開店前の焦げた匂い

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午前五時半、発酵室の扉を開けた瞬間、川瀬真帆は甘酸っぱい熱気に顔をしかめた。天板に並んだ生地はどれも輪郭を失い、隣同士でくっつくほど膨らんでいる。温度表示は設定を大きく超えていた。

予約分も含め、使える生地はなかった。店長不在の一週間を任されて三日目にして、廃棄数は真帆が責任者になってから最大になる。

「昨夜、最後に確認したのは森下君よね」

呼ばれた森下悠斗は、点検表を握ったまま青ざめた。入店して一か月の彼が担当した時間帯に、高温警報が出た履歴が残っている。しかも警報後の確認欄は空白だった。

「退勤するとき、表示は正常でした。警報音も聞いてません」

「でも、記録は残ってる。確認欄も書いてない」

真帆の声は、自分でも驚くほど硬かった。原因を見つけるより先に、損失を説明できる形にしたかった。責任者として認められるには、問題を長引かせてはいけない。

斎藤由紀が発酵室の奥へ目をやった。

「分電盤の音と関係ないですか。数日前にお知らせした、あの断続的な音」

真帆はすぐに首を振った。

「確証がないことを今は混ぜないで。まず記録どおりに確認する」

異音のことは覚えていた。斎藤から社内メッセージを受けた夜、真帆自身も分電盤の近くで小さな弾けるような音を聞いている。それでも修理費と休業を避けるため、翌月の定期点検まで様子を見ると決めたのは真帆だった。

午前六時十分、店舗奥の事務室から本部へ電話を入れると、エリアマネージャーの岡崎は警報履歴と点検表の画像を送るよう求めた。確認しているあいだにも、厨房では斎藤たちが廃棄する生地を数えていた。

「担当者の確認不足で処理してください」

岡崎は迷わなかった。

「始末書を出させて、開店までに報告書をまとめる。店長不在中の事故だからこそ、対応を早く終わらせないと、川瀬さんの評価にも関わりますよ」

真帆は報告書に、森下の担当時間、高温警報、確認欄の未記入を入力した。分電盤の異音について書こうとして指を止め、その行を消した。

「これ、書いて。開店準備はそのまま続けて」

真帆が始末書の用紙を差し出すと、森下は受け取ったものの、何も言わなかった。その沈黙に責められている気がして、真帆は画面へ目を戻した。

午前六時四十五分、開店十五分前になった。真帆が正面入口の表示を整えていると、散歩中の戸田澄江と、ミニチュアシュナウザーのムギが店の前へやって来た。

いつもならムギは扉へ鼻を寄せ、焼き上がりを待ちきれないように尾を振る。ところがその朝は、入口まで数歩のところで急に後ずさりした。戸田がリードを緩めても、前脚を踏ん張って近づこうとしない。

ムギは扉の下を遠巻きに嗅ぎ、喉の奥で低く鳴いた。

「どうしたの、ムギ。真帆さん、何か焦げていない?」

「廃棄になったパンの匂いかもしれません」

そう答えかけた真帆の鼻に、かすかな刺激臭が触れた。焼きすぎた小麦や砂糖の匂いとは違う。乾いたものが熱で溶けたような、薄い焦げ臭さだった。

午前六時五十分、真帆は戸田に礼を言って店内へ戻った。斎藤と売場から発酵室側へ臭いをたどると、分電盤に近い壁際ほど刺激が強くなった。

「開けない。今日は営業中止にする」

真帆は主電源を落とし、森下には入口へ休業の案内を出すよう命じた。予定どおり開店すれば損失を抑えられるという考えが一瞬浮かんだが、壁の中に残る熱を想像すると、扉を開けることはできなかった。

