六時半の食卓

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父の四十九日を終えて数日後、定食屋「みずの」の食卓には、焼き魚定食の皿が並んでいた。奈緒は最後の一膳を運ぶと、父の常連たちを見回した。

「今月末で、定食屋としての営業は終わります。改装後は予約制のビストロになります」

箸を止めた客が、献立札を見上げた。

「この焼き魚も食えなくなるのか。朝定食も?」

「朝はやりません。これだけ品数を出して、この値段では採算が合わないんです」

「親父さんは、それでもやってた」

「だから借金が残ったんです」

口にしてから、奈緒は奥歯を噛んだ。だが謝らなかった。都市部のレストランで身につけた技術を、安い定食で使い潰したくはない。父の娘だからではなく、一人の料理人として評価されたかった。

窓際の席で図面を広げていた黒田直樹が、客が帰ったあとに言った。

「厨房を縮めて客席の間隔を取る。朝営業は廃止。客単価を上げる。契約どおりですね」

「はい」

奈緒が答えると、黒田は契約書の違約金条項を指で押さえた。

「途中で方針を変えられると困ります」

奈緒は署名を確かめるように見つめ、うなずいた。

黒田が帰ると、壁から古い献立札を外した。焼き鮭、肉豆腐、卵焼き。父の太い文字が、油じみた壁に白い跡だけを残した。

入口では、父の飼っていたトイプードルのコマチが立っていた。長い脚を伸ばし、散歩紐の掛かった柱を見上げている。

「今日はもう遅いよ」

奈緒が言っても、コマチは動かなかった。

翌朝六時二十分、閉店準備を始める前に、奈緒はコマチを外へ連れ出した。近所を一周するつもりだったが、コマチは最初の角で道を外れた。奈緒が紐を引いても、小さな体で踏ん張り、反対へ引っ張っていく。

「そっちは何もないでしょ」

コマチは振り返りもせず、閉鎖された印刷工場まで進んだ。正門には鎖が巻かれ、建物の窓は暗い。雑草の伸びた門前で、コマチはきちんと座った。

「帰るよ」

奈緒が促しても動かない。やがて午前六時半を知らせる町内放送が鳴った。コマチは垂れていた耳を持ち上げ、門の奥を見つめた。

「今日も親父さんを待ってるのか」

背後から声がした。作業着姿の男が、コマチの頭を撫でた。

「ご存じなんですか」

「印刷工場にいた佐藤です。親父さんとこで、ずっと朝飯を食ってました」

「店で?」

佐藤は閉じた門を指した。

「ここでですよ。聞いてませんでしたか」

七時ごろ、二人と一匹は工場近くの自動販売機脇にいた。佐藤は缶コーヒーを開け、夜勤明けの顔をこすった。

「六時半になると、親父さんが味噌汁の鍋と飯を運んできた。焼き物か煮物が一つついてね。コマチは食い終わるまで、そこの門で待ってた」

工場が閉鎖されたあと、工員の多くは近くの物流倉庫へ移ったという。勤務時間は以前と変わらず、夜勤明けや早朝勤務がある。だが倉庫の周りには、朝早く温かいものを食べられる店がなかった。

「親父さん、亡くなる前まで、頼まれた分だけ弁当を作ってくれてたんです。帳面にもつけてなかったんじゃないかな」

奈緒は眉を寄せた。借金があるのに、父はまた金にならないことをしていたらしい。けれど、佐藤が持っていた缶は温かくても、朝食にはならない。

「今も欲しい人がいるんですか」

「十人じゃきかないですよ。新しく入った連中も、食うところがないから」

奈緒は閉ざされた門を見た。コマチはまだそこに座っている。

「三日だけなら作れます。改装が始まるまで」

「本当ですか」

「需要を確かめるだけです。情で始めるわけじゃありません」

佐藤は笑わず、まっすぐうなずいた。

「じゃあ、注文を集めます」

三日後の午前五時、奈緒は父の献立帳を厨房に開いていた。十五食。焼き鮭、卵焼き、根菜の煮物。父の組み合わせは手数が多く、鍋も火口も塞いだ。

「これを毎朝、一人で?」

奈緒は呟きながら、鮭の火入れを変えた。卵焼きの出汁も調整し、煮物は煮崩れない温度で仕上げる。古い献立をそのまま再現するのは嫌だったし、自分ならもっとおいしくできるという意地もあった。

