二つの家のあいだ

六月上旬の平日、理沙は会議室で海外支社への転勤内示を受けた。希望を出してから三年、ようやく巡ってきた機会だった。上司の説明を聞きながら、喜びより先に、バロンをどう連れていくかという課題が頭に浮かんだ。

帰宅すると、理沙は食事も取らずにノートパソコンを開いた。犬の入国検疫、予防接種の証明、航空会社ごとの輸送条件、ペット可の賃貸物件、最寄りの動物病院までの距離を調べ、項目ごとに表へ入力した。費用は想定内で、必要な検査も出国日から逆算すれば間に合う。

条件を満たす住居候補を三件に絞るころには、日付が変わっていた。理沙は手帳に検査日と書類の提出期限を書き込み、修一へ「明日、バロンのことで話したい」と送った。数字と手順をそろえれば、反対する理由はないはずだった。

翌日の夕方、理沙は閉店前の自転車修理店を訪れた。作業台の脇では、ビーグルのバロンが前脚に鼻先を載せ、工具の触れ合う音を聞きながら眠っていた。修一がレンチを置くのを待ち、理沙は印刷した計画表を広げた。

「検疫は間に合う。住居もペット可で、病院まで徒歩十五分。輸送費も私が出す」

修一は表に目を落としたが、受け取ろうとはしなかった。「向こうでは、何時間留守番させるんだ」

「勤務は八時間。シッターを頼めばいいし、散歩も朝晩できる」

「今のバロンは、店の開く時間に起きて、閉めるころに散歩へ行く。一日じゅう誰かの気配がある。飛行機だけじゃない。暮らしを全部変えることになる」

理沙は床で眠るバロンを見た。油の匂いの染みた店も、金属音も、犬に必要な条件とは思えなかった。「慣れなら作り直せる。私だって、ずっと世話をしてきた」

「世話をできるかどうかを言ってるんじゃない」

その言葉が、理沙には自分を飼い主として否定したように聞こえた。声が強くなりかけたところで、二人は一週間だけ、出国後を想定して理沙が続けて預かることに決めた。修一はリードを外しながら、「結果を都合よく見ないでくれ」と言った。

日曜の夜、理沙はマンションのリビングにバロンのベッドと水入れを置いた。フード量、散歩時間、室温を記録する表を冷蔵庫に貼り、玄関とリビングにはペットカメラを設置した。バロンはしばらく部屋の隅を嗅ぎ回ったあと、ソファに座る理沙の足元で眠った。

翌朝、理沙は海外勤務後と同じ時間に目覚ましを鳴らし、決めた量のフードを与えた。予定どおり早く家を出て、昼には契約したペットシッターに水の交換と短い散歩を頼んだ。帰宅後、皿が空になっているのを確かめ、排泄にも異常なしと入力した。

「初日は問題なし。食事完食、散歩二回」

修一へ報告を送ると、返事は「了解」だけだった。理沙はそれを慎重さではなく、認めたくない意地だと受け取った。数値は、自分の計画が正しいと示していた。

水曜になると、カメラの通知が増え始めた。エレベーターが止まる音や廊下の足音がするたび、バロンは玄関へ走り、扉の下を嗅いだ。誰も入ってこないと分かってもその場を離れず、前脚で扉を何度も掻いた。

夕食は三分の一ほど残されていた。夜中にもベッドを抜け出し、リビングと玄関を往復した。理沙は運動不足と判断し、翌日の散歩を二十分延ばすよう予定表を書き換えた。

木曜の夜、長いコースを歩かせようとすると、バロンは大通り手前の分岐で立ち止まった。右へ行けばマンション、左へ進めば修一の店だった。バロンは左へ鼻を向け、リードを張った。

「今日はそっちじゃないよ」

理沙が右へ促すと、バロンは歩道に伏せた。呼んでも立たず、フードを見せても顔を背けた。結局、予定していた距離の半分も歩かないまま、理沙はバロンを抱き上げて帰った。

金曜には食事の残量も、夜中に起きた回数も増えた。管理表の赤い数字を見つめながら、理沙は室温、フードの種類、シッターとの相性を順に疑った。それでも、玄関を掻く行動と散歩の拒否を、誤差として片づけることはできなかった。

