水路の向こうの家

土曜日の午前九時、藤野家の居間には、口を開けた段ボール箱が並んでいた。母の久美子は前日、駅に近いペット可の賃貸住宅へ移っている。残された家財を仕分け、家を売れる状態にするのが、麻衣と亮の今日の仕事だった。

麻衣の携帯電話が鳴った。窓のそばでは、ボーダー・コリーのノアが耳を立てている。

「藤野様、隣接地と一体で取得できるなら、先ほどの金額まで出せます。ただ、社内決裁の都合で、本日の正午までに契約をお願いしたいんです」

不動産業者の高瀬は、相場より三百万円以上高い額を提示していた。母を迎えに行き、十一時半までに会社へ着けば間に合う。

「分かりました。十一時にはここを出ます」

電話を切ると、亮が食器棚の前から顔を上げた。

「今日決めるのかよ」

「母さんの敷金も引っ越し代もかかってる。今後の生活費だって必要でしょ。三百万を捨てる理由はない」

麻衣はそう言いながら、台所のテーブルに置いた三枚の紙袋を見た。持ち出す、売る、捨てる。それぞれを太い字で書いてある。判断を遅らせるものは、たいてい判断したくないものだと、麻衣は店を経営するようになって覚えた。

ただし、自分が急いでいる理由は母のためだけではなかった。二号店の返済は二か月遅れ、仕入れ先への支払いも迫っている。実家が高く売れれば、母に頭を下げて援助を頼める。まだ誰にも話していないその計算を、麻衣は紙袋の文字の下へ押し込めた。

午前九時半を過ぎても、亮の足元には物が増えるばかりだった。父が使っていた錆びた工具箱、欠けた湯飲み、古いアルバムが、すべて「持ち出す」の側へ寄せられている。

「それ、どこに置くの」

「あとで考える」

「保管場所にも金がかかる。あとで、で家一軒分残す気?」

麻衣は工具箱を持ち上げ、「捨てる」の紙袋の横へ置いた。亮がすぐに戻す。

「父さんが物置を直したときの道具だぞ」

「父さんの記憶は錆びたペンチの中にしかないの?」

「そういう言い方しかできないのか」

乾いた音を立てて、亮は食器を箱へ入れた。緩衝材も巻かないので、麻衣はそれを取り出した。

「母さんの通院も買い物も、ずっと俺がやってきた。姉ちゃんは金だけ出して、たまに来て、早く決めろって言えば済むよな」

「敷金と引っ越し代、私が立て替えた。仕事を休んで手続きもした。何もしてないみたいに言わないで」

「金額を言えば全部同じだと思ってるだろ」

「言わなきゃ分からない負担を、察しなかったせいにしないで」

亮は返事をせず、アルバムを抱えて二階へ上がった。麻衣は時計を見た。午前十時十分。仕分けが終わった部屋は一つもなかった。

ノアが古いテニスボールをくわえてきて、麻衣の膝へ鼻先を押しつけた。久美子との朝の散歩がなく、庭と家の中を何度も往復している。

「亮、少し歩かせてきて」

階段の途中から、亮が言った。

「転居後は姉ちゃんもやるんだろ。今日はそっちが行けば」

「十一時に出るって言ったでしょ」

「俺だって片づけてる」

ノアは二人を見比べ、ボールを床へ落とした。麻衣が拾わないでいると、またくわえて後をついてきた。

十一時半になり、麻衣は廃棄袋を庭へ運び出した。亮は相変わらず、残す箱の前にしゃがみ込んでいる。箱の中には写真立てや工具に交じって、さっきのテニスボールまで入っていた。

「それは捨てて。泥だらけじゃない」

「ノアが昔から使ってる」

「新しいのを買えばいい」

「何でも取り替えれば済むと思うなよ」

亮はボールをつかみ、庭の廃棄袋へ投げた。ボールは袋の縁に当たって跳ね、柵の下を抜けた。家の脇を流れる細い水路へ落ちる。

ノアが飛び出した。呼び止める間もなく柵の隙間へ体をねじ込み、水路側の金網に前脚を突っ込んだ。低い鳴き声がして、体が宙づりになる。

「ノア、動くな!」

亮は柵をまたぎ、水路へ下りた。麻衣は物置へ走り、父の工具箱を開けた。捨てるはずだったペンチをつかんで戻り、金網へ差し込む。

「脚を持って。引っ張らないで、下から支えて」

「分かってる。早く広げろ」

麻衣の携帯電話が鳴った。画面には高瀬の名が出ていた。泥のついた指で応答すると、今すぐ出なければ正午の契約に間に合わないと言われた。

麻衣は金網に挟まれた白い脚を見た。三百万円という数字が浮かび、その向こうに返済予定表が重なった。

「今日は行けません。契約は断ります」

「条件は本日限りです。よろしいんですか」

「犬が挟まってるんです。置いてはいけません」

通話を切り、麻衣はペンチを両手で押した。金網がわずかに開き、亮がノアの脚を抜く。泥水の中で暴れたノアを二人がかりで抱え上げたとき、正午を知らせる町内放送が遠くで鳴った。