午前六時半、作業着姿の客が店先に集まった。弁当を受け取って帰る者もいたが、数人は閉店準備中の店内で蓋を開けた。

「鮭、ふっくらしてるな」

「卵も親父さんのより上品だ」

褒め言葉のはずなのに、父と比べられるたび、奈緒の胸には小さな棘が立った。それでも空だった食卓が埋まり、湯気の向こうで箸が動くのを見ると、厨房へ戻る足は軽かった。コマチは食卓の下に伏せ、客たちが食べ終わるまで静かに待っていた。

七時前、佐藤が注文票を持ってきた。

「別の班にも話が回りました。明日は三十食です」

奈緒は票を受け取った。喜びより先に、午前三時から仕込む自分の姿が浮かんだ。

試験販売三日目の午後、黒田が店に入ってきた。客席には使い終えた弁当容器と注文票が残っていた。黒田は一枚を拾い上げた。

「これは何です」

「朝弁当の試験販売です。注文は増えています。やり方を整えれば事業になるかもしれません」

「安い弁当を売る店に、高いコースを予約する客が来ると思いますか。ブランドを作る前から壊してどうするんです」

「必要としている人がいるんです」

「必要と、利益は別です」

黒田の言葉に、奈緒は反論できなかった。厨房に戻り、人を一人雇った場合の人件費を原価表へ加えた。父と同じ品数、同じ価格では、注文が増えるほど赤字が膨らむ。自分一人で作れば利益は残るが、睡眠と体力を削り続けることになる。

黒田は図面を畳んだ。

「契約どおり改装を続けるか、破棄して違約金を払うか。明日までに決めてください。両方はできません」

扉が閉まると、奈緒は誰もいない食卓に座った。高級店を選べば、六時半に食事を必要とする人たちを切り捨てる。父の献立を守れば、父と同じように借金を残す。

コマチが足元へ来て、膝に鼻先を触れた。

「お父さんのやり方じゃ、続かないよ」

コマチは答えず、厨房を見た。

その夜、奈緒は父の献立帳と自分の原価表を並べた。父が守りたかったのは、焼き鮭でも卵焼きでもない。働き終えた人が、朝六時半に温かいものを早く食べられることだった。

そう考えると、献立はほどけた。

奈緒は鶏肉と根菜を共通の仕込みにまとめた。レストランで覚えたフォンの取り方を和風の出汁に応用し、鶏肉は低温でまとめて火を入れる。同じ材料から、店内では温かな朝定食、持ち帰りには弁当とスープを作れる。弁当は事前注文制にし、仕込み量を予約数に合わせる。店内営業は午前六時から九時まで。

夜が明けるころ、原価表の数字はようやく黒字になった。大きな利益ではない。それでも、人を一人雇って続けられる数字だった。

翌朝、奈緒は黒田に新しい事業設計を見せた。

「高級ビストロの計画は破棄します」

黒田は表を一瞥した。

「違約金を払えば、借金は増えますよ」

「わかっています」

「料理人として名を上げる機会も失う」

奈緒は少し黙った。そこは、まだ痛かった。

「失うかどうかは、自分で決めます」

違約金を負う書類に署名した。手は震えたが、文字は崩れなかった。

一か月後の午前六時半、「みずの」の食卓には夜勤明けの客と出勤前の客が並んでいた。改装は壁と照明を直すだけにとどめ、看板も残した。厨房の鍋から、鶏肉と根菜のスープが次々によそわれていく。弁当は予約分だけが台の上に積まれていた。

佐藤がスープを飲み、息をついた。

「親父さんの味とは違うな」

奈緒の手が一瞬止まった。

「でも、朝に欲しかったのは、こういうものです」

奈緒はうなずいた。今度は、その言葉を褒め言葉として受け取れた。

借金は残り、違約金も返さなければならない。先の見通しが明るいとは言えなかった。それでも六時半の食卓には湯気があり、空腹の人が座っている。

奈緒は予約弁当を台車に積み、物流倉庫へ向かった。コマチが隣を歩く。

旧印刷工場の前まで来ると、コマチは閉じた門を見て足を止めた。町内放送が鳴り始める。

奈緒は台車を止めずに呼んだ。

「コマチ、行くよ」

コマチはしばらく門を見つめていたが、やがて奈緒のもとへ駆けてきた。一人と一匹は、六時半の音を背に、新しい配達先へ続く道を並んで歩いた。

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