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土曜日の午前十時、坂井亮は水族館へ向かう電車の中で、今日の予定を三度目まで説明していた。
「着いたら先に特別席の受付をして、それから昼を食べよう。限定の土産も予約してある。たぶん美羽、気に入ると思う」
向かいに座る美羽は、亮が渡した水族館のパンフレットから顔を上げずに「うん」と答えた。膝の上の鞄には、特別席の予約画面を表示した携帯電話と、限定品の引換券と、面会時間変更の提案書が入っている。
提案書は美羽の母親に渡すためのものだった。だが、その前に美羽から、父親と過ごす時間が長くなってもいい、と言ってもらう必要がある。楽しい一日の最後なら、その話も自然に切り出せると亮は考えていた。
「特別席、普通の席より近いんだって。写真も撮りやすいらしい」
「前にも聞いた」
「そうだっけ」
亮は笑って窓の外を見た。営業先なら、相手の反応が鈍ければ話題を変えられる。娘を相手にすると、用意した話題を全部使い切るまでやめられない。
そのとき車内放送が流れた。前方の駅で設備故障があり、この電車は途中駅で運転を打ち切るという。
亮はすぐに携帯電話を取り出した。迂回経路を調べ、予約時刻を確認し、水族館までの所要時間を何度も計算し直した。どの数字も、間に合わないという同じ答えを少しずつ違う形で示していた。
「まあ、なんとかなるよ。代行バスが出るかもしれないし」
美羽はパンフレットを閉じたが、何も言わなかった。
午前十一時前、二人は水族館より手前の駅で降ろされた。代行バスが来るまで五十分ほどかかると聞き、混雑した駅を離れて、隣接する川沿いの公園へ移った。
ベンチに座ると、することがなくなった。亮は別の観光施設を検索し、近くの店を調べ、早めの昼食を提案した。
「この辺に評判のハンバーガー屋があるみたいだ。あと、小さいけど科学館もある」
「別にいい」
美羽は再びパンフレットを開いていた。特別席の写真が載ったページを見ているのかと思ったが、目はほとんど動いていない。
亮は鞄の中の提案書に指を触れた。今ここで話すのは違う。今日を楽しく終わらせてからのほうがいい。そう思いながら、沈黙に耐えきれず、また運行情報を更新した。
画面には先ほどと同じ案内しか出なかった。
午前十一時ごろ、湿った音が美羽の靴の上でした。
泥だらけのボールが乗っていた。その向こうで、白と黒のフレンチブルドッグが短い脚を踏ん張り、荒い息を吐いている。
美羽は靴と犬を交互に見て、吹き出した。
「置き方、雑」
公園の売店から店主が顔を出した。
「すみません。ブン、人を見つけるとすぐ遊んでもらおうとするんです。よかったら投げてやってください」
美羽がボールをつまみ上げた。指に泥がついたが、嫌がる様子はなかった。少し先へ投げると、ブンは大変な勢いで走り出し、たいして遠くない場所で急に速度を落とした。
ボールをくわえて戻ってきたブンは、美羽の足元より一メートルほど手前でそれを落とした。その一メートルだけは、美羽に取りに来させるつもりらしい。
「全部戻ってこないんだ」
美羽が言うと、店主が笑った。
「帰りは省エネです」
何度か美羽が投げたあと、亮にもボールが回ってきた。娘にいいところを見せるような遊びではないと分かっていたのに、腕に余計な力が入った。
ボールはブンの頭上を越え、ずいぶん先まで飛んだ。ブンは二歩だけ全力で追い、それから早くも面倒そうな走り方になった。
「犬より本気じゃん」
美羽が呆れた声で言った。
「いや、肩が思ったより仕上がってた」
「何に向けて」
亮にも答えはなかった。ブンはようやくボールに追いつき、その場でしばらく息を整えてから、やはり二人のかなり手前に落とした。
午前十一時を少し過ぎたころ、美羽の投げたボールが地面の石に当たった。向きが変わり、低い柵の向こうにある植え込みへ転がり込む。
ブンは柵の前で止まり、鼻を鳴らした。自分で取るという発想はないらしく、美羽を見上げている。
「取ってくる」
亮が柵に足をかけると、美羽がすぐに腕をつかんだ。
「立入禁止って書いてある」
「ちょっと入るだけだから」
「そういう人が入るから書いてあるんでしょ」
