宿泊の一週間前の夜、直樹は住居兼事務所の居間で、美月に電話をかけた。昼間の面会では言い出せなかったことを、売れ残りのペット用品に囲まれながら口にした。
「今度の土曜、泊まりに来ないか。おまえ専用の部屋も作ったんだ。ベルも一緒でいい」
電話の向こうで、美月はしばらく黙った。「専用って、空いてる部屋なんかあった?」
直樹は閉じたままの引き戸を見た。その向こうには、犬用の服や給水器、乾燥ソーセージの箱が天井近くまで積まれている。
「片づけたんだよ。新しいベッドもあるし、勉強机も置いた。いつ来ても使えるようにしてある」
言葉にすると、本当に用意したような気がした。机はまだ探してもいなかったが、一週間あればどうにかなると自分に言い聞かせた。
「お母さん、心配すると思う」
「そこはちゃんと話すよ。無理には言わない。でも、ベルも泊まれるから」
向こうで床を引っかく音がし、続いてベルの短い鳴き声が聞こえた。美月は犬をなだめてから、「ベルもいいなら、行ってみる」と答えた。
電話を切ったあと、直樹は引き戸を開けた。箱の一つが傾いて肩に当たり、隙間から賞味期限の近いソーセージの袋がのぞいていた。
宿泊当日の午前、直樹は在庫を自分の寝室へ運び始めた。売れる見込みのある品も、返品された品も区別せず、足の踏み場がなくなるまで押し込んだ。
空いた部屋には量販店で買った安い寝具を敷き、中古店で見つけた白い机を置いた。机の端には値札を剥がした粘着跡が残っていたが、壁際に向ければ目立たなかった。
午後、郵便受けに入っていた封筒を見て、直樹の手が止まった。表には管理会社の名と、滞納賃料の督促兼契約解除予告という文字があった。
直樹は封を切らなかった。寝室の箱の隙間へ差し込み、扉を閉めると、見えなくなっただけで片づいたように思えた。
夕方、美月はボストンバッグを肩にかけ、ベルのリードを握って玄関に立った。ベルは垂れた耳を揺らしながら、初めての匂いを忙しく嗅いだ。
「ここがおまえの部屋」
直樹が引き戸を開けると、美月は入口で一度立ち止まった。新しい寝具と机を順に見てから、机の角を指でこすった。
「これ、新品?」
「注文した机が届くまでの仮のやつ。気に入ったら、似たのを選べばいい」
美月は返事をせず、バッグを壁際に置いた。直樹は疑われたことより、説明がすぐに出てきたことに安堵した。
その夜、直樹は出来合いのハンバーグとサラダを皿へ移し、二人分を食卓に並べた。容器は台所のごみ箱の底へ押し込み、ソースだけを小鍋で温めた。
「手料理なんて、できたんだ」
「一人だと自然に覚えるよ。毎日外食ってわけにもいかないからな」
美月は小さくうなずいて食べ始めた。味については何も言わず、ベルに与えていいものを直樹に確かめてから、持参したフードを器へ入れた。
食後、ベルは居間を一周すると、寝室の扉の前で鼻を鳴らした。前脚で扉を引っかき、隙間へ鼻先を押しつける。
「ベル、そっちは駄目だ」
直樹が立ち上がるより先に、美月がリードをつかんだ。「何か食べ物があるんじゃない?」
美月が扉を細く開けた途端、内側から箱が倒れかかった。直樹が手を伸ばしたが間に合わず、いくつもの箱が廊下へ崩れ、犬用の服や給水器、乾燥ソーセージの袋が散らばった。
箱の隙間に挟んだ封筒も滑り落ちた。美月はそれを拾い、表の文字を読んだまま動かなかった。
「これ、何」
「在庫は明日発送する分だよ。ちょっと置く場所がなくてな。封筒のほうは管理会社の手違いだ」
直樹は自分でも驚くほど滑らかに答えた。美月は寝室を埋める箱と、直樹の顔を見比べた。
「全部、明日送るの?」
「何日かに分けてだ。注文が多くて、たまたま今だけ――」
「机も、注文したのが来るまでって言ったよね」
美月の声は大きくなかった。それでも直樹は、叱られたときより強く身を縮めた。
「細かいことはいいだろ。部屋はちゃんと使えるんだから」