正午過ぎ、浴室の床は茶色い水で濡れていた。麻衣がシャワーを当て、亮がノアの体を押さえる。前脚には浅い擦り傷があるだけで、ノアは落ち着くと、二人の手を交互になめた。

「姉ちゃん」

亮は濡れた毛から目を離さずに言った。

「三百万を失って、そんな顔になる理由、本当に母さんの転居費だけか」

麻衣は蛇口を閉めた。水音が消えると、狭い浴室にノアの息遣いだけが残った。

「店の借金がある。二号店の返済が遅れてる」

亮が顔を上げた。

「いくら」

麻衣は借入残高と、遅れている支払いの額を答えた。家が高く売れれば、その金から援助してほしいと母に頼むつもりだったことも話した。

「母さんの生活費だって言って、俺を急かしてたくせに」

「そう。正しいことを半分だけ使った」

麻衣は泥のついた袖をまくった。口にすると、自分の計算がひどく簡単なものに見えた。母の家を売り、母の金で、自分の失敗を延命する。それを家族のためという言葉で包んでいた。

「今日なくなった上乗せ分は、あんたのせいにしない。ボールを投げたこととは別。二号店を閉めて、銀行と返済計画を組み直す」

「閉められるのか」

「閉めなきゃ一号店までなくなる」

麻衣はタオルでノアの前脚を包んだ。

「その代わり、亮も決めて。思い出の品は次の日曜までに三箱。ノアの散歩は週三回。できないなら、できないって先に言う」

亮はしばらく黙っていたが、ノアの濡れた頭を撫でた。

「片づけが終わらなければ、家との別れも延びると思ってた」

「延びるのは売却だけ。別れが楽になるわけじゃない」

「分かってる。三箱にする。散歩は月、水、土」

亮はタオルを取り替えた。

「母さんの通院と買い物も、これからは予定表に書く。何時間使ったかも。恩に着せるためじゃなく、誰も知らないままにしないために」

同日の夕方、二人はノアを連れて久美子の新居を訪ねた。低い棚と段差の少ない部屋で、久美子は引っ越し箱を椅子代わりにしていた。

麻衣は即金買取を断った経緯から話した。続けて店の借金と、売却後の援助を当て込んでいたことを告げた。久美子は途中で口を挟まず、最後に一度だけ息を吐いた。

「家を売るのはいい。でも、私のお金がいつの間にか麻衣の店のお金になるのは違うね」

「うん。店の負債は自分で処理する」

亮は手帳を開き、これまで付き添った通院や買い物の日を見せた。そのうえで、家財を無期限に残してほしいとは言わないと約束した。

三人は、相場に沿った仲介売却へ切り替えることを決めた。代金から最初に転居費、税金、久美子の生活費と介護の予備費を確保する。麻衣と亮の立替金は領収書のある分だけ精算し、それ以外の援助は前提にしない。

「同じだけもらえば公平ってことでもないのね」

久美子が言うと、亮は手帳に散歩の曜日を書き込んだ。

「少なくとも、隠したまま同じ顔をするよりはましだろ」

麻衣は火曜、木曜、日曜を引き受けた。残る金曜は久美子が短い散歩をし、難しい日は姉弟のどちらかへ早めに連絡することにした。足元で聞いていたノアが立ち上がり、玄関のほうを見た。

二か月後の夕方、実家から家具がなくなった。相場に沿った買い手が決まり、翌日には引き渡す。亮の思い出の品は約束どおり三箱に収まり、麻衣も二号店の閉店手続きを終えていた。

残された冷蔵庫には、売却代金から差し引く費用と久美子のために確保する金額の明細、通院と買い物の記録欄、ノアの散歩当番表が貼られていた。三人は数字と曜日を、もう一度声に出して確認した。

久美子が玄関の鍵を回した。ノアは先に家の前の小さな橋を渡り、水路の向こうで振り返った。

「水曜、俺が病院も行くから」

亮が言った。

「じゃあ木曜の散歩は私が長めにする」

麻衣は鍵のかかった家を振り返らなかった。亮と予定を確かめながら、母とノアのあとを追って橋を渡った。

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