路線廃止まで七日となった夕方、川瀬理央は山間の終点で録音機を構えていた。待合所の戸が風に鳴り、色あせた時刻表の透明板がかすかに震える。ベンチの下では、眉毛のような白い毛を持つミニチュアシュナウザーが伏せていた。
坂の向こうからエンジン音が近づき、やがて車内放送が風に乗った。
「まもなく、終点です。お降りの方は、お忘れ物のないようご注意ください」
その声が聞こえた瞬間、犬は前脚を突っ張って立ち上がった。バスが停まり、運転士の高木恵が降車確認のため車内から姿を現すと、犬の短い尻尾が激しく揺れた。
「ジロウ、待て」
リードを持つ老人が低く言った。恵はジロウを見て、それから老人を見たが、老人も彼女も言葉を交わさなかった。折り返しの準備を終えた恵が運転席へ戻るまで、二人の間にはバスのアイドリング音だけがあった。
理央は録音機の表示を確かめながら、胸の内でその沈黙に印をつけていた。廃線の日常を拾いに来ただけだったが、そこには番組の核になりそうな何かがある。
「ラジオ局の川瀬と申します。この路線の思い出を取材していまして、お話を伺えませんか」
老人は高木邦夫と名乗った。バスが折り返したあと、理央は終点の待合所で、廃線の思い出を残すためだとだけ説明して録音を始めた。ジロウは邦夫の靴に顎を載せ、遠ざかるエンジン音を聞いていた。
邦夫によれば、恵は子どもの頃からこの路線で学校へ通い、やがて同じ路線の運転士になった。家の売却をめぐって父娘は言い争い、それ以来まともに話していないという。恵が転居先の住宅事情で飼えなくなったジロウを、今は邦夫が引き取っていた。
「毎日、ここへ来ているんですか」
「こいつが来たがる。あの声を聞けば、わかるらしい」
「高木さんは、娘さんの便には乗らないんですか」
邦夫は、消えたバスの方角を見た。
「今さら客の顔で乗れん」
理央は、その言葉の前後に長めの無音が録れていることを確かめた。最終便に父が乗り、運転席に娘がいる。想像しただけで、番組の終盤に置くべき音の形が見えた。
「最後の日だけでも、乗ってみませんか。路線がなくなれば、もう機会はありません」
邦夫は返事をせず、ジロウの背を一度なでた。その沈黙を、理央は迷いではなく承諾へ向かう間のように受け取った。
廃止四日前の午前、理央はラジオ局の制作室で構成案を仕上げた。表題は「犬がつなぐ最終便の父娘」。家の売却をめぐる対立、住宅事情でジロウを託した経緯、そして邦夫が最終便へ乗り、恵と和解する場面までを山場として並べた。
「本人たちの了承は取れるんだな」
制作責任者の佐伯が、画面から目を離さずに聞いた。
「見込みはあります。お父さんは乗るか迷っていますし、娘さんにも運行会社を通じて調整します」
理央はそう答え、同じ構成案を運行会社へ送った。邦夫が公開を認めた範囲も、恵が何を話したいかも、まだ確かめてはいなかった。それでも締切に間に合わせるには、先に物語の形を決める必要があると思っていた。
翌日の夕方、理央はバス営業所の休憩室へ呼び出された。机の上には、送付した構成案が置かれていた。恵は制服のまま立ち、邦夫は離れた椅子に腰を下ろしていた。
「父とのことも、ジロウを預けた理由も、放送するつもりだったんですか」
恵の指先が、構成案の一節を押さえた。
「路線が地域の生活をどう支えてきたか、その中でご家族の時間も伝えられればと。ただ、表現は相談して——」
「相談する前に、もう結末まで書いてあります」
理央は言葉を止めた。邦夫が構成案を持ち上げ、紙の端を指で鳴らした。
「わしは乗るかもしれんとも、乗らんとも言ってない。迷っただけだ。それが、ここじゃ娘と仲直りする人間になっとる」
「この路線がなくなる日の記録には、地域に残す価値があります。お二人のことも、同じ時間の中にあって——」
「残す言葉は、話す人が決めるものです」
恵の声は、車内放送のときと同じく明瞭だった。理央の説明が入り込む余地を残さなかった。
「私事まで放送するなら、私は取材を受けません」
「わしの録音も使わんでくれ」