美月は封筒を床に置き、居間へ戻って携帯電話を出した。「お母さん、迎えに来て。うん、今。着くまで中にいる」
電話を切ると、ボストンバッグへ洗面用具を戻し始めた。ベルのリードも手元へ引き寄せた。
「待てよ。こんなことで帰る必要ないだろ。寝る部屋はあるんだぞ」
「部屋がないからじゃない。まだごまかすから、もう泊まらない」
その一言で、直樹の中に用意されていた説明が止まった。管理会社の処理が遅れたことにも、取引先の入金がずれたことにもできたが、どの説明も美月をさらに遠ざけるだけだった。
母の車が着くまで、美月はバッグを抱えて居間の端に座った。ベルだけが落ち着かず、二人の間を行き来していた。
直樹は向かいに座り、膝の上で手を組んだ。「通販の仕事は、うまくいってない。仕入れすぎて、売れなくなった。家賃も半年払えてない」
美月は顔を上げたが、何も言わなかった。
「おまえの部屋は今日だけ作った。在庫を寝室に移して、ベッドと中古の机を置いた。夕飯も作ってない。買ったものを皿に移した」
一つ認めるたびに、部屋が狭くなっていくようだった。立派な父親に見せるために並べたものが、順番に剥がれ落ちていった。
「ごめん。もう泊まってくれとは言わない。次に何か約束するときは、できることしか言わない」
美月はバッグの持ち手を握り直した。「今は、信じるって言えない」
「うん。それでいい」
やがて玄関の呼び鈴が鳴り、美月の母が迎えに来た。彼女は散らばった在庫を見たが、直樹を責める言葉は口にせず、美月の荷物を確認した。
直樹も弁解しなかった。復縁や次の宿泊を持ち出さず、玄関で「気をつけて」とだけ言った。
美月はベルと廊下へ出たあと、一度だけ振り返った。直樹が何も付け足さないのを確かめるように見てから、母と階段を下りていった。
数日後、直樹は売れ残りの在庫をまとめて業者へ引き渡した。仕入れ値には遠く及ばない金額だったが、箱が減るたび、数字をごまかす余地も減っていった。
通販会社を畳む手続きを進め、管理会社には滞納を認めた。退去日と返済方法を相談し、娘用の部屋どころか、机を置く場所もない狭いワンルームへ移ることを決めた。
直樹は経過を短い文にして美月へ送った。会社を畳むこと、今の家を出ること、滞納分は分けて返すことだけを書き、苦労や決意は書かなかった。
引っ越しを終えた夜、もう一通送った。「来月の第一日曜、午後三時に、いつもの公園でベルを散歩させないか」
しばらくして、「三時なら行く」と返信が届いた。直樹は何度か文章を打ち直しかけ、結局、「三時に入口」とだけ返した。
宿泊未遂から一か月後の日曜、直樹は午後二時五十分に公園の入口へ着いた。早く来たことを知らせる連絡はせず、人の流れの脇で時計を見ながら待った。
三時ちょうど、美月がベルを連れて現れた。ベルは直樹を見つけるとリードを張り、足元まで駆けてきた。
「遅れてないよ」
「うん。俺も今来たところ」
直樹はそう言いかけて、時計を見た。「いや、十分前に来た」
美月は少しだけ口元を緩めた。二人はベルを間にして、落ち葉の積もった遊歩道を歩き始めた。
宿泊の話も、新しい部屋の話も出なかった。美月は学校の小テストについて話し、直樹は仕事を探していることを、まだ決まっていないまま伝えた。
会話が途切れると、ベルが落ち葉へ鼻を差し込み、二人は引っ張られるように立ち止まった。沈黙を埋める必要はなく、また歩き出すまで同じ場所で待った。
一周して入口へ戻るころ、美月はベルのリードを短く持ち直した。「来週も同じ時間でいい?」
直樹は先の予定や、いつかできることを並べなかった。「うん、三時にここ」
美月はうなずき、ベルと歩き去った。直樹にはもう、娘を泊める部屋はなかったが、次の日曜に戻ってくる時間と場所は残っていた。
物語を、アプリで。
「犬と人の物語」はiPhone・Androidで読めます。アプリでできることや読書画面をご覧いただいてから、お使いのストアへ進めます。

