聞こえない境界線

六月初旬の月曜、公園管理事務所の窓口に、森田敬三は泥のついた犬の足跡の写真を並べた。花壇の縁は崩れ、芽を出したばかりの苗が折れている。

「また放し飼いです。亡くなった家内と育てた花壇なんですよ。係留義務をきちんと守らせてください」

その隣で、秋山直人が机を指でたたいた。「園芸会は犬が通るだけで嫌な顔をする。公園はあの人たちだけのものじゃないでしょう」

市の臨時公園管理員である杉原彩は、二人の間に立ちながら、壁の苦情集計表を意識していた。正規採用の審査まで一か月。今月も件数が増えれば、推薦は遠のく。

「翌週までに収められるなら、推薦を検討する」

二人が帰ったあと、黒田係長はそう言った。「ただし地域団体を敵に回すな。調整できることも評価のうちだ」

本来なら、花壇被害と係留違反を別々に調べるべきだった。だが彩は、窓口から二人を早く帰した安堵を手放せず、「注意掲示で様子を見ます」と答えた。

同日の夕方、彩は花壇脇の一般園路に看板を立てた。書いたのは、「犬は周囲に配慮し、花壇を大切に」という一文だった。

「係留義務と書かなければ意味がない」森田は看板を読み、眉を寄せた。

「犬を花壇から遠ざける根拠は何ですか。ちゃんと歩かせている飼い主まで悪者にするんですか」秋山も、リードにつないだミニチュア・シュナウザーのロッテを足元に置いて反発した。

彩は森田には巡回を増やすと約束し、秋山には犬を排除する意図はないと説明した。別々の言葉で二人をなだめ、どちらの違反を確認するとも言わなかった。

その場を離れかけた彩の背後で、秋山が仲間に電話をかけた。「祭りの競技は予定どおりだ。一般園路を走らせたほうが盛り上がる。リードなんかつけていたら競技にならない」

彩は振り返らなかった。許可された会場は芝生広場だと知っていたが、まだ計画にすぎない、と自分に言い聞かせた。

翌日の午後、巡回中の彩は花壇へ続く園路で秋山とロッテを見かけた。ロッテは白い眉と口ひげを揺らしながら歩いていたが、花壇まで十数メートルの地点で、急に四本の脚を突っ張った。

耳が伏せられ、呼吸が荒くなった。秋山がリードを緩めても、ロッテは前へ進むどころか、舗装を引っかくようにして後ずさった。

「ロッテ、どうした」秋山が抱き上げると、犬はその胸に鼻先を押しつけた。「園芸会が何かしたんじゃないですか」

彩には音も異臭も感じられなかった。しかし直後、別の散歩犬も同じ辺りで耳を伏せ、花壇とは反対側へ進路を変えた。

彩は巡回記録を取り出し、時刻と二頭が反応した位置を書き込んだ。苦情欄の数字ではなく、起きたことを記すためにペンを動かしたのは、久しぶりだった。

翌日から三日間、彩は朝夕に園内を歩いた。犬種、通過時刻、反応地点、リードの有無を地図へ落とすと、放し飼いか係留中かにかかわらず、複数の犬が園芸会の物置を中心とする範囲で耳を伏せ、迂回していることが分かった。

秋山には、確認が済むまでロッテを近づけないよう伝えた。森田には設備点検を行うと通知したが、森田は「犬のしつけの問題でしょう」と目を合わせなかった。

市の環境担当から借りた測定器を物置へ向けると、人の可聴域を超える帯域で、周期的な出力が表示された。彩の耳には、川風と葉擦れしか聞こえない。それでも画面の波形は、見えない範囲がそこにあることを示していた。

彩は記録を添え、森田立会いでの施設点検を正式に申請した。黒田は苦情が増えるぞと言ったが、測定結果を見ると承認印を押した。

六月中旬の金曜午前、彩と黒田は森田の鍵で園芸会の物置に入った。棚の裏を調べると、屋外用の高周波忌避装置がタイマーにつながれ、通気口へ向けて置かれていた。

設置届も安全資料もなかった。彩が電源を切ると、森田は長く黙ったのち、記念花壇の前へ歩いていった。

「家内が入院する前まで、二人で手を入れていました」森田は折れた苗が写る写真を見た。「放した犬が踏み荒らしても、秋山さんたちは謝りもしなかった。注意しても聞かない。なら、犬のほうから近づけなくするしかなかった」

