閉じられた犬用通路

六月上旬の早朝、出勤前の散歩に出ようとした葵は、一階の犬用通路で足を止めた。前夜まで何もなかった狭い通路に、銀色の柵が据えられ、太い鎖と南京錠で閉ざされている。ラブラドール・レトリーバーのソラはいつものように先へ進みかけたが、柵の前で座り、葵を振り返った。

壁の掲示には「設備点検中」とだけ印刷されていた。葵がリードを引いても、ソラはすぐには動かず、開けてもらえると信じているように待っていた。

「今日はこっち。ごめんね」

葵はソラを一般玄関へ回した。住民と乗り合わせることを避けるために設けられた犬用通路なのに、朝の出入りが増える時間帯に大型犬を一般動線へ連れ出すのは気が重かった。

散歩から戻ると、葵は制服に着替える前に管理システムを開いた。その朝付けの社内通知には、「大型犬利用停止試験を開始」とある。管理規約の改定予定日は空欄で、理事会の承認欄も未記入だった。

規約上、ソラは今日もあの通路を使えるはずだった。葵は画面を閉じたが、柵の前に座ったソラの姿が残った。

同日午前、管理事務室で葵は管理責任者の黒田に通知を示した。黒田は椅子の背にもたれ、さほど重要ではない話を聞くように指を組んだ。

「規約改定はまだですよね。利用を止める根拠がありません」

「試験運用だ。先に実績を作ったほうが、理事会も判断しやすい」

黒田によれば、一部住民から大型犬への苦情が続いており、管理会社として早急に対応する必要があるという。だが葵が苦情記録の確認を求めると、黒田は話を切り替えた。

「明日、西村さん夫妻が再内覧に来る。犬種も体重も制限なしと、これまでどおり案内してくれ」

「柵を見られたら、どう説明するんですか」

「掲示どおり設備点検だ。未決議の話を購入申込者にする必要はない」

西村夫妻が、将来大型犬を迎えられることを条件に住戸を選んでいるのを葵は知っていた。販売資料にも「犬種・体重制限なし」と明記されている。柵が一時的なものではない可能性を伏せれば、虚偽に近い説明になる。

黒田は声を落とした。「三か月後、管理主任の枠が一つ空く。君の登用は私が推薦する。余計な問題を起こさず、任された説明をすればいい」

契約が更新されなければ、正社員への道だけでなく社宅資格も失う。葵は机の端を見つめたまま、拒む言葉を出せなかった。

翌日の午後、西村亮介と真紀が再内覧に訪れた。真紀は間取りの確認を終えると、大型犬を迎えた場合の動線を実際に見たいと申し出た。

葵は勤務先の許可を得て、自室からソラを連れてきた。「この子くらいの大きさを想定していただければ」と案内すると、夫妻の表情が和らいだ。ソラは見慣れない二人の匂いを確かめたあと、習慣どおり犬用通路へ向かった。

閉じた柵に着くと、ソラは騒ぎもせずに座った。それから葵を振り返り、鍵が開くのを待った。

「ここは通れないんですか」真紀が掲示を見上げた。「大型犬だから、ということではありませんよね」

葵の喉が狭くなった。ソラの目は、昨日と同じようにまっすぐ葵へ向いていた。

「一時的な設備点検です。運用条件が変わったわけではありません」

亮介は安心したようにうなずいた。「それならよかった。契約日は予定どおりでお願いします」

夫妻が先に歩きだしても、ソラは柵の前に残った。葵がリードを引くと、ようやく立ち上がる。その重みが、嘘の形をして手に残った。

同日夜、残業で一人になった管理事務室で、葵は業務用端末を開いた。西村夫妻へ渡した販売資料、試験運用の社内通知、理事会議事録、居住者からの苦情台帳を順に並べる。

直近の議事録には、大型犬制限について「継続審議」と明記されていた。決議も規約改定もない。それにもかかわらず、社内通知は制限の必要性を示す根拠として「大型犬に関する苦情十二件」を挙げていた。