午前八時までに到着した電気業者は、分電盤周辺と発酵室脇の壁を調べた。やがて技術者が、焦げた被覆の一部を真帆たちへ示した。

「壁内の配線接続部が過熱しています。もう少し通電を続けていたら危険でした」

電圧が不安定になり、発酵室の温度制御装置が誤作動した可能性が高いという。警報履歴に時刻のずれがあるのも、その影響と考えられた。

森下が記録を見つめた。

「じゃあ、僕が温度を上げたわけじゃ……」

「主因は設備側です。少なくとも、個人の操作だけで起きた異常とは考えにくいですね」

技術者の答えを聞きながら、真帆は事務室に置いた始末書を思った。森下の空白だけを原因にした報告は、もう成り立たなかった。

午前九時半、真帆は業者の所見を岡崎へ伝えた。休業中の事務室は静かで、通話口から聞こえる岡崎の声だけが妙にはっきり響いた。

「配線不良を正式に出せば、予約客だけでなく取引先にも補償が必要になります。警報後の確認をしていない点では、森下君にも落ち度があるでしょう」

「でも、発酵室の誤作動は配線が原因です」

「報告書は個人の操作ミスのままでいい。配線は休業中に見つけた不具合として、予防修繕にします。そうすれば補償範囲を広げずに済む」

岡崎は一拍置いた。

「今週をきちんと収めれば、責任者候補としての評価には響かせません。何を優先すべきか、分かりますね」

真帆は返事を保留して電話を切った。守りたかった道が、目の前へ差し出されていた。その道を進むために必要なのは、新しい嘘ではなく、すでに書かなかった事実をそのまま伏せ続けることだけだった。

午前十時、休業中の売場では、森下が始末書を膝に置いていた。真帆が近づくと、彼は署名欄へペンを運んだ。

「僕がちゃんと確認していれば、休業まではしなかったかもしれません。店に迷惑をかけたのは事実なので」

その言葉に、真帆は足を止めた。森下は設備の判断も、修理予算も知らない。ただ空欄を一つ残したことで、店を休ませた責任まで引き受けようとしている。

真帆は事務室へ戻り、端末の設備記録を検索した。数日前の斎藤のメッセージが残っていた。

『分電盤から断続的な音がします。一度点検したほうがよくないでしょうか』

その下に、自分の返信がある。

『今月は修理予算が厳しいです。翌月の定期点検まで様子を見てください』

真帆は売場へ戻り、森下の手から始末書を引き取った。

「これは出さないで」

斎藤も見守るなか、真帆は岡崎との通話をつなぎ直した。業者の所見とメッセージの履歴を送付し、画面に送信完了の表示が出るまで目をそらさなかった。

「異音の報告は受けていました。点検を翌月まで延ばしたのは私の判断です。最初の報告書には、その事実を書きませんでした」

岡崎の声が低くなった。

「それを提出すれば、あなたの初動も調査対象になりますよ」

「承知しています。森下君の処分を撤回してください。予約客と取引先にも、設備不良を含めて正式に説明していただきます」

通話を終えたあと、森下は真帆を見たが、礼は言わなかった。真帆も、それを求める資格はないと思った。

翌日のオンライン面談で、会社は配線不良を認め、森下の処分撤回と予約客、取引先への補償を決めた。一方で真帆には、点検延期と初動報告で事実を伏せた責任が告げられた。

「責任者候補からは外します。修理完了後、製造部門へ配置転換です」

岡崎の通知に、真帆は「受け入れます」と答えた。管理職への道を失う重さは、通話を切ったあとになって胸へ沈んだ。それでも、その損失を森下の署名へ移すよりは正しかった。

休業期間中、真帆は森下と近隣店舗を回って代替品を集め、予約客と取引先へ事情を説明して謝罪した。真帆が点検を延期したことも隠さなかった。

配送へ向かう途中、真帆は森下に頭を下げた。

「あなたの確認漏れだけを原因にしようとした。ごめんなさい」

森下はしばらく黙り、「今はまだ、分かりましたとは言えません」と答えた。それでも代替品の箱を持ち直し、次の訪問先まで同行した。

修理後の再開初日、開店前の店には焼きたてのパンの匂いが満ちていた。製造部門へ異動する真帆にとって、責任者として開店準備をする最後の朝だった。

正面入口の向こうに、戸田とムギが現れた。ムギは立ち止まることなく扉へ寄り、隙間から流れる匂いへ鼻を忙しく動かした。

内側から森下が扉を開ける。ムギがいつものように一歩踏み出すのを見て、真帆はようやく胸をなで下ろした。

あの朝、ムギが自分を救ったのではない。誤った責任追及を止め、自分の判断の代価を自分で引き受けるための、最後の猶予をくれただけだった。

扉の向こうから新しい朝の空気が入り、パンの匂いがまっすぐ外へ流れていった。

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