十月初旬の放課後、写真部の顧問は一枚の応募要項を結衣の机に置いた。再開発前の町を題材にした地域写真コンテストで、上位賞は美術大学推薦の校内選考でも加点されるという。
「推薦を考えているなら、大きい加点になる。ただし、締切は二週間後だ」
結衣はその日のうちに商店街へ向かった。アーケードの照明は半分が消え、並ぶシャッターには閉店を告げる紙が色あせて残っていた。消える町を美しく撮れば評価される、と結衣は思い、ひび割れた看板や空のショーケースにレンズを向けた。
古いシャッターの前で、一匹の柴犬が動かなくなった。赤茶の背を向け、下りたままのシャッターをじっと見上げている。
「ここで毎朝、煮干しをもらっていたんだ」
声をかけたのは、犬の綱を持つ小柄な老人だった。七十四歳の梅谷と名乗り、柴犬は勘太だと教えた。梅谷は商店街で乾物店を営んでいたが、再開発が決まる前に店を閉じたという。
「勘太は、ほかの店の前でも止まるんですか」
「止まるよ。昔から歩く順番まで同じだ」
結衣は翌朝の散歩に同行させてほしいと頼んだ。梅谷はカメラを見て少し考えたあと、七時に商店街の入口へ来るよう告げた。
翌朝、勘太は結衣を待たず、自分の歩幅でアーケードを進んだ。元豆腐店の前で止まり、曇った二階の窓を見上げる。カーテンが開き、白髪の女性が手を振ると、勘太の尾がゆっくり動いた。
元青果店では、店の脇から出てきた男が器に水を満たした。勘太が水を飲むあいだ、梅谷は男と天気の話をした。結衣はシャッターを背景に二人を撮り、店が三年前に閉じたことを聞き取った。
最後に着いた旧乾物店の前で、梅谷は戸口の上に残る薄い看板を見上げた。
「建物だけじゃなくて、まだここで暮らしている人も写してほしい。店が閉じたら、みんな消えるわけじゃないからな」
結衣はうなずいた。勘太が立ち止まる場所を順にたどれば、一つの連作になる。犬の歩幅で町を記録するという構想は、ほかの応募作にはないものに思えた。
それから一週間、結衣は朝の散歩に同行した。土曜日には旧乾物店前の休憩所に座り、梅谷とカメラの画面をのぞき込んだ。
梅谷は、閉店の日まで売れ残っていた昆布のことや、子犬だった勘太が豆腐店では油揚げの端を、青果店では傷のついた林檎をもらっていたことを話した。結衣も学校や推薦のことを話すようになり、七十四歳の梅谷と話しているときだけは、審査のことを忘れられた。
「この写真はいいな。佐伯さんのしわも、向こうの新しい集合住宅も入ってる」
梅谷が気に入ったのは、結衣には地味に見える写真ばかりだった。休憩所の先にある廃材の仕分け場所には、撤去された看板や古い商品箱が積まれていた。
「あれを店先に戻したら、昔みたいに見えるかもしれませんね」
結衣が冗談めかして言うと、梅谷は首を振った。
「物だけ戻しても昔にはならないよ」
結衣は笑って応じたが、帰宅後に過去の受賞作を見ているうち、不安が膨らんだ。強い光、劇的な表情、ひと目で伝わる物語。自分の写真にあるのは、窓から出る手や水の器や立ち話ばかりで、審査員の目を止められるとは思えなかった。
締切四日前の早朝、結衣は梅谷に告げず商店街へ入った。廃材置き場から古い看板と商品箱を運び出し、閉鎖店舗のシャッター前に並べた。看板も箱もその店のものではなかったが、画面の中では、つい昨日まで営業していた店の名残に見えた。
路地から勘太が姿を見せた。結衣は持参した煮干しを指先につまみ、箱の横へ誘導した。勘太が狙った位置に立つまで何度もやり直し、寂しげに店を訪ねる犬の姿を作った。
撮り終えた写真には、結衣が欲しかった物語があった。胸が高鳴った直後、アーケードに梅谷の足音が響いた。
梅谷は並べられた看板と箱を見て、次に煮干しを持つ結衣を見た。何をしたのか尋ねる声は静かだった。
「昔の姿を、伝わりやすくしただけです。何もないシャッターより、このほうが店があったことを感じてもらえるから」
「その看板の店は三軒先だ。箱の持ち主も全部違う。ここにこんな景色は一度もなかった」
梅谷は勘太を呼び寄せ、短く綱を持った。
