雨染みの向こう側

六月初旬、月曜日の朝、相良遥はマンション一階の管理室で、黒田修司が机に置いた巡回報告を見つめていた。写真の隅に、白い小型犬が写っている。四階、西尾隆志の部屋から出てきたところだった。

「この物件はペット禁止だ。三日以内に違反を解消できれば、正社員登用の推薦を出す」

黒田の指が写真を二度たたいた。臨時という肩書を外す機会を、遥は一年近く待っていた。

「住人に反発されても、規則どおりに処理します」

「管理人は情に流されないことだ」

黒田が帰ると、遥は違反是正通知を作成した。三日以内に犬を別の場所へ移すこと。履行されない場合は契約違反として手続きを進めること。文面を読み返すたび、正社員の席が少しずつ近づくように思えた。

同日の夕方、遥が四階の西尾宅を訪ねると、開いた扉の奥から白いマルチーズが顔を出した。ムク、と西尾が呼ぶと、犬は彼の足元に戻った。

「入居したときに許可はもらっています。前の所有会社の担当者から、小型犬一頭なら構わないと」

西尾は古びた契約書の控えを差し出した。遥は玄関先でページをめくったが、ペット禁止の条項を変更する特約は見当たらなかった。

「許可書か、特約の記載はありますか」

「もらったはずなんです。でも、手元にはこれしかない。もう十年以上前のことです」

「証明できない以上、例外にはできません。三日以内に、ムクを別の場所へ移してください」

遥が通知書を渡すと、西尾はしばらく受け取ろうとしなかった。やがて紙をつかんだ手は、わずかに震えていた。

「この犬を手放せということですか」

「契約を守っていただくための通知です」

言い切ったとき、室内のムクが壁際へ歩き、鼻を寄せた。晴れた日の乾いた壁を一度嗅ぐと、興味を失ったように西尾のそばへ戻った。遥はその動きを気に留めず、期限を念押しして部屋を出た。

翌日の夕方、激しい雨がマンションの外壁を打った。四階の入居者から天井付近で音がするという連絡を受け、遥は点検道具を持って階段を上がった。

廊下を調べていると、西尾宅の中から、何かを引っかく音が聞こえた。扉を開けた西尾の後ろで、ムクが外壁側の壁を嗅ぎ、低く鳴きながら同じ場所に前足を立てていた。

「ムクは雨が降ると、いつもここを気にするんです」

遥は室内へ入り、壁紙に手を当てた。表面は冷たく、指先に湿り気が残った。西尾と家具を動かすと、壁紙の継ぎ目から黒い染みがにじみ、下方へまだらに広がっていた。

「いつからですか」

「壁をかくようになったのは何年か前です。ただ、晴れるとやめるので、音が怖いのかと」

遥は含水率計を当て、数値と壁の状態を写真に収めた。これは飼育違反とは別の、建物の安全に関わる問題だった。

「犬の件は、いったん手続きを止めます。漏水の緊急点検を優先します」

西尾は何も言わず、ムクを抱き上げた。白い毛の向こうで、黒い目だけが遥を見ていた。

その夜、管理室の電子台帳を検索しても、西尾宅の漏水歴は一件も出てこなかった。飼育許可の記録もなく、現在の契約情報にはペット禁止とだけ記されていた。

遥は地下書庫へ下りた。旧所有会社から引き継いだ紙資料が、未整理のまま棚に詰め込まれている。部屋番号と年度を頼りに箱を開け、日付の古い書類を一枚ずつ確かめた。

翌朝までに、遥は二通の漏水報告書を見つけた。五年前と三年前、いずれも西尾宅の外壁側に雨染みが生じたとあり、外壁補修の見積書まで添付されていた。工事の実施記録はなく、報告書には処理済みの印だけが押されている。

さらに旧契約書の束から、西尾の署名がある特約の控えが出てきた。そこには「小型犬一頭の飼育を認める」と明記されていた。現在の電子契約には、その一文だけが転記されていない。