邦夫は立ち上がり、休憩室を出ていった。恵も構成案を机に残して退室した。理央の前には、自分が先回りして作った再会だけが残った。
廃止二日前の午前、理央は局の会議室に入る前に、邦夫と恵へ別々に電話をかけた。路線の思い出という曖昧な説明で録音したこと、私事を勝手に番組の材料へ組み込み、二人が選んでいない結末まで書いたことを謝った。二人とも、謝罪は聞くが取材拒否は変えないと答えた。
会議室では、佐伯が構成案を閉じた。
「了承を得られる見込みだと報告したな」
「事実ではありませんでした。得られるだろうと、私が決めつけました」
佐伯はしばらく黙り、企画そのものを中止する可能性を告げた。理央は、邦夫の録音も父娘に関する内容も一切使わず、公開に同意した乗客の記憶と廃線の音だけで作り直したいと申し出た。
「誰に、何のために録るのか、どこまで使うのか。毎回説明して確認します」
「特集は続ける。ただし録音範囲を明示し、同意を記録に残せ。君の件は放送とは別に、処分を審査する」
理央はうなずいた。番組を残すことと、自分の責任が消えることは別だった。
最終日の日没前、終点には普段より多くの人が集まっていた。理央は停留所を抜ける風と待合所の戸が閉まる音を録ったあと、乗客一人ずつに、放送と局の保存資料に使うこと、希望すれば収録後でも撤回できることを説明した。
通学で乗った冬の朝や、病院帰りに運転士が歩調を待ってくれた日の話が、短い声で録音機に入った。誰も劇的なことは言わなかったが、それぞれが自分で残すと決めた言葉だった。
やがて邦夫がジロウを連れて現れた。理央と目が合っても挨拶だけを返し、ベンチには座らず、運賃箱へ入れる硬貨を手の中で握っていた。
坂の向こうから、最終便のエンジン音が近づいた。
「まもなく、終点です」
恵の声が聞こえると、ジロウが立ち上がった。理央は反射的に録音機へ目を落としたが、すぐに停止ボタンを押し、マイクを下げた。
「高木さん」
邦夫が振り向いた。
「乗るかどうかは、番組のために決めないでください。録りません。乗っても、乗らなくても、高木さんが決めたことにします」
邦夫は答えず、握った手を一度開いた。掌の硬貨を見てから、ジロウのリードを短く持ち直す。最終便を待つ列ができると、邦夫はその最後尾へ並んだ。
定刻、バスが終点に着いた。運転席の恵は邦夫とジロウを見つけ、わずかに息を止めたようだった。理央は録音機の停止表示を確かめ、鞄の奥へしまった。
乗客が順に乗り込んだあと、邦夫は自分の手で運賃を払った。事前に営業所の許可を得ていたジロウを足元へ座らせると、運転席の近くで立ち止まった。
恵が父へ何か短く声をかけた。邦夫も顔を上げたが、理央は内容を聞き取ろうとせず、バスから離れて停留所標識の方を向いた。その会話は、廃線の記録ではなく二人のものだった。
扉が閉まり、最終便が坂を下っていった。赤い尾灯が見えなくなってから、理央は鞄から録音機を出した。残された風の音に続き、作業員が停留所標識を外す金属音が、夕暮れの終点へ響いた。
数週間後、特集は同意を得た乗客の思い出と、終点の風、標識を外す音で放送された。父娘のことも、声に立ち上がった犬のことも入っていない。派手な反響はなかったが、地域資料として保存したいという連絡が局へ届いた。
放送後、佐伯は制作室で理央に三か月間の単独取材禁止を言い渡した。
「番組を作り直したことと、最初にしたことは相殺されない。同行者の下で、同意の取り方からやり直せ」
「はい」
理央は処分を受け入れた。それからは先輩の隣で、録音を始める前の説明を一つずつ確かめ、相手の返事を待つようになった。
編集画面には、最終便が着いてから発車するまで、使わなかった空白が残っていた。理央はそこへ音を足さず、消しもしなかった。記録しないこともまた、取材する者が守るべき仕事なのだと、ようやく理解していた。
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