雨水の通り道

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六月上旬の午後、古いアーケードには、雨の来る前の湿った匂いがこもっていた。宮下結衣は改装中の旧文具店に立ち、壁際に並べた見積書を一人で確かめていた。内装、作業台、冷蔵庫、そしてオーブン。都会のベーカリーを辞めて持ち帰った貯金が、紙の上で次々に形を変えていった。

脚立をたたんでいると、商店会長の大森正一が店先に現れた。大森は挨拶もそこそこに、店舗脇の排水桝を顎で示した。

「改装が始まってから、あそこがあふれるようになった。粉塵が枝管に入ったんだろう。掘り返すなら四十八万。そちらで負担してもらいたい」

結衣は差し出された紙を見た。金額だけが記され、調査記録も工事の明細もなかった。

「うちが原因だという根拠はありますか」

「位置を見れば分かる。前にも都会から戻って店を始めた人がいたが、半年で閉めて、会費も修繕費も残していった。だから先に責任をはっきりさせたいんだ。商店会にも入ってもらう」

結衣の胸に、見下されたような熱が広がった。都会の店を辞めたことを失敗だとは、誰にも言っていない。ここでまで、いずれ逃げる人間として扱われたくなかった。

「調査も明細もない請求には応じません。商店会にも入りません。私は私で開店します」

大森は口を引き結び、紙を畳んだ。アーケードの屋根を、降り始めた雨が細かく鳴らした。その日から結衣は、共同排水の仕組みも商店会の財布の中身も知らないまま、開店準備を一人で進めた。

数日後の早朝、雨脚は突然強まった。結衣は旧文具店の天井から雨漏りしていないか気になり、合羽を着て商店街へ急いだ。

表通りには濁った水が広がり始めていた。軒下では大森が赤毛の柴犬のリードを引き、犬は水のたまった路地を前に四肢を突っ張っていた。

「マメ、これくらい行けるだろう」

大森が抱き上げようと腰をかがめた途端、顔をしかめた。マメは耳を伏せ、濡れた地面からますます動かなくなった。

結衣は通り過ぎようとして、足を止めた。大森のことは気に入らなかったが、犬まで見捨てる理由にはならなかった。

「裏の搬入通路なら、床が高いです。遠回りですけど、水は浅いと思います」

大森は一瞬ためらい、「頼む」と短く言った。二人はマメを挟み、雨音に押されるように裏手へ向かった。マメは乾いた部分を選びながら、さっきまでの頑固さが嘘のように歩いた。

搬入通路へ回ると、低い唸りのような水音がした。古い板と土砂に塞がれた共同排水口から濁水が噴き返し、枝分かれして各店舗の床下通気口へ流れ込んでいた。水は結衣の店だけでなく、大森の店の裏にも、隣接する店舗の基礎にも達していた。

「枝管どころじゃない……」

大森の声が雨にかすれた。結衣は店内に置いた小麦粉と資材を思い出し、表へ走った。箱を高い棚に移し終えると、今度は大森が各店へ電話をかけ、荷物を上げるよう知らせていた。

二人はマメを乾いた荷台に避難させ、倉庫から出した土嚢を水の前に並べた。完全には止められなくても、流れを床下からそらすことはできた。泥水を吸った土嚢は重く、結衣の腕にはすぐに鈍い痛みがたまった。

「私の見立てが違っていたかもしれん」

大森は濡れた額をぬぐった。

「かもしれない、で工事はできません。配管業者を呼んでください。原因を調べてもらいましょう」

大森は反論せず、地元の配管業者である高瀬修平へ電話をかけた。雨水は足元を走り続けていたが、結衣にはもう、自分の店の入口だけを塞いで開店日を守ることはできないと分かっていた。

翌日の夕方、大森の店の奥にある商店会の会議室には、まだ湿った土の匂いが残っていた。排水後に管内を調べた高瀬は、図面と写真を机に広げた。

「主管に油脂と土砂がたまり、木の根も入り込んでいます。それに、過去の応急処置で出口の一部が板に塞がれている。昨日の雨で行き場を失った水が、複数の枝管へ逆流したんです。特定の一店舗が原因とは言えません」

