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    撮れ高の外側

    動画制作会社で契約社員として働く梨沙は、モニターの中の柴犬を見ていた。ムギという名のその犬は番組の看板で、提携する管理会社から撮影のたびに連れてこられる。

    赤いマントを差し出されると、ムギは一歩退いた。鼻先をなめて右へ顔を向ける。そちらにはセットの出口があった。画面の外から衣装係の腕が伸び、マントを背中に載せると、ムギは目を見開いた。

    梨沙は後退した二秒を削り、目を見開いた瞬間に星形のエフェクトを重ねた。

    「大喜び!」

    白い文字を弾ませて歓声の効果音を足す。三十秒の動画を書き出し、社内チャットへ送ると、すぐに社長の大場から親指の印が返ってきた。

    「今月も数字がよかったら、契約更新を前向きに考えるから」

    背後を通りながら大場が言った。梨沙は椅子を回しかけたが「ありがとうございます」とだけ返した。

    公開から一時間で再生数は十万を超えた。コメント欄には「喜んでる」「もっと衣装を見たい」という言葉が流れている。梨沙は数字の増える管理画面を開いたまま、編集画面の隅に残る元映像の音声を見た。切り落とした二秒にも、スタジオの拍手が入っていた。

    撮影の日、ムギは照明が点くたびにセットの隅へ移った。そこには以前、通路があったが、今はライトの脚と衣装箱が置かれている。犬が通れるほどの隙間はなかった。

    「そこから抜けられると画に入らないから」

    大場はスタッフに箱を寄せさせた。ムギが箱の前で止まると、撮影係が床を叩いて中央へ呼んだ。

    編集席にいた梨沙は、一度だけ声をかけた。

    「少し休ませたほうがよくないですか」

    大場はカメラから目を離さなかった。

    「休んでいる時間は使えないでしょ。間が悪いところは残さなくていいから」

    撮影後、梨沙は会社の決まりどおり元映像を社内サーバーへ保存した。ファイルが開けることだけを確かめ、内容を見直さずに画面を閉じた。

    動画が二本続けて伸びると、週一回だった収録は三回に増えた。録画だけでなく生配信も始まり、音の出る玩具や派手な衣装が用意された。観客役として雇われたアルバイトが、カメラの後ろで手を叩いた。

    ムギは玩具が鳴るたびに首を引き、床のにおいを嗅ぎながら端へ移った。衣装係が進路に膝をつくと別の方向へ向かうが、その先にもスタッフが立っていた。

    「せめて撮影の間を空けませんか」

    梨沙が進行表を持って大場の席へ行くと、大場は翌月の契約書を机の端に置いた。署名欄はまだ空白だった。

    「梨沙さん、うちの動画を転職用の作品集に使いたいんだよね」
    「はい」
    「だったら伸びている時に止める理由はないよね。編集で不安に見せることも、消すこともできるんだから」

    大場は契約書の上にスマートフォンを置いた。梨沙は進行表を二つ折りにして席へ戻った。

    家賃の引き落としまで九日だった。求人サイトで同じくらいの賃金の編集職を探すと、どれも実務経験三年以上と書かれていた。梨沙の経験は一年十か月で、その半分をムギの動画が占めている。

    生配信当日、セットの床には黄色いテープで立ち位置が示されていた。ムギは開始前からテープの外に立ち、出口へ体を向けていた。

    配信が始まると、大場が赤いマントを掲げた。観客役が歓声を上げ、音の出る玩具を鳴らす。ムギはセットの端まで下がり、ライトの脚の間へ鼻先を入れた。スタッフが腰を落として中央へ押し戻した。

    「こっちを向かせて。参加者さんが入るよ」

    参加者は抽選で選ばれ、犬と触れ合うために招かれた視聴者だった。笑いながらムギの正面にしゃがむと、大場が「仲直りの握手」と声をかけた。参加者はムギの頭へ手を伸ばした。

    ムギは後ろへ下がったが、後ろ足が衣装箱に当たって止まった。顔をそむけても手は近づいてくる。白い歯が短く見え、参加者の袖が引かれた。

    布が裂ける音のあと、スタジオは静かになった。

    参加者の腕に傷はなかった。裂けた袖を押さえ、驚いた顔で立っている。ムギは箱とライトの脚の間に体を寄せていた。

    配信はその場で中断された。

    その夜、大場は梨沙の机に映像ファイルを置いた。

    「参加者さんが急に触ったところから使って。最後に、犬への接し方に注意しましょうと出して」
    「スタッフが押し戻したところは入れないんですか」
    「いらない。事故とは関係ないから」