亮は足を下ろした。娘の前で立入禁止を越え、犬のボールを回収する父親になるところだった。今日の予定表にはない種類の失敗である。
亮は鞄から折り畳み傘を出し、柄を伸ばして柵の隙間へ差し込んだ。先端はボールに届いたが、引き寄せようとするたび横へ逃げる。
「そっちじゃなくて、こっち」
「分かってる。ボールに言ってる」
「ボール、聞いてないよ」
美羽は水族館のパンフレットを丸め、柵の別の隙間から差し入れた。亮が傘の柄で寄せ、美羽がパンフレットで押す。二人とも膝をつき、互いの手元だけを見て動かした。
あと少しというところでブンが鼻を突っ込み、泥を跳ね上げた。亮の袖と美羽の靴に茶色い点がつく。
「ブン、今は応援いらない」
美羽が言い、亮は笑った。美羽も口元を緩めた。
最後はパンフレットの角で押し出され、ボールが柵のこちら側へ転がった。ブンは当然のようにくわえ、二人から少し離れたところに落とす。
泥のついたパンフレットは、特別席の写真のところで折れ曲がっていた。亮はそれを直そうとしたが、紙はもうきれいには戻らなかった。
午前十一時二十分ごろ、二人はベンチへ戻った。遊び疲れたブンが美羽の足元に腹をつけ、舌を出している。
しばらくして、美羽が折れたパンフレットを見たまま言った。
「発表会の日も、本当に電車とか仕事のせいだったの」
亮の手が止まった。
半年前、美羽の発表会に行かなかった。仕事で緊急の対応が入った、と説明した。電話でも、次の面会でも、同じことを言った。
「だから、あの日は急に仕事が——」
慣れた言葉が口から出かかった。鞄に手を入れると、指先が提案書の端に触れた。今日うまくいけば渡すはずだった紙は、汚れも折れもなく、透明なファイルの中に収まっている。
亮は手を抜き、提案書を鞄の奥へ押し戻した。足元ではブンが、さっきまで走っていたのが嘘のように動かない。
「違う」
美羽は顔を上げなかった。
「仕事の緊急事態じゃなかった。新しい部署の懇親会があった」
口にしてみると、驚くほどつまらない理由だった。亮は続けた。
「異動したばかりで、付き合いが悪いと思われたくなかった。途中で抜ければ発表会に行けた。でも、抜けなかった。酒も飲んで、そのまま残った」
美羽の手がパンフレットの端を強くつまんだ。
「じゃあ、来られたの」
「来られた」
「仕事じゃなかったの」
「仕事じゃなかった」
言い切るたび、亮は自分で逃げ道を塞いでいった。娘に責められるのが怖かったから嘘をついたことも、その嘘を半年間訂正しなかったことも話した。
「ごめん。発表会より、自分が新しい部署でうまくやることを選んだ。それで、正直に言うより、仕事のせいにしたほうが楽だと思った」
美羽は返事をしなかった。ブンの背中を一度だけ撫でたが、犬も顔を上げなかった。
正午前、代行バスがまもなく到着するという案内が亮の携帯電話に届いた。二人は立ち上がり、駅へ戻る道を歩き始めた。
売店の前を通るところで、美羽が足を止めた。
「まだ許せないから」
「うん」
「会う時間を長くするのも、今は嫌」
亮は鞄の重さを肩に感じた。提案書を取り出して説明したい気持ちは残っていた。今日の失敗とは別の話だと言えば、まだ交渉できるような気もした。
けれど亮は鞄を開けなかった。
「分かった。嘘ついて、ごめん」
美羽はすぐには歩き出さなかった。売店のそばで、ブンがまた泥だらけのボールをくわえている。
「次も、ここでいい」
「ここ?」
「水族館じゃなくて。ブンにボール投げる」
亮が店主を見ると、店主はうなずいた。
「次の面会日も、たぶんいますよ。雨じゃなければ」
美羽は亮を見た。
「でも、お父さんは遠くへ投げすぎないで」
「分かった。ブンが戻れる距離にする」
「お父さんが格好つけない距離でしょ」
亮は少し笑い、「それで」と答えた。
駅へ向かいながら、亮は携帯電話で水族館の特別席をキャンセルした。返金手続きの確認画面を押し、限定の土産も渡さずに返品することにした。
隣を歩く美羽との距離は、近づいたと言い切れるほどではなかった。手もつながず、発表会の話も終わってはいない。
それでも次に投げるボールには、戻ってこられる距離が決まっていた。亮はその短い約束だけを、今度は予定表に飾らず持ち帰った。
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