その夜もバロンは同じ分岐で動かなくなった。理沙が根負けして左へ進むと、急に歩調を速め、閉店間際の修理店まで迷わず走った。扉が開くなり、バロンは修一の顔も見ずに作業台の下へ入り、丸くなった。

「散歩のたびに、ここへ寄っていたんでしょう」理沙はリードを握ったまま言った。「店へ戻る癖をつけて、私よりこっちを選ばせた」

修一は言い返さず、棚から一冊のノートを出した。離婚後、交代で世話を始めたころからの食事量、睡眠時間、散歩の経路が日付ごとに書かれていた。「理沙の記録も見せてくれ。比べれば分かる」

二人は作業台を挟み、ノートと理沙の管理表、ペットカメラの映像を照合した。バロンが玄関へ向かい始める朝の時刻は店の開店と重なり、夜に歩き回る時刻は閉店前の散歩時間と一致していた。映像の中で金属製の傘立てが鳴ったとき、バロンは玄関ではなく、その音のした方向へ耳を立てて近づいていた。

修一の記録では、客や配達員の出入りが多い日ほど、バロンの昼寝は長かった。修一自身がほとんど構わなかった日でも、食事も睡眠も乱れていない。支えていたのは修一だけではなく、決まった時刻に開く扉、工具の音、油の匂い、人が出入りする気配を含んだ暮らしだった。

作業台の下から、バロンの規則正しい寝息が聞こえた。理沙は、自分の部屋では一度も見なかった深い眠り方だと気づいた。修一は勝ち誇ることもなく、ただノートを閉じた。

深夜、マンションへ戻った理沙は、海外支社の勤務表を開き直した。現地の始業時刻、住居候補から職場までの通勤時間、残業の見込みを計算すると、バロンの留守番は今より少なくとも二時間長くなった。シッターを一度入れても、店にあるような継続した人の気配は用意できない。

ペットカメラの録画には、暗い玄関を見つめたまま眠らないバロンが映っていた。その横に、自分の作った渡航計画を並べる。検疫を通過できることも、飼育可能な物件を借りられることも、そこでバロンが安定して暮らせるという証明にはならなかった。

理沙は離婚した日のことを思い出したのではなく、その後もバロンだけは二つの家を行き来していた時間を思った。海外へ行けば、毎週リードを受け取る相手も、帰宅を待つ耳の長い影もなくなる。同行計画を手放せなかったのは、バロンのためではなく、また一つ失う自分の寂しさを埋めるためだった。

理沙は手続き一覧の画面を閉じた。眠っているバロンを起こさないよう照明を落とし、修一へ翌朝の話し合いを申し入れた。

出国当日の朝、理沙はスーツケースを持って修一の店を訪れた。バロンを正式に修一のもとへ残すこと、食費と医療費の一部を理沙が負担すること、体調や食事の記録を週に一度共有することを、一枚の合意書にまとめていた。緊急時の判断は、その場で世話をしている修一に委ねるとも記した。

修一は内容を読み、署名した。「帰ってきたときは、散歩に連れていけばいい。バロンが行きたがれば」

「そうする」理沙は答えた。以前なら、帰国日を決め、会う頻度まで書面に加えていただろう。けれど今は、その日のバロンの状態を先に置くという言葉を受け入れられた。

修一が開店準備を始めると、レンチの触れ合う乾いた音が店内に響いた。バロンは一度だけ顔を上げ、いつものように作業台の下へ入った。前脚に鼻先を載せ、ほどなく目を閉じた。

理沙は名前を呼び、最後に抱きしめたいと思った。こちらを向かせて、自分を忘れないという証拠を持っていきたかった。だが、それはバロンのためではないと、もう分かっていた。

理沙はリードを修一に渡した。「記録、待ってる」

「ああ。気をつけて」

眠るバロンの脇腹が、静かに上下していた。理沙は起こさずに店を出て、扉をそっと閉めた。空港へ向かう足取りには寂しさが残っていたが、その寂しさを理由に、バロンの暮らしを自分のものにはしなかった。

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