    さらに翌日の予定表が届いた。題名は「ご心配をおかけしました」で、出演欄にはムギの名が残っていた。

    「またムギを出すんですか」
    「無事な姿を見せないと余計に騒がれる。今日の袖も借りたから、同じ場面を再現して説明する」

    梨沙は指示どおり釈明動画を作った。参加者の手が伸びる直前から始め、袖が裂けたところで止める。注意書きを載せ、穏やかな音楽を敷いた。書き出しは九十九パーセントまで進んだ。

    送信ボタンの上でカーソルを止めたまま、梨沙は社内サーバーを開いた。

    最初の収録まで遡る。照明が点くとムギが端へ移る。衣装を差し出されると顔をそむけ、出口を見る。人が回り込むと動きを止める。

    別の日も、その次の日も同じ順序だった。梨沙が公開版から削った場面だけを並べると、長い一本の映像になった。日付が変わるにつれて衣装と玩具が増え、途中から出口の前には機材が置かれていた。

    公開された動画では、ムギは突然目を見開き、突然飛びのいたあと、次の場面では中央に戻っている。その間を削ったのは梨沙だった。動画が伸びるたびに配信は増え、音は大きくなり、周りに立つ人数も増えた。

    完成した釈明動画が自動で再生された。画面の中では参加者の手だけが突然現れ、袖が裂けていた。

    梨沙は再生を止めた。

    午前零時を過ぎると、翌日の進行表が更新された。事故の時と同じ黄色いテープと赤いマントを使い、裂けた袖を見せてから参加者役が手を伸ばす。その手順の脇に「前回以上に明るく」と赤字で書かれていた。

    梨沙は大場へ電話した。

    「ムギを出演から外してください。少なくとも明日は」
    「その話なら終わったよ」
    「釈明動画を出せば、明日の撮影も安全だと認めることになります」
    「安全に見せるのが仕事でしょ」
    「見せ方の話ではありません」
    「契約社員が配信を止めたら、どうなるかわかってる?」

    梨沙は机の端に置かれた更新前の契約書を見た。署名欄は空白のままだった。

    「わかりません。でも、この動画は納品しません」

    電話を切り、配信の管理画面を開いた。梨沙には完成した動画を差し替えるための操作権限があり、配信予約の停止もできた。翌日の予約を選んで「停止」を押すと、確認画面が二度出た。梨沙は二度とも承認した。

    次に元映像が削除されないよう、社内の保存手続きを行った。理由には「事故の確認のため」と記した。未編集の映像、撮影指示のチャット、進行表、公開版との比較表を一つずつ登録する。発行された受付番号を添え、取引先の相談窓口と、動物を扱う会社を監督する自治体の窓口へ連絡した。

    経緯を説明する文書の最後で手が止まった。

    「指示により削除した」と書いたあと、梨沙は読み返して主語を直した。

    「私は、ムギが距離を取ろうとする場面を繰り返し削除した。撮影の間を空けるよう一度提案したが、拒否されたあとは異議を引っ込めた」

    送信すると、事務所には空調の音だけが残った。

    朝になると、大場が梨沙の机まで来た。

    「権限を越えた操作だ。今日で契約解除。追加報酬も確認が終わるまで払えない」

    梨沙は社員証を外し、ストラップを巻きつけて机に置いた。仕事を紹介する会社からは、決まっていた面談を見送るというメールが届いた。大場からの文面には、損害賠償を求める可能性があると書かれていた。

    一方で取引先は、梨沙が送った受付番号から保存済みの資料を確認し、広告の配信を止めた。番組は調査が終わるまで休止となり、翌日のセットは組まれたまま、カメラの電源だけが落とされた。

    退館までの一時間で、梨沙は私物を紙袋へ入れた。面接用の作品集を開き、最も再生された三本を外す。空いたページには短い文書を入れた。どの場面を削り、その編集が撮影回数や演出にどう影響したか。配信を止めて資料を提出し、契約を失ったことも書いた。自分を正当化する言葉は加えなかった。

    エレベーターを降りると、スマートフォンが続けて震えた。契約解除の通知、報酬を保留する連絡、相談窓口の予約確認が並んでいる。今の家賃では翌月から足りない。梨沙は駅から遠い部屋を検索し、最初に出てきた一件を保存した。

    予定されていた謝罪配信の開始時刻を五分過ぎても、番組の通知は来なかった。

    代わりに自治体の窓口からメールが届いた。現場を確認するまでの措置として、ムギは撮影場所から外され、提携先の飼育担当者のもとへ戻されたと書かれていた。

    梨沙は自動ドアの前で画面を閉じた。

    扉が左右に開き、夕方の風が紙袋の口を鳴らした。胸の奥から長く息が出る。そこで初めて、ずっと浅い呼吸をしていたことに気づいた。

    次の仕事は決まっていない。保留された報酬が支払われる保証もない。背後のビルでは、梨沙が切り落としてきた場面が調査の資料として再生されている。

    自動ドアが閉まり始めた。梨沙は立ち止まらず、開いているうちに外へ出た。