排水溝の三分間

朗読動画でもお楽しみいただけます

この物語はYouTubeの朗読動画でもご覧いただけます。

午前七時四十五分、倉田澪の作業部屋には、何度も聞いた朝が流れていた。

――おはようございます。今日もこの町の一日が始まります。

自分で読んだナレーションの後ろに、素材集から選んだ小鳥の声が重なる。続いて食器の触れ合う澄んだ音。昨日録った住民の声からは言いよどみを切り、息継ぎを詰め、背後を走った自転車の音も消してある。

三分きっかり。音量差もない。なのに、どこにもこの町がいなかった。

澪は波形を指で広げ、住民の短い返事をもう一度再生した。

「朝は、まあ、忙しいですね」

その後にあった小さな咳払いも、遠くのシャッター音も、昨夜の編集で削った。代わりに台本どおりの鳥声を置けば、耳当たりはよくなる。よくなるはずだった。

端末が震え、地域ラジオ局の矢野から通知が届いた。

「公募作は本日午前九時締切。採用作は試用レギュラー枠で放送します」

澪は時刻を見た。八時七分。試用とはいえ、念願のレギュラー番組へつながる枠だ。ここで選ばれなければ、また局でケーブルを巻き、他人の番組をガラス越しに眺める日々へ戻る。

だが八時十五分からは、散歩代行の予約が入っている。澪は完成稿を端末へ移し、携帯録音機と編集用タブレットを鞄に押し込んだ。散歩中に、この町でしか録れない環境音を一つ足せばいい。そうすれば、きっと完成する。

午前八時二十分、澪はパン店近くの商店街脇を、ポメラニアンのモコと歩いていた。

録音機には、開き始めたシャッターの連なりと、通り過ぎる自転車のベルが入っていく。モコは音の鳴るボールをくわえ、白茶色の毛を弾ませていた。

締切まで、あと何分だろう。澪が片手で端末を確かめた瞬間、足元で、きゅ、と音がした。

モコの口から落ちたボールが、緩い坂を跳ねていく。澪が靴先を伸ばすより早く、ボールは道路脇の格子へ当たり、隙間から排水溝の底へ落ちた。

暗い下のほうで、きゅう、とかすかに鳴った。

「モコ、待って。あとで取ってもらおう」

モコは格子に鼻を押しつけ、甲高く吠えた。リードを引いても四本の脚を踏ん張り、ついには路面へ伏せ込む。締切まで四十分を切っていたが、澪一人では犬もボールも動かせそうになかった。

午前八時二十二分、新聞を積んだ自転車がそばで止まった。

「どうしました」

配達員の佐伯が手袋をはめたまま、排水溝をのぞき込む。事情を聞くと、荷台から細い紐をほどいた。

「引っかけられれば上がるかもな」

「トング、使います?」

声と一緒に、近くのパン店から奈々が走ってきた。開店準備の途中らしく、手には長いトングがある。店の奥ではタイマーが鳴っていた。

通りを担当する清掃員も足を止め、格子の下へ目を凝らした。

「これは簡単には外れないね。横から寄せましょう」

清掃員は火ばさみと小型のフックを取り出した。佐伯が紐の輪を下ろし、奈々がトングを差し込む。そのたび、モコが格子へ向かって吠えた。

「もう少し右です。あ、そっちじゃなくて、犬の右!」

「犬に実況されてるぞ」

紐が空振りし、三人の笑い声が重なった。新聞の束が擦れ、パン店のタイマーがもう一度鳴り、モコの声がその間を縫う。

澪は息を止めた。作業部屋で足していた鳥声より、ずっと鮮やかな朝だった。考えるより先に録音機を向け、録音ボタンを押していた。

「来た、今ちょっと動いた!」

「そのまま、そのまま。奈々ちゃん、挟める?」

「待って、先っぽが届かない!」

波形が次々と立ち上がる。声は重なり、音量はばらばらで、モコのひと吠えは大きすぎた。それでも澪には、今まで作ったどの部分よりよく聞こえた。

午前八時二十九分、澪は録音を止め、今の音を短く聞き返した。

これを三分にすればいい。古い作品を捨てても間に合うかもしれない。だが、その考えに続いて、昨日切り刻んだ住民の声が浮かんだ。

三人は、録られていることすら知らない。事情を知らせず声だけ持ち帰れば、また人を自分の意図に合う材料として扱うことになる。

端末の時計は無遠慮に数字を進めていた。澪は録音機を下ろした。

「あの、すみません。作業を止めてもらえますか」

三人が一斉に振り向く。モコだけが格子へ鼻を突っ込んでいる。

澪は地域ラジオ局の公募に出す三分番組を作っていること、今のやり取りを思わず録音したこと、採用されれば放送される可能性があることを説明した。言葉にするほど、黙って使おうとした自分の焦りがはっきりした。

