花火の聞こえる場所

午後五時、高瀬修司は三脚と仕事用カメラを積んだ車を、元妻の住むマンションの前につけた。蒸し暑さの残る歩道へ降りると、玄関から息子の航が現れ、その足元をクリーム色のフレンチブルドッグが弾むようについてきた。

「今日は特等席だからな。打ち上げるところも川も、全部見える。忘れられない夏休みにしてやるよ」

修司が後部座席のドアを開けると、航は乗り込まず、ボンのリードを握ったまま立っていた。

「ボンも連れていくんだよね。お母さんが出かけてるあいだ、預かるって約束したから」

修司は荷室を振り返った。三脚、カメラバッグ、予備のバッテリーが隙間なく収まっている。犬が動き回れば撮影の邪魔になるという考えが顔に出かけたが、航は黙って返事を待っていた。

「わかってる。水も保冷剤も用意した。屋上には日陰もあるし、大丈夫だ」

請け合ってから、修司はボンを後部座席へ乗せた。航もその隣に座り、走り出すとすぐ、膝の上でボンの水入れを確かめた。

月に二度の面会日は、いつも早く過ぎた。夕食を食べ、映画を見て、それで終わるたび、修司には何かが足りない気がした。今回は違う。最高の場所から最高の花火を見せ、撮った映像を仕事にもつなげる。それができれば、航にも、自分自身にも、父親として何かを証明できる気がしていた。

午後六時を回ったころ、三人は会場近くの駐車場から知人のビルへ歩き、機材を抱えて屋上まで上がった。扉を開けると、熱を含んだ風が吹きつけた。正面には川が横たわり、その向こうに打ち上げ地点が見えた。

「ほら、すごいだろ」

修司は返事を待たず、三脚を広げた。ファインダーをのぞき、打ち上げ地点と川面が一つの画面に収まるよう高さを調整する。空が暗くなれば、花火の光が水に映るはずだった。

航は景色を見るより先に、屋上の隅へボンを連れていった。短い鼻のまわりを濡らしながら、ボンはすでに荒く息をしていた。

「暑そうだけど」

「だから準備してきたんだ」

修司は日陰になった壁際に敷物を置き、水のボトルと保冷剤を並べた。階段扉を指し、何かあれば踊り場へ入ればいいとも説明した。自分でも、万全という言葉がふさわしい準備に思えた。

航はうなずいたが、川の向こうへ目を向けなかった。水入れをボンの口元へ寄せ、首筋を撫で続けていた。

修司はカメラへ戻った。露出を確かめ、ピントを合わせ、予備のバッテリーを手の届く場所に置く。画面の中には、まだ何も上がっていない夜空と、花火を待つ川だけがあった。

午後七時ごろ、前触れなく光が上がった。細い火が空を走り、白い花を開いた直後、乾いた爆音が屋上を叩いた。

ボンの体が跳ねた。爪を滑らせながら階段扉へ走り、扉に脇腹を押しつける。耳を伏せ、目を見開き、舌を出したまま激しく息をしていた。

「ボン!」

航が駆け寄ってしゃがみ、震える体を両腕で抱えた。ボンはその腕の中でも扉を前足で掻こうとした。

「もう下へ戻ろう。ここ、だめだよ」

修司はカメラから離れ、保冷剤をタオルで包んでボンの首元へ当てた。水入れも寄せたが、ボンは顔を背けた。

「今のは試し打ちだ。驚いただけだから、少しすれば慣れる。本番までまだ三十分あるし、涼ませれば大丈夫だ」

口にしながら、修司は階段扉の前にうずくまる犬を見た。想像していたより音は大きかった。それでも、ここまで運んだ機材と、目の前に広がる構図を思うと、引き返すという判断だけは現実味を持たなかった。

午後七時十分、修司の携帯電話が震えた。映像会社の担当者から、本番後すぐに素材を確認したいという連絡だった。条件がよければ、今後の仕事についても話したいと添えられている。

