暗室の巾木

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相原写真館のスタジオで、奈津はチワワのココへ向けて小さく指を鳴らした。ココが耳を立てた瞬間にシャッターを切ると、椅子に腰かけた美紀の頬もわずかに緩んだ。

「いい表情です。審査用の見本には、こちらを使わせてください」

奈津は明るく言い、カメラを下ろした。受付の机には、今朝届いた支払い督促の封筒が伏せてある。明日の卒業アルバム選定で母校との契約を逃せば、母から継いだこの店は畳むしかなかった。

撮影の合間、ココは床へ降りると暗室へ向かった。棚の陰に鼻先を差し入れ、緩んだ巾木の一か所を執拗に嗅ぐ。前回、美紀が下見に来たときも同じだった。

「そこ、何かあるのかな」

「古い薬品の匂いでしょう。犬にはきついのかもしれません」

奈津はココを抱き上げ、巾木を見ないまま暗室の扉を閉めた。腕の中の小さな体はなおも扉のほうへ首を伸ばしていた。

正午、美紀は受付のモニターで見本写真を選び終えると、膝の上のココを撫でながら言った。

「文化祭のときのこと、覚えてるよね」

奈津は選択済みの画像を保存するふりをした。十八年前、衣装の縫い目が裂け、下着が見えるのを両手で押さえてうずくまった美紀。そこから先を、奈津は長いあいだ、騒がしい青春の一場面として思い出すことにしていた。

「みんな、悪ふざけで浮かれてたから。私も頼まれてシャッターを押しただけで」

「私はやめてって言った。顔も隠した。それでも奈津は撮った」

「写真を回したのが誰だったかまでは、もう覚えてない。何人も焼き増ししてたんじゃなかった?」

美紀は奈津を見た。その視線には怒りよりも、長く同じ場所に置き去りにされた者の疲れがあった。

「謝ってほしいんじゃない。私の記憶を、なかったことにしないで」

奈津は答えられなかった。美紀一人に契約を決める権限はないが、業者の信頼性は審査項目に入っている。認めれば店を失い、認めなければ、この場だけは切り抜けられる気がした。

午後、撮影道具を片づけている最中に雷が鳴った。ココは美紀の腕から飛び降り、開いていた暗室へ駆け込んだ。

棚と壁の隙間へ潜った直後、短い悲鳴が上がった。首輪の金具が緩んだ巾木に挟まり、ココは喉を引かれて身動きできなくなっていた。

「引かないで。体を支えて」

奈津は美紀にココを抱えるよう頼み、棚をずらした。釘抜きを差し込む手が震えたが、ためらえば犬が傷つく。古い板が軋み、巾木は釘ごと壁から外れた。

ココの首輪が解放されると、美紀はすぐに抱き上げた。喉や脚に傷がないか確かめるため、美紀がココを受付へ連れていく。その背後で、巾木の裏から褪色した封筒が床へ落ちた。

奈津はしゃがみ込み、封筒を開いた。中からネガとコンタクトシートが滑り出した。

小さなコマには、破れた衣装を押さえる美紀が写っていた。次のコマでは顔を覆い、その次ではレンズへ手を伸ばしている。それでも撮影は続き、余白には奈津の筆跡で、焼き増しの枚数と渡した相手の印が記されていた。

頼まれて一度だけ撮ったのではない。拒絶を見ながら撮り続け、面白がられる写真を自分で選び、自分で配った。その順序が、十八年間暗がりに押し込めたままの形で残っていた。

奈津はネガと紙を封筒へ戻し、エプロンの内側に隠した。ほどなく美紀がココを抱いて戻ってきた。

「何か落ちた音がしたけど」

「湿った古い紙くず。捨てた」

言葉は驚くほど滑らかに出た。美紀は外された巾木と奈津の顔を見比べたが、何も言わなかった。

その日の深夜、閉店後の暗室で、奈津は封筒を金属製の現像皿に置いた。ライターの火を近づけると、紙の端が黒く縮れた。

これがなくなれば、証明はできない。明日の審査で価格と技術だけを見てもらい、契約を取り、店を残せる。母の看板も、自分の仕事も、まだ守れる。

火はコンタクトシートの端へ移った。焦げの内側に、美紀が顔を覆いながら手を伸ばす像が並んでいる。その手が止めようとしていたのは、十八年前のカメラだけではないように見えた。

