平日の午後、彩は再開発区域に残った最後の未同意物件を訪ねた。色の褪せた庇に「高瀬時計店」とあるのを見上げ、足が止まった。担当資料では店名しか見ていなかった。
扉を開けると、修理台の向こうに父の修一がいた。白髪が増え、立ち上がるときに右足をかばった。その足元から、白黒のボーダー・コリーが静かに出てきた。
「ロク」
彩が名を呼ぶと、ロクは耳を動かした。母が亡くなる前に教えた通り、二人の間で伏せをして、次の指示を待った。
「市の移転支援で来ました。まだ同意書が出ていないので」
「おまえが担当か」
修一は驚きを見せず、図面を修理台に広げた。仮設店舗は商店街の端、住居はそこから階段と搬入車用通路を隔てた集合住宅にある。住居はペット禁止だった。
「店にいる間、ロクをどこに置く。昼の薬や飯のたびに、俺があの階段を往復するのか」
「仮設期間だけ、預け先を探す制度もあります」
「ロクを手放す前提の話には署名できん」
修一の声は低かった。金額への不満ではない。店と住居とロクを切り分けた計画そのものが、父の暮らしを成り立たなくしている。彩は伏せたままのロクを見て、鞄から同意書を出すのをやめた。
同日の夕方、彩は会社の事務所で上司の野田に親族関係を申告した。正式な交渉担当から外してほしいと告げると、主任昇格に関わる案件を手放す焦りが、遅れて胸に押し寄せた。
「全対象者に同じ条件を示しています。父だけ例外にはできません」
「それを判断するのは、もう高瀬さんではありません」
野田は後任に村井を指名した。引き継ぎ資料を受け取った村井は、図面を眺めてから言った。
「例外の要求かどうかも、暮らしを見ないと分かりません。交渉には関わらず、家族側の資料提供者としてなら、生活動線を記録してもらえますか」
彩は了承した。期限内に署名を取る調整員ではなく、父がなぜ署名できないのかを調べる家族として、店へ戻ることになった。
次の土曜日、彩は朝から高瀬時計店にいた。現在の店では、修一は修理台から数歩で台所へ行き、ロクの水を替え、来客の切れ目に食事と服薬を済ませていた。居住空間と店は一枚の引き戸でつながっている。
彩は時刻と歩数を記録し、午後には修一とロクを連れて仮設予定地を歩いた。仮設店舗から集合住宅までは、搬入車が行き交う通路を横切り、長い外階段を上らなければならない。一日に必要な往復回数を書き出すと、彩が想定していたより多かった。
階段の途中で修一の呼吸が乱れた。ロクはリードを引かず、一つ上の踊り場で立ち止まった。修一が上がるまで待ち、また数段進んでは振り返る。
「母さんが教えたの」
「俺が遅くなってから、勝手にそうするようになった」
修一は手すりを握ったまま答えた。彩は歩数計の数字を閉じた。預け先を用意すれば解決するのではない。計画から抜け落ちていたのは犬の置き場所ではなく、店舗兼住宅という一つの生活単位だった。
翌週の数日間、彩は村井の了承を得て商店街を回った。店舗兼住宅で暮らす高齢店主に尋ねると、営業中も介護中の妻から長く離れられない者や、決まった時刻に住居へ戻って薬を飲む者がいた。
「店と家が別なら、もう商売は無理だと思ってたよ」
一人の店主の言葉を持ち帰り、彩は事務所で仮設施設の配置図を開いた。一階に空いた仮設店舗があり、壁を挟んだ隣には未割当ての住戸がある。双方に独立した出入口が設けられていた。
「ここを内部でつなげられませんか。防火仕様の扉なら、共用廊下に犬を出さずに済みます」
村井は図面上の壁を指でたどった。
「ペットのためだけでは通りません。でも、店舗と住居の近接が必要な世帯に広げられるなら、案にはできます」
同週末の午前、村井は記録と聞き取り結果を社内会議に出した。しかし野田は、内部扉とペット可の区画を設ける案を、高瀬家の個別要求に見えると退けた。
「設計変更で工期が遅れることも認められません」
「父の足では、あの往復は現実的ではありません。ロクも母が残した家族で――」
「家族への便宜と、制度上の改善を混同していませんか」
彩は言葉を失った。父の事情を強く語るほど、案は父だけのためのものに見えた。村井が資料を閉じながら、対象条件と利用世帯数、費用、避難経路、工期への影響が整理できれば再検討できると付け加えた。
会議室を出た彩は、制度を変えることだけで家族としての責任まで済ませようとしていた自分に気づいた。
同日夕方、閉店後の店では、修一が古い振り子時計を箱に入れようとしていた。
「店は畳む。ロクを連れて、郊外の安い借家を探す。おまえの仕事を邪魔する気はない」
持ち上げかけた箱が傾き、修一は右足をかばって修理台に手をついた。夕方の散歩の時刻を過ぎ、ロクは扉のそばに座っていたが、催促もせず修一を見ていた。
彩は同意書も図面も出さなかった。
「仮設期間中、朝の散歩は私がする。出勤前に来られる。火曜と金曜は店番もする」
「仕事があるだろう」
「通勤圏内に住んでるのに、来なかっただけ。お父さんも、通院の日と足が痛む日は隠さず連絡して。廃業するかどうかを、一人で決めないで」
修一はしばらく黙り、箱から振り子時計を戻した。
「店番の日は、修理品に触るな」
「分かった」
礼の代わりの返事だった。彩がリードを取ると、ロクは立ち上がり、修一を一度見てから彩の横へ来た。
翌週、彩は家族側の資料提供者として、修正版の根拠を村井へ渡した。住居と店舗の近接を必要とする世帯を聞き取りから抽出し、利用希望を複数確保した。空きユニット同士を規格品の防火扉で結ぶ見積もりも、予備費の範囲に収まった。
会社と市の合同協議室で、正式な説明は村井が担った。双方の独立出入口を維持し、犬は住戸側の出入口だけを使う。避難経路を塞がず、既存の空き区画と規格部材を使うため工期も延ばさない。
「対象はペット世帯に限定しません。介護や身体事情により、営業中も住居へ短時間で戻る必要がある世帯に共通する区画です」
野田は費用表と希望者一覧を見比べた。やがて、市の担当者と短く確認し合い、共通条件を備えた住居兼店舗区画として採用すると告げた。
彩は息を吐いた。同じ条件を示すだけでは、同じように暮らしを続けられるとは限らない。公平とは、全員を同じ形に押し込むことではなかった。
承認翌日の朝、村井が新しい配置図と同意書を高瀬時計店へ持参した。修一は内部扉の位置を確かめ、ロクが使う住戸側出入口と移転日を一つずつ尋ねた。村井が答え終えるまで、彩は署名を促さなかった。
修一は眼鏡を外し、同意書に名前を書いた。
彩は冷蔵庫に一枚の紙を貼った。朝の散歩は彩、火曜と金曜の店番も彩、修一は足の具合が悪い日に必ず連絡する。仮設期間中の分担表だった。
「細かいな」
「決めておかないと、お父さんは黙るから」
村井が帰ったあと、彩はロクのリードを持って店を出た。ロクは数歩進んでから止まり、店先の修一を振り返った。
修一が行けと片手を上げると、ロクは彩の横についた。歩幅を確かめるように一度見上げ、それから同じ速さで歩き出した。
犬との絆は、愛着を口にすることではない。その犬を含む毎日の時間と手間を、誰が、いつ、どれだけ引き受けるかを決め、守ることなのだ。彩はリードの重みを手に感じながら、朝の商店街をロクと並んで歩いた。
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