高瀬は応急工事の見積書を置いた。総額百二十万円、着工時の前金が五十万円。大森は商店会の通帳を出し、残高三十五万円の欄を指で押さえた。

「客足の減った店にこれ以上の会費は無理だと思って、長いこと据え置いた。滞納も強く取り立てなかった。店をつなぎ留めるつもりだったが、結局、積立が足りなくなった」

大森は結衣へ向き直った。

「最初にあんた一人を責めたのは、私の間違いだ。悪かった」

謝罪を聞いても、失った時間も濡れた資材も戻らない。結衣には責任がないと席を立つこともできた。そうすればオーブンは予定どおり入り、開店日も守れるはずだった。

だが、机の上の図面では、どの店の枝管も一本の主管につながっていた。結衣は鞄から通帳を出し、オーブンの頭金として残していた五十万円の数字を見た。

「この五十万円を、前金として一時的に出します」

大森が顔を上げ、高瀬も黙って結衣を見た。

「ただし条件があります。見積書と領収書は全店に公開する。最終負担は店舗面積に応じて決める。積立金の残高と支出は定期的に報告する。それから、私の負担分を超える立替金には返済期限を設けてください」

「会長の私を信用できないということか」

大森の声が硬くなった。

「誰か一人を信用すれば済む形にしない、ということです。会長にも、新しく来た店にも、払える店にも、誰か一人に背負わせない仕組みが必要です」

結衣は自分の言葉を逃がさないよう、大森を正面から見た。助けてほしいとは最後まで言えなかったが、自分だけでは負担できないと認めることならできた。

大森は長く黙った後、条件を各店へ諮ると答えた。その晩のうちに店主たちの同意がそろい、面積別の負担と会計公開が決まった。結衣の立替金で工事はすぐに始められることになったが、オーブンの発注は遅れ、開店は一か月延期になった。

着工から一週間後の午後、高瀬たちは商店街裏の工事区画で主管を洗浄し、塞がれていた出口を開けていた。結衣は店の内装作業を止め、各店舗の荷物を移し、掻き出された泥を袋へ詰め、仮設排水路を見回った。

大森も腰をかばいながら土嚢を運んだ。結衣が受け取ろうとすると、「半分は持つ」と言って手を離さなかった。マメは工事区画の外につながれ、泥だらけの二人を落ち着かない様子で目で追っていた。

午後遅く、空が暗くなり、夕立がアーケードを打った。結衣と大森は裏手へ回り、仮設排水路を確かめた。雨水は新しく確保された流路へ吸い込まれ、細い渦を作りながら側溝へ抜けていった。床下への逆流は起きなかった。

雨宿りの間、結衣は壁に貼られた支出表を見た。自分の立替金も、各店の分担額も、同じ書式の同じ大きさの文字で記されていた。特別な善意として祭り上げられず、ほかの負担に紛れもしない数字を見て、結衣はようやく泥のついた手袋を外した。

一か月後、延期された開店日の前夜、オーブンの入った結衣の店で月例会が開かれた。白い壁には、工事の見積書、領収書、立替金の返済予定が並べて掲示された。

積立金の定期報告、店舗面積に応じた修繕費負担、滞納分の分割納付が、正式な規則として採決された。大森が小規模店への一律免除を提案すると、結衣は手を挙げた。

「免除にすると、また誰がどれだけ負担しているか見えなくなります。売上が落ちたときに申請して、期限を決めて猶予する形にしてください」

大森は渋い顔をしたが、やがて修正案を読み上げた。結衣の意見は歓迎のために受け入れられたのではなく、反対意見として検討され、規則に残った。

会議が終わると、大森は店先で待っていたマメのリードを手に取った。

「次の排水点検は、宮下さんの当番だ。来月の第一月曜、朝七時」

「分かりました。点検表は私が保管します」

大森は歓迎の言葉も祝いの言葉も口にせず、マメとともに帰っていった。結衣は自分の名が記された席から立ち、翌朝のパンを焼くため、オーブンの火を入れた。

外では小雨が降り始めていた。マメの足音が軒下を遠ざかり、その脇を雨水が側溝へ流れていった。水は誰か一軒の前にとどまることなく、皆で開けた通り道を、詰まらずに進んでいた。

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