「君が撮りたい話に、俺たちの暮らしを作り替えたんだ。閉めた店を都合のいい廃墟にして、勘太まで小道具にした」
結衣は言い返そうとしたが、並べた品々の一つ一つが急に借り物らしく見えた。
「もう案内はしない。これまで撮った写真も、使わないでくれ」
梅谷は勘太と去った。結衣は看板と箱を元の場所へ戻し、演出した写真だけを持ち帰った。
その夜、結衣は自室の床にプリントを並べた。作り上げた一枚は印象が強く、審査用の作品として完成していた。けれど勘太の目は、町ではなく、画面の外で煮干しを持つ結衣へ向いていた。
それまでの写真も順に見直した。シャッターを主役にしたつもりの写真で、勘太は二階の窓から手を振る女性を見ていた。水の器が写る一枚では元青果店主へ顔を上げ、旧乾物店前では梅谷と話す住民の輪へ鼻先を向けていた。
勘太が覚えていたのは、閉じた店の形ではなかった。そこで今も声をかけ、水を出し、梅谷と立ち話をする人たちだった。結衣は消えた過去を美しく作ろうとして、現在まで続いているものを画面の外へ追いやっていた。
結衣は演出写真のデータを応募用フォルダから外した。事実に沿った写真を選び直し、撮影場所と聞いた言葉を添えて、謝罪のためにプリントした。
翌朝七時、結衣は商店街の入口に立った。通りの向こうに梅谷と勘太が見えたが、呼び止めず、カメラも出さなかった。
勘太は元青果店の水の器の前で止まった。店主が出てきて水を足し、梅谷と通院の日取りについて話した。元豆腐店の二階では窓が開き、昨日と同じ手が振られた。梅谷と勘太は、店がなくなったあとも残る関係の中を歩いていた。
旧乾物店前まで見届けてから、結衣は二人に近づいた。
「看板と箱は元へ戻しました。作った写真は使いません。勝手に昔を作って、勘太まで使って、ごめんなさい」
結衣はプリントを差し出した。
「これも、場所と人と、聞いた言葉を一つずつ確かめてから使わせてください。違うところは直します」
梅谷はすぐには答えなかった。やがてプリントを受け取ると、胸ポケットから鉛筆を出した。元青果店の閉店年を直し、豆腐店の女性の名字に線を引いて正しい字を書いた。
「許したわけじゃない。最終作品は見る」
それでも返されたプリントには、使うことを認める印が一枚ずつ付いていた。
締切当日の放課後、結衣は写真部室のパソコンで提出データを開いた。演出写真をすべて外し、勘太が止まる場所、その先から顔を出す住民、梅谷と交わされる現在の言葉を、散歩の順番に並べた。訂正した撮影日と聞き書きも添え、連作の題を「犬の歩幅で残る町」とした。
「この派手な一枚を外すのか」
顧問は削除済みの写真を示した。
「上位賞は難しくなるかもしれない。推薦の加点もだ」
「はい。でも、あの写真は出せません。この形でお願いします」
送信ボタンを押したあと、結衣は失うかもしれないものの大きさを思った。それでも、借りた記憶を返さないまま得る加点より、結果を引き受けるほうを選んだ。
数週間後の日曜日、地域写真展の会場に結衣の連作は展示された。展示作品には選ばれたが上位賞には届かず、推薦の加点も得られなかった。
会場に梅谷が現れた。勘太を入口で待たせ、訂正された説明文と写真を一枚ずつ見ていった。閉店した店だけでなく、窓の手、水の器、新しい集合住宅、立ち話をする人々が並んでいた。
「賞は取れませんでした」
結衣が言うと、梅谷は最後の写真から目を離した。
「町は賞より先にも続く」
会場を出ると、勘太がいつもの方向へ歩き出した。梅谷は綱を持ったまま、結衣を振り返った。
「来週も七時でいいか」
結衣はうなずき、今度はすぐにカメラを構えなかった。二人は再開発が終わるまで毎週同じ道を歩き、変わった場所だけでなく、そこで交わされた言葉も本人に確かめながら残すことにした。
勘太は閉じたシャッターの前で立ち止まり、二階の窓を見上げた。窓が開いて手が振られるまで、結衣も梅谷も、その小さな歩幅の隣で待っていた。
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