苦情台帳で確認できた申し出は三件だけだった。同じ居住者の同じ内容が、受付日時を変えて繰り返し転記されている。十二件という数字は、四倍に膨らませたものだった。

葵は何度も照合し、見落としがないことを確かめた。権限の範囲で該当資料と閲覧日時を業務用端末に保全すると、窓の外はもう暗かった。

翌朝、出勤途中の葵を、黒田が犬用通路の前で待っていた。葵の隣にはソラがいた。柵はまだ閉じたままだった。

「苦情台帳まで見たそうだな」

「通知の十二件と一致しません。実際には三件です」

「集計方法は本社の判断だ。君が追及することじゃない」黒田はポケットから小さな鍵を出した。「ソラは既存犬の特例として登録する。君だけこの鍵を持てばいい。登用の推薦も変えない」

鍵は黒田の指先でかすかに揺れた。それがあれば、ソラはこれまでどおり通れる。葵も仕事と部屋を失わずに済むかもしれない。

ソラはいつもの場所に座り、柵の向こうを一度見てから葵を振り返った。自分だけが通れる鍵を受け取れば、この犬の信頼を守るのではなく、その信頼を隠れ場所に使うことになる。次にここへ来る犬と飼い主を、閉じた側へ置いたまま。

葵は差し出された鍵を見た。「受け取りません。西村さんへの説明を訂正します」

「契約も社宅も、どうなるか分かっているのか」

「分かっています」

同日午前、売買契約の最終確認に来た西村夫妻は、マンションの応接室で書類を広げていた。黒田が契約手順を説明し始める前に、葵は二人へ頭を下げた。

「昨日、事実と異なる説明をしました。犬用通路の柵は、単なる設備点検ではありません」

葵は、大型犬の利用を止める試験運用が始まっていること、その方針は理事会で正式決議されていないこと、販売資料には反映されていないことを話した。さらに、根拠とされた苦情件数と実際の記録にも食い違いがあると、確認できる範囲を区切って伝えた。

「高瀬、退室しなさい」黒田が遮った。「未確定の内部情報を申込者に話す権限はない」

真紀は契約書を閉じた。「未確定なら、なおさら体重制限なしと断言するべきではなかったんじゃありませんか」

亮介も書類から手を離した。「今日は契約できません。申込みを撤回します」

葵はもう一度、夫妻へ頭を下げた。その日のうちに、保全した資料と指示を受けた経緯、自分が一度は虚偽の説明をした事実を、会社のコンプライアンス窓口へ提出した。

調査が始まり、大型犬利用停止の試験運用は一時停止された。柵は開けられたが、管理事務室で葵に話しかける者はほとんどいなくなった。

三か月後、調査によって苦情の重複計上と、正式決議前の運用が確認された。だが管理事務室で黒田が葵に渡したのは、是正報告ではなく契約非更新通知だった。

「申込者への内部情報開示は守秘義務違反と判断された。管理主任への登用も見送る。社宅は契約終了日までに退去してくれ」

葵は通知を受け取った。予想していた文面なのに、紙は指の間で重かった。反論しても結論が変わらないことを、黒田の伏せた目が示していた。

社宅の自室では、段ボール箱が壁際に積み上がった。葵は最後の箱を閉じ、ソラの首輪には手をつけなかった。ここで得たものをすべて失っても、ソラとの暮らしまで会社に返す理由はなかった。

退去から一週間後の夕方、郊外の小さな賃貸住宅には、まだ最低限の荷物しかなかった。葵が散歩へ出るため玄関を開けると、ソラは先に飛び出さず、開いた扉の前に座った。

そして、閉じた柵の前でしたように葵を振り返った。あの日、道を尋ねる目の前で、葵は自分の暮らしを守るために嘘をついた。けれど、絆とは自分の犬だけを安全な側へ通す鍵ではないのだと、今は分かっていた。

「もう迷わせない」

葵が隣に並ぶと、ソラは立ち上がった。二人は開いた玄関から、同じ歩幅で外へ出た。

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