月曜の午前、会議室の画面に、駅から図書館や区民センターへ延びる何本もの線が映っていた。坂の多い地区で、歩行者向けの最短経路を一週間で調べ、新機能の試案を作る。それが海斗に与えられた仕事だった。
「試験公開で利用基準を満たせば、正社員登用を推薦する」
佐伯の言葉に、海斗は測定端末を握り直した。二十三歳の契約社員である自分に必要なのは、誰にも否定できない成果だ。距離、所要時間、傾斜――数字で示せるものだけが、客観的な情報だと信じていた。
午前のうちに現地へ出た海斗は、駅から公共施設までの最短経路を歩いた。乾いた風が坂を吹き上がり、端末の画面では距離が一メートルずつ増えていく。予定どおりなら、昼までに主要な一本を登録できるはずだった。
ところが駅裏の坂で、小さなトイプードルが急に立ち止まった。路面を横切る排水溝の金属格子を見下ろし、前足を引いている。飼い主の老人が促しても、犬は格子を避けるように脇道へ向かった。
「すみません。ココは、こういう格子が苦手でね」
八十歳だという吾郎は、犬に引かれて海斗の測定線を横切った。海斗は端末の計測を止め、思わず眉を寄せた。
「そっちは遠回りですよ。坂も続きます」
「距離は長いが、勾配は緩い。昔、郵便を配っていたころは、荷車を押すときによく使った。杖の人にも、こっちのほうが楽だったよ」
経験談だけでは経路情報にならない、と海斗は思った。それでも反論するには数字が要る。ココの後を追って脇道を測ると、最短経路より百四十メートル長い一方、最大勾配はかなり小さかった。
翌日の火曜から水曜にかけて、海斗は吾郎とココを連れ、地区の候補経路を歩いた。ココが急な階段の前で座り込み、雨の跡が残る商店街のタイルを避けるたび、海斗は傾斜や段差、道幅を端末へ入力した。
「この階段は、下りのほうが怖い。荷車は止めにくいからな」
吾郎はそう言って、住宅路を回る道を示した。別の角では、杖をつく人が足を運びやすい平らな路肩を教えた。海斗が測ると、吾郎の説明は多くの場合、数値にも表れた。
最短経路の中には、十センチを超える段差が続くものや、車椅子が方向を変えられないほど狭い曲がり角があった。地図上では一本の線にすぎない道が、身体によってまるで違う形になる。海斗は距離だけでなく、勾配、段差、道幅から通りやすい迂回路を選べる試案を作った。
木曜の午後、海斗は会議室で佐伯に機能を見せた。最短経路の横に「段差少なめ」「緩やかな坂」と表示され、利用者が別の線を選べるようになっている。
「発想はいい。ただし、本当に使われるか、情報が信頼できるかを確かめたい」
佐伯は地域の試用者を集めること、利用率と問題報告が基準内であることを条件に、一週間だけの公開を認めた。基準を超えれば正式採用を検討するという。
海斗は公開準備を急いだ。候補の一本について、吾郎が「以前は段差がなかった」と言った。ほかの経路は測り直していたが、締切が迫っていたため、海斗はその路地だけを現地で再確認せず登録した。
翌週月曜、試験機能が公開された。迂回路を選ぶ利用者数は初日から伸び、海斗は登用の通知を想像した。測定値に吾郎の土地勘を加えた判断は、正しかったように見えた。
しかし試験二日目の午前、車椅子利用者の真理から問題報告が届いた。案内された住宅路の曲がり角に、最近の道路工事で高い縁石が設置されていた。車椅子では越えられず、真理は来た道を戻って別の坂へ回らなければならなかった。
佐伯は執務室で報告画面を確認し、静かに言った。
「安全確認が終わるまで機能を停止する。通りやすいと表示した道が通れないのは、単なる誤差では済まない」
試験画面から迂回路の表示が消えた。正社員登用も遠のいたように思え、海斗は吾郎へ電話をかけた。