「勝手に録って、すみません。使わせてほしいです。でも、嫌なら全部消します」

佐伯は手袋をはめ直し、新聞の荷台を見た。

「俺はいいよ。佐伯って名字も出して構わない。配達はちょっと遅れるけど」

奈々はトングを持ち上げて笑った。

「私もいいです。奈々で。ラジオに出るなら、もっといい掛け声にしようかな」

清掃員は少し考えてから、録音機を指した。

「声は使っていい。ただ、さっき名字で呼ばれたところと、勤務先が分かるところは出さないでください」

「分かりました。今、確認します」

澪は録音波形を戻し、名字が呼ばれた時刻と勤務先の名が入った箇所に印を付けた。削除することをその場で約束すると、時計は八時三十四分を示していた。

間に合う保証は、もうなかった。それでも澪は録音機を持ち直した。

「ここから改めて録ります」

「では救出隊、第二回戦!」

奈々の声に、佐伯が紐を構えた。清掃員が格子の隙間からフックを入れ、底にあるボールを少しずつ手前へ寄せる。

「来た。トングをまっすぐ」

「挟みました!」

「紐、添えるよ。落としたら犬に怒られる」

モコがその言葉へ返事をするように吠え、全員が笑った。澪はリードを片足に掛け、格子の脇へしゃがむ。片手に録音機を持ったまま、もう片方の手を排水溝へ伸ばした。

「せーの!」

声が重なった。

奈々のトングに挟まれ、佐伯の紐に支えられたボールが格子の上へ現れる。澪が濡れた表面をつかむと、きゅ、と短く鳴った。

モコが跳びついた。澪の手からボールを奪い、得意そうにもう一度鳴らす。三人と澪の笑い声へ、パン店の開店ベルが明るく重なった。

午前八時三十八分、澪は録音を止めた。

「ありがとうございました。録音も、ボールも」

佐伯は自転車へ戻り、奈々は店へ駆け込んだ。清掃員も道具を確かめて仕事へ戻る。澪は一人ずつに頭を下げ、モコを連れてパン店前のベンチへ急いだ。

午前八時三十九分。膝の横では、モコが救出されたボールを飽きずに鳴らしている。

澪はタブレットを開き、整えすぎた旧作を閉じた。鳥声も食器音も、滑らかなナレーションも使わない。新しい編集画面へ、排水溝で録った音を並べていった。

最初の無断録音部分は、使用に同意された発言だけを残した。清掃員の名字と勤務先が聞こえる箇所は切り、前後を何度も再生して、断片が残っていないことを確かめる。そのたびに残り時間が減った。

冒頭には、自分の声を短く入れた。

――午前八時二十分。散歩中の犬が、排水溝へボールを落としました。

それ以上は語らなかった。言葉の重なりも、笑い声も、モコの大きすぎる吠え声も均さない。佐伯の新聞が擦れる音、奈々の背後で鳴るタイマー、清掃員の落ち着いた指示を、そのまま朝の中へ残した。

最後は、全員の「せーの」から、濡れたボールのひと鳴り、笑い声、パン店の開店ベルまで。再生時間は三分ちょうどになったが、波形は不揃いで、音量差もある。

八時五十八分。澪の指は、送信ボタンの上で止まった。

旧作なら技術的な傷はない。こちらは危うく、粗く、誰かの言葉に別の誰かの声がかぶっている。けれど、そのかぶりを消したら、あの朝から誰かを追い出すことになる気がした。

澪は作品名の欄に「排水溝の三分間」と入力した。

午前八時五十九分、送信完了の表示が出た。直後、モコが足元でボールを鳴らした。

数日後の朝、澪は地域ラジオ局の収録ブースにいた。

ガラスの向こうで、番組担当の矢野が応募作の一覧を閉じた。

「音量差もあるし、雑音の整理には改善の余地があります」

澪の背筋が固くなる。

矢野は続けた。

「でも、誰がどんな朝を生きているのか、いちばんよく伝わりました。試用レギュラー枠は、倉田さんにお願いします」

喜びは少し遅れて胸へ届いた。澪は頭を下げながら、排水溝の格子と、そこを囲んだ四人の手を思い出した。

あの音は、偶然そこにあったものを拾っただけではない。立ち止まり、事情を話し、許可を求め、条件を聞き、自分も地面へしゃがんだから録れたのだ。

澪は新しい収録ノートを開いた。最初のページに、三行だけ書く。

録る前に名乗る。使い道を話す。相手の条件を聞く。

ノートと録音機を鞄へ入れ、澪は朝の町へ出た。道の向こうでシャッターが上がり、自転車のベルが鳴る。どれも以前からあった音なのに、今日は、そのそばにいる人の顔まで聞こえる気がした。

物語を、アプリで。

「犬と人の物語」はiPhone・Androidで読めます。アプリでできることや読書画面をご覧いただいてから、お使いのストアへ進めます。