉鎖だけを望んでいるわけではなかったことを話した。
「数字は必要です。しかし、聞く相手を選べば、数字はいくらでも自分に都合のよい正しさになります。この案にも負担はあります。半年ごとに結果を検証し、守られなければ見直します」
票決は僅差だった。改修案の可決が告げられると、佐伯は息を吐き、藤井は静音時間の欄をもう一度確かめた。木村は目隠しの設置図に指を置き、大沢は収支表を畳みながら、「検証は厳密に」と念を押した。
駐車場への転用は撤回された。一郎は住戸の売却を延期し、改修後の運用を見届けるため、理事長を続けることにした。
改修を終えた秋の朝、新しいドッグランには防音柵と隙間のないフェンスが立ち、入口には時間枠を示す札が掛かっていた。マルは、かつて青い結束帯があった場所で一瞬だけ鼻を動かした。
だが、もう座り込まなかった。金色の毛を揺らし、ハナの横を抜けて走り出した。
佐伯がリードを受け取りながら言った。
「長い一週間でしたね。もう散歩当番は交代します」
一郎は手帳を開いた。利用記録の隣には、住民から聞いた時刻や事情が、数字より細かな文字で並んでいた。
「火曜の朝は空いている」
マルが戻ってきて、一郎のズボンに前脚をかけた。今度の一郎は毛を払わず、時間枠の札を正しい位置に直してから、リードを受け取った。
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