朗読動画でもお楽しみいただけます
この物語はYouTubeの朗読動画でもご覧いただけます。
午後三時二十分、市の遺失物センターの保管作業室で、森川亜紀は台帳の番号を一つずつ読み上げ、保管期限を過ぎた品に廃棄登録をかけていた。画面の滞留件数が減るたび、胸の奥に固く詰まっていたものも少しずつ軽くなった。
午後五時から、市庁舎で正職員への登用面接がある。監査を前にした滞留品の削減は、会計年度任用職員である亜紀が実績として示せる数少ない仕事だった。
「残り一件だな」
高瀬主任が廃棄対象のカートを見た。最後に残ったのは、色あせた青い子ども用リュックだった。既製品らしくない縫い目で、角には月の形にも見える継ぎ当てがある。
以前の確認記録には、記名なし、中身は子どものノート類、とある。午後四時までにこれを処理すれば目標件数に届き、着替えてからでも余裕を持って面接へ向かえる。
亜紀はリュックをカートへ載せた。期限も確認手順も、誰に対しても同じであるべきだ。それが公平というものだと、亜紀は信じてきた。
午後三時四十分、亜紀は受取窓口で野口修司の本人確認書類を照合していた。返却するのは、先週届けられた犬用の黄色いレインコートだった。
野口の足元には、茶色の柴犬が短いリードにつながれていた。コロという名の犬はおとなしく待っていたが、窓口の端に寄せてあった廃棄カートのそばを通った瞬間、青いリュックへ鼻を伸ばした。
「こら、コロ。すみません」
野口が引き戻しても、コロは前脚を踏ん張り、脇ポケットへ執拗に鼻先を押しつけた。ようやく離されても、首だけはリュックのほうへ向けたままだった。
受領手続きを終えたあとも、亜紀はその様子が気にかかった。ポケットに手を入れると底は空だったが、指先に裏地の裂け目が触れた。
裂け目をそっと広げると、布の奥から小さな透明袋が出てきた。中身は乾いた削り節だった。
午後三時四十八分、亜紀はリュックを保管作業室へ戻し、高瀬主任の立ち会いを求めた。破れかけた裏地を傷めないように開くと、削り節の袋のさらに奥から、細く折り畳まれた紙片が滑り出した。
紙片は市立図書館の貸出票だった。東分館の名称、貸出番号、複数冊の書名が印字されており、返却期限は今日の日付になっていた。
「名前はありません。でも、この番号なら図書館で利用者を照合できるかもしれません」
高瀬主任は貸出票を見てから、壁の時計へ目を移した。
「照合できても、こちらに個人情報は出せないだろう。持ち主を特定したことにはならない。そこは区別しておけ」
亜紀はうなずいた。規定上の証明ではない。それでも、つい数分前まで何もないと思っていた場所から、今日まで有効な手掛かりが出てきたのだった。
午後三時五十五分、亜紀は事務室から東分館へ電話をかけた。応対した司書の佐伯に事情と貸出番号を伝えると、短い保留音のあと、慎重な返事が戻った。
「該当する利用者の登録は確認できました。ただ、氏名や住所をお伝えすることはできません」
「図書館から連絡していただくことは可能ですか」
佐伯は登録先へ電話をかけたが、応答はなかった。折り返しを待つ方法もあるものの、いつ連絡が来るかは分からないという。
当日の庁内便はすでにセンターを出ていた。次の便は翌日で、東分館は午後五時半に閉まる。センターからは片道四十分かかる。
「こちらへ持ってきていただけるなら、閉館まで待ちます」
佐伯の声を聞きながら、亜紀は机上の面接書類に目を落とした。電話を切った時刻は午後四時五分だった。
午後四時十分、亜紀は面接担当部署へ連絡し、遺失物から当日中に確認すべき手掛かりが見つかったと説明した。開始時刻を遅らせてもらえないかと頼んだが、返答は明確だった。
「全候補者を同じ条件で扱うため、個別の時刻変更はできません。午後五時に来られなければ欠席となります」
受話器を置くと、高瀬主任が静かに言った。
「廃棄を止め、保管品を庁外へ持ち出すなら、処理延期と移送の記録が要る。途中で紛失した場合も、面接に遅れた場合も、判断した者が責任を負うことになる」
亜紀は廃棄登録の画面を見た。確定ボタンを押せば目標件数に届き、予定どおり面接へ行ける。規定は誰かを特別扱いせず、亜紀自身も守ってくれる。