彩は被害写真と過去の巡回記録を照合した。秋山を含む飼い主たちの係留違反は確かにあり、森田の怒りには実害という根があった。

だが装置は、花壇を荒らした犬だけを選ばない。リードにつながれたロッテも、規則を守る別の犬も、同じように苦しめていた。

「被害を受けたことと、無許可の装置を置いていいことは別です」彩は装置を証拠として保全し、環境担当へ影響範囲の安全確認を依頼した。

同日午後、管理事務所へ呼ばれた秋山は、装置が停止されたと聞くなり椅子から身を乗り出した。「園芸会を処分してください。これで来週末の犬の祭りも予定どおりできますね」

彩は祭りの運営資料を机に広げた。許可された会場は芝生広場だけだったが、進行表には一般園路を使ったノーリード競技が組み込まれていた。

「この競技は許可区域外です。過去の巡回記録にも、秋山さんの係留違反が複数あります」

「装置を置いた側と一緒にしないでください。競技を外せば参加者は来ません。地域を盛り上げる催しを、あなたの判断で潰すんですか」

黒田は黙って資料をめくっていた。彩はその横顔に、推薦という言葉が遠ざかるのを感じたが、さらに安全確認の予定表を示した。

装置の出力と影響範囲の確認は、開催日までに終わらない。係留条件にも反し、安全な会場を確保したという許可条件も証明できなかった。

「園芸会だけを調べて、こちらを見ないことにはできません」彩が言うと、秋山は資料を押し返した。

翌週月曜の午前、市役所公園管理課の会議室で、彩は調査記録を順に読み上げた。無許可装置の撤去と園芸会への行政処分、記録済みの放し飼いに対する条例上の罰則、そして犬の祭りの許可取消しを同時に上申した。

「花壇を見捨てるのか」森田の声が震えた。「規則を守らない連中を止めてくれなかったから、私がやったんだ」

「犬だけが排除されるんですね」秋山は冷たく言った。「被害を受けたのはこっちなのに、祭りまで奪うんですか」

彩は二人の間に置いた地図を見た。以前の自分なら、それぞれに別の約束をし、処分を先延ばしにしただろう。

「花壇を荒らす行為も、規則を守る犬まで苦しめる装置も、一般利用者のいる園路で犬を放す競技も、他者への侵害です。誰が先に傷つけられたかで、後の違反が許されるわけではありません」

黒田は記録を確かめ、処分と許可取消しの決裁書に印を押した。「調査と基準には一貫性がある。ただ、両団体から抗議が出た以上、今回の正規採用推薦は難しい」

胸の奥で、何かが静かに落ちた。彩は頭を下げたが、上申を取り下げなかった。

装置は撤去され、園芸会への手続きと係留違反者への罰則適用が始まった。犬の祭りも中止となり、森田も秋山も、会議室を出るとき彩を見なかった。

三週間後の夕方、花壇脇では新しい利用区分を作る作業が始まっていた。彩が提出した改善案は、苦情件数ではなく、発生地点と原因を地図に添えたものだった。

芝生広場の一角には、試行の柵付き運動区画を設ける。花壇沿いには植栽と低い柵で緩衝帯を作り、犬が走れる場所と、花を守る場所を分ける計画だった。

森田は花壇で作業していたが、彩には口をきかなかった。秋山も、リードにつないだロッテを連れて通りかかったものの、挨拶をしなかった。推薦が戻る知らせもない。

それでもロッテは、かつて耳を伏せた地点で立ち止まらなかった。口ひげを風に揺らし、秋山の隣を一定の歩調で過ぎていった。

彩は新しい境界を示す杭を土へ打ち込んだ。公平さは、全員に好かれる曖昧な中間点ではない。同じ規則で互いの加害を止めるために、双方から恨まれても引かなければならない線なのだ。

聞こえないものをなかったことにせず、苦情を隠す代わりに衝突の条件を変える。その線はまだ杭と細いひもにすぎなかったが、彩は次の杭をまっすぐ地面に当てた。

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