奈津は当時の暗室を思い出した。焼き上がる写真を囲んだ笑い声と、自分が枚数を書き込んだ鉛筆の感触。誰かに頼まれただけではなく、皆が欲しがるものを持つことに浮かれ、自分から焼き増した。

奈津は濡らした布を現像皿へかぶせ、火を消した。原版を焼いても加害は消えない。ただ、美紀が自分の記憶を事実として示すためのものが失われる。それは昨日までではなく、今この瞬間にも、美紀から事実を奪う行為だった。

焦げた封筒の中身を新しい保存袋へ移した。奈津は受付の机に座り、何度も書き直していた言い訳をすべて捨てた。撮影したこと、焼き増ししたこと、配ったこと、隠したこと、そして今日も嘘をついたことを、一つずつ告白文に記した。

翌朝、母校の会議室で最終審査が始まった。選定委員たちの前には各業者の見積書と見本アルバムが並び、美紀はPTA代表の席に着いていた。

奈津は提案資料を開いたが、用意した説明を始めなかった。

「写真の品質についてお話しする前に、訂正しなければならないことがあります」

委員たちが顔を上げた。奈津は紙を握りしめず、机の上へ置いた。

「十八年前、私は田辺美紀さんがやめてほしいと拒んでいるのに写真を撮りました。その写真を自分で焼き増しし、同級生に配りました。原版と記録を店の暗室に隠し、昨日それを見つけたのに、古い紙くずだったと嘘をつきました」

会議室が静まり返った。奈津は美紀を見て同意を求めることも、救いを求めることもしなかった。

「皆でやったことだと言ってきましたが、撮影と焼き増しと隠蔽は私がしたことです。写真そのものは、ここでは公開しません。田辺さんをもう一度傷つけることになるからです。ただ、経緯を記したこの文書を、学校と同窓会の記録に残してください。責任は私にあります」

委員から、在校生の写真と個人情報を任せる業者として信頼できないとの意見が出た。美紀は発言せず、奈津も弁明しなかった。審議の末、相原写真館は不採用となった。

審査会が終わると、奈津は会議室前の廊下で美紀を呼び止めた。新しい保存袋に入れたネガと、端の焦げたコンタクトシートを差し出した。

「これはあなたのものだと思う。残すか、捨てるか、私が決めてはいけない」

美紀は袋を受け取った。透けて見える像には目を落とさず、両手でまっすぐ持った。

「昨日も嘘をついた。ごめんなさい。許してほしいとは言わない」

長い沈黙のあと、美紀は保存袋を胸元へ引き寄せた。

「今は無理。でも、いつか話せるかもしれない」

それだけ言って、美紀は廊下を去った。奈津は追わなかった。その言葉を許しの約束へ言い換えることもしなかった。

三週間後の夕方、相原写真館から最後の機材が運び出された。契約を失ったあとの資金繰りは続かず、奈津は看板を外し、店の鍵を返す準備を終えた。

空になった暗室には、棚があった跡と、巾木を外した部分だけが白く残っていた。外した板は壁に立てかけたままにした。新しい板で塞ぎ、何もなかったように見せることはしなかった。

奈津は受付に鍵を置いた。店を守れなかった痛みは消えず、美紀に許されてもいない。それでも十八年前のことを、もう青春の悪ふざけとは呼ばなかった。

看板のない入口から外へ出ると、奈津は振り返らずに扉を閉めた。隠していた場所は空になったが、過去がなくなったわけではない。その事実を誰のものにもせず、美紀の記憶ごと残すことからしか、先へは進めなかった。

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