遥は資料を順に撮影し、原本を別の保管箱へ移した。西尾の言葉は証拠のない申し立てではなかった。証拠を欠かせたのは、記録を管理する側だった。

水曜日の午後、本社会議室で資料を示すと、黒田は表情を変えなかった。

「旧特約は更新時に失効したと見ればいい。漏水報告も正式な工事指示ではなく、内部メモだ」

「失効の合意書はありません。それに、会社は少なくとも五年前から浸水を把握していました」

黒田は椅子にもたれ、声を落とした。

「壁内の腐食は犬の尿が原因だったと報告しろ。古い資料は保存期限切れとして廃棄する。それができれば、登用は確定させる」

遥は机上の写真を黒田の前へ押し返した。染みは床際だけでなく、外壁の継ぎ目に近い上部から広がっている。

「ムクが壁をかくのは雨の日だけです。尿が原因なら、天候とは関係がないはずです」

「犬の行動が証拠になると思うのか」

「少なくとも、会社の説明とは矛盾します」

黒田は資料を閉じた。

「期限までに処理を選べ。正社員になりたいなら、会社の判断に従うことだ」

会議室を出た遥は、自分が守ろうとしていたものを考えた。規則に従わせることと、住人が安全に暮らせる状態を保つこと。その二つが衝突したとき、会社は前者の言葉で後者を切り捨てようとしていた。

木曜日の朝、雨が上がると、遥は一級建築士の三枝奈緒を西尾宅へ案内した。費用は自分で支払い、壁の一部を開けることについて西尾の同意も得ていた。

壁紙と下地を外すと、湿った断熱材と黒いカビが現れた。三枝は壁内を撮影し、外周へ回って外壁目地を調べた。

「上部の目地から入った雨水が、断熱材を伝ってここに滞留しています。木材の変色も金属部の腐食も新しいものではありません。カビの層を見ても、数年単位で繰り返しています」

三枝は水分の経路を示しながら、床面からの尿ではこの広がり方にならないと説明した。測定値、腐食の位置、外壁の亀裂が一枚ずつ写真に収められ、調査報告書にまとめられていった。

ムクは乾き始めた壁へ近づき、一度だけ鼻を動かした。けれど前足をかけず、西尾のそばに戻った。その姿を見て、遥の中に残っていた迷いが静かに消えた。

同日の午後、遥は管理室で旧契約書の控え、過去の漏水報告、現場写真、三枝の調査報告書を複製した。西尾と他の入居者へ、漏水の経緯と会社の対応を説明し、資料一式を西尾にも渡した。

黒田には、虚偽報告と資料廃棄を拒否する旨を書面で伝えた。

「これを外へ出せば、登用はない」

「分かっています」

「臨時の立場で、会社に逆らうのか」

遥は返却を求められていた是正通知を机に置いた。

「管理する責任は、会社の都合だけを守ることではありません」

その足で自治体の建築住宅担当窓口へ向かい、資料を提出した。数日後、会社は遥の正社員登用を取り消した。一方で自治体の立ち入り調査が行われ、会社には漏水箇所の修繕が命じられた。

西尾の飼育特約も、有効な契約資料として確認された。会社は退去要求を撤回し、ムクを移す必要はないと書面で通知した。遥は職を失ったが、西尾の部屋の壁は剥がされ、長く閉じ込められていた湿気がようやく外気に触れた。

三週間後、修繕工事が始まった朝、遥は管理室の私物を箱に詰めた。使い慣れたドライバーや含水率計を工具袋へ収め、最後に鍵を返した。

玄関前には足場が組まれ、外壁を削る音が響いていた。雨染みのあった部屋からも、傷んだ壁を剥がす音が聞こえる。

見送りに出た西尾の足元から、ムクが遥へ歩み寄った。工具袋を丁寧に嗅ぎ、それから当然のように彼女のそばへ座った。

「ムクが見つけてくれなければ、私は通知書を置いて帰っただけでした」

「見つけたものを守ってくれたのは、相良さんです」

遥はしゃがみ、ムクの柔らかな頭に触れた。規則を守らせるだけでは、管理する責任を果たしたことにはならない。その場所で続いていく暮らしの側に立って初めて、守るべきものが見えるのだと思った。

ムクは目を細め、工具袋に身体を寄せた。遥は失った肩書の代わりに、自分で選んだ責任の重みを受け取り、足場の向こうで明るくなり始めた外壁を見上げてから、建物を後にした。

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