「記憶だけで大丈夫だと言いましたよね。経験談を採用したせいで、全部止まりました」
同日の午後、二人は問題の路地で落ち合った。ココは縁石の前まで来ると足を止め、鼻先を上げて吾郎を見た。新しい縁石は、古い舗装との境を硬い線で断ち切っていた。
「ここは平らだった。だが、町が変われば、わしの記憶も古くなる」
吾郎は言い訳をしなかった。その横顔を見て、海斗は登録前の確認を省いたのが自分だったことを思い出した。
「僕が確かめるべきでした。期限を優先しました」
近くの小公園で、真理は二人に別の経路も見てもらいたいと言った。数値上は緩やかな道でも、すぐ横を車が抜けると怖いこと、長い坂では腕が疲れること、途中に休める場所があるかどうかで負担が変わることを話した。
「傾斜が同じでも、通った感じは同じじゃありません」
ベビーカーで来た奈緒も、狭い曲がり角や舗装の振動、日陰の有無が気になると付け加えた。海斗の端末には傾斜の数字は入っていたが、恐怖も疲労も、休める場所も記録されていなかった。
縁石の前で立ち止まったココの姿が、海斗の頭に残っていた。身体は測定の前に危険を感じ取ることがある。だが、その感覚も町の変化に合わせて確かめ直さなければならない。
「経験か数字か、どちらかを選ぶのが間違いだったんですね」
「どちらも古くなるし、どちらにも拾えないものがある。なら、歩き直せばいい」
海斗と吾郎は、真理と奈緒に検証への参加を頼んだ。地域の試用者にも連絡し、停止翌日から五日間、全候補経路を実際の利用者と確かめることにした。
海斗は車椅子やベビーカーと同じ速さで歩き、傾斜、段差、道幅を測った。吾郎は工事の始まった場所や、見落としやすい抜け道を指した。ココは金属格子や滑りやすい舗装の前で足を緩め、そのたびに一行も立ち止まった。
真理は車が近づく区間に「怖さ」を記録し、腕が疲れる坂では休憩できる場所までの距離を確かめた。奈緒は狭い角でベビーカーを切り返し、舗装の振動や日陰のある場所を報告した。数字だけだった地図に、利用者の身体で感じた情報が重なっていった。
海斗はすべての項目に確認日と確認者を付けた。住民が工事や段差の変化を報告できる仕組みも試案へ組み込み、古い情報には再確認を促す表示を出すことにした。
五日後、海斗は佐伯へ修正版を提出した。縁石を見落とした原因も、確認を省いた自分の判断も隠さず記した。そのうえで、測定データ、身体感覚、更新日の三つを組み合わせた検証手順を説明した。
佐伯は報告書を最後まで読み、再試験を認めた。
再試験では、通りやすい迂回路の利用率が会社の基準を超えた。新たな工事の報告が入ったときも、確認日付きの情報がすぐに更新され、利用者へ反映された。遠回りを選んだ人が途中で案内をやめる割合も減った。
試験終了日、会議室で佐伯は正式採用を告げた。
「失敗を消したからではない。変化を見つけ、直し続ける仕組みを作った点を評価した。海斗、正社員登用も推薦どおり決まった」
海斗はうれしさを噛みしめたが、画面に自分の名前だけを残そうとは思わなかった。吾郎を継続協力者として登録し、真理や奈緒を含む地域の参加者が更新に関われる欄を設けた。地図は一人の成果ではなく、歩いた人たちの確認をつないだものになった。
一か月後、海斗は駅裏で吾郎と待ち合わせた。月に一度の確認調査の日で、ココは金属格子の手前から迷わず脇道へ入った。
「今日も遠回りですか」
「遠回りしなければ、変わった道を見落とすかもしれん」
海斗は笑って端末を起動した。乾いた風の中、二人と一匹は最短経路の線を外れ、今の町を確かめるように歩き始めた。
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