修司は画面を握りしめた。年に一度の花火と、一般客の入れない屋上。今夜の映像を逃せば、同じ機会は来年までない。来年もこの場所を借りられる保証はなかった。

「あと少しだけだ。始まればすぐ終わる。最高の映像が撮れるんだ。航だって、こんな場所から花火を見ることはもうないかもしれないぞ」

航はボンを抱いたまま、修司を見上げた。汗で前髪が額に張りついていたが、その目は逸れなかった。

「花火を見たいのは僕じゃなくてお父さんだ」

修司の口から、用意していた言葉が消えた。息子のためだと言えば言うほど、それが薄い覆いにしか聞こえなくなる。視線をカメラへ戻すと、三脚の上で大きなレンズが空を向いていた。

航の腕の中では、ボンの呼吸がまだ速かった。修司は階段へ向かうべきだとわかりながら、三脚の留め具に手をかけることができなかった。

午後七時二十五分、本番開始を知らせるアナウンスが川向こうからかすかに流れてきた。続いて予告の音が鳴ると、ボンは再び激しく身をよじった。

扉へ逃れようと後ずさりし、首輪に体重をかける。頭を抜こうともがくたび、短い毛の下で首の皮膚が擦れた。航が慌てて指を差し入れ、首輪を緩める。その指先のそばで、皮膚が赤くなっていた。

「待って、ボン。大丈夫、大丈夫だから」

航の声も震えていた。

修司はカメラの前に立ったまま、その光景を見ていた。自分が残ると言えば、航はボンを置いて下りることができない。つまり、ここにいる三人のうち、選べるのは自分だけなのだ。航にもボンにも耐えさせながら、それを思い出と呼ぼうとしていた。

修司はカメラの録画待機を解除した。映像会社への返信画面を閉じ、レンズを外してケースに収める。バッテリーを抜き、三脚の脚を一本ずつ縮めた。

「帰ろう」

航が顔を上げた。

「撮らなくていいの?」

「いいんじゃない。撮らないって、俺が決めた」

最後の留め具を締め、修司はバッグを肩にかけた。航からリードを受け取り、ボンの首輪が擦れないよう短く持つ。三人が階段へ入ったところで、本番開始のアナウンスが響き、閉じかけた扉の向こうに最初の花火が上がった。

爆音を背に、修司たちは階段を下りた。踊り場を一つ下りるたび音は壁に遮られ、ボンの足取りがわずかに戻った。

午後八時ごろ、三人は車で会場から下流へ離れた河原に着いた。修司は途中で航に、どこまで行けばボンが怖がらないと思うかを尋ねた。二人で音を確かめながら選んだ場所には人影が少なく、川沿いの草が湿った風に揺れていた。

遠い空で、花火が小さく開いた。赤い光が水面に落ち、形を崩して流れていく。しばらくしてから、丸みを帯びた弱い音が届いた。

ボンは一度顔を上げたが、逃げなかった。呼吸は落ち着き、修司が差し出した水入れに鼻先を寄せた。修司はしゃがみ込み、飲みやすいよう器を傾けた。

小さな電子音がして、航が携帯電話を下ろした。

「今、撮ったのか」

「うん。一枚だけ」

画面には、河原にしゃがんでボンに水を飲ませる修司の姿が映っていた。遠くの花火は端に小さくにじみ、顔も半分は影になっている。仕事なら使わない写真だったが、修司はしばらく画面から目を離せなかった。

カメラバッグは足元に置いたままだった。修司は仕事用カメラを取り出さず、携帯電話で映像会社に「今夜は撮影できませんでした」と送った。すぐに返信は来なかった。

失った機会の重さが消えたわけではない。それでも、隣では航がボンの背を撫で、遠くの光が水に映るたび静かに目で追っていた。屋上で狙っていた完璧な映像より、その横顔のほうが今は鮮明に見えた。

帰り支度をしながら、修司は航に尋ねた。

「次に会う日は、何がしたい?」

いつもなら、修司が先に行き先を決めていた。航は意外そうに修司を見てから、少し考えた。

「ボンも行けるところがいい。昼間は暑くないところ」

「じゃあ、一緒に探すか」

「うん。花火じゃなくていいよ」

遠くでまた光が開き、遅れて弱い音が届いた。修司は、その音を航と並んで聞いた。忘れられない夏は、見せたかった景色の中ではなく、目の前の誰かを優先して一緒に選んだ行動の中に残るのかもしれない。

その夏、三人で残した写真は一枚だけだった。そこに花火はほとんど写っていなかったが、修司には、それで十分だった。

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