けれど、貸出票の期限は今日だった。明日になれば同じ紙片でも、持ち主を分館へ向かわせる力を失うかもしれない。
亜紀は廃棄登録画面を閉じた。処理延期申請の理由欄に「期限当日の新規手掛かりを確認するため」と入力し、移送担当者の欄に自分の名を書いた。
「私が持っていきます」
高瀬主任は引き止めなかった。
「なら、記録を残せ。判断した者が分かるように」
亜紀は署名を終え、リュックを封印袋に収めた。用意していた面接書類は机に残し、午後四時十八分、東分館へ向かった。
午後四時五十八分、亜紀は市立図書館東分館に着いた。カウンターで待っていた佐伯と封印の状態、移送記録、遺失物の台帳番号を一つずつ確認する。
午後五時になったとき、亜紀の携帯電話に面接担当部署から着信が入った。亜紀は図書館にいることを伝え、欠席として扱われることを受け入れた。
通話を終えて間もなく、入口から母親と小学生くらいの女の子が駆け込んできた。西村真紀と娘の結菜は、翌朝の転居を控え、借りた本と一緒に失くしたリュックが返されていないか確かめに来たのだという。
佐伯は利用者の登録情報には触れず、カウンターの外へ出た。
「遺失物センターの職員が来ています。持ち物の確認は、そちらから行います」
亜紀は封印袋を見せる前に、結菜と目の高さを合わせた。
「どんなリュックだったか、覚えていることを教えてくれる?」
「青くて、お母さんが縫ってくれたの。角が破れたから、月みたいな形の布がついてる」
「ポケットや中には、何が入っていた?」
結菜は少し考え、脇ポケットには祖父母の家の柴犬にあげる削り節が入っていたと答えた。中には学校で育てた朝顔の観察記録があるという。
亜紀が封印を解くと、青いリュックの月形の継ぎ当てを見た結菜が息をのんだ。中から取り出した観察記録には、各ページに西村結菜の名と学校名が書かれていた。
真紀の身分証、遺失の届出内容、結菜の説明を照合し、亜紀はその場で正式な受領書を作成した。借りた本そのものは別の場所で失われたままだったが、観察記録は転校先へ翌朝提出する唯一の原本だった。
「もう一度書こうにも、育てていた朝顔は学校に置いてきてしまって。これがなかったら、あの子だけ何も持たずに新しい学校へ行くところでした」
真紀の声が震えた。結菜は返されたリュックを胸に抱えた。
「これで、新しい学校に行ける」
その言葉を聞いても、亜紀は自分の選択が正しかったと言い切る気にはなれなかった。失ったものは確かにあり、規則から外れた判断の結果は、誰かが引き受けなければならない。ただ、午後五時二十八分、親子がリュックを抱えて分館を出ていく姿を、亜紀は黙って見送った。
翌朝、遺失物センターの事務室で、亜紀は登用候補から外れたという通知を受け取った。予想していた文面だったが、紙の薄さに反して、手に残る重みは大きかった。
亜紀は言い訳を書かなかった。廃棄延期に至った経緯、庁外移送の手続き、面接を欠席すると分かったうえで自分が判断したことを報告書に記した。
その末尾に、廃棄直前の品について裏地や隠しポケットを再確認し、当日有効な手掛かりが見つかった場合には短時間だけ処理を保留できる運用案を添えた。偶然に頼るのではなく、次は手順として拾い上げられるようにするためだった。
高瀬主任は報告書を最後まで読み、すぐには評価を口にしなかった。
「監査資料と一緒に検討する。責任の所在が明記されていることは確認した」
亜紀は頭を下げた。空いた廃棄棚には、青いリュックが占めていた分だけ、小さな隙間ができていた。
犬が削り節の匂いを嗅ぎつけたことも、親子が閉館前に駆け込んだことも、ただの偶然だったのだろう。けれど奇跡とは、偶然そのものではないのかもしれない。
それを見過ごさないために誰かが足を止め、失うものを承知で結果を引き受けたとき、偶然はようやく誰かを救う形になる。亜紀はその隙間を見つめながら、昨日、自分が署名した名前を思った。
物語を、アプリで。
「犬と人の物語」はiPhone・Androidで読めます。アプリでできることや読書画面をご覧いただいてから、お使いのストアへ進めます。

