音楽祭本番まで二週間となった夕方、大学ホールの舞台袖で、小宮紗英は舞台監督を任された。提出した進行表の精度と、それまでの準備作業が評価されたのだ。紗英が隣を見下ろすと、スタンダード・プードルのノアは静かに見上げ返した。
初回の舞台裏確認を始めると、実行委員長の高瀬亮が床を指した。何本ものケーブルが舞台袖を横切り、舞台上では音響の調整が続いている。
「ここは暗転中も人が走るし、本番はかなりの大音量になる。ノアには危険じゃないかな」
高瀬は少し間を置き、受付係への変更を勧めた。犬の安全を考えての提案だと繰り返したが、紗英には、自分まで舞台裏から外される話に聞こえた。
「交代はしません。舞台監督をやりたいです」
紗英はそう答えたものの、必要な条件を尋ねられると、喉が狭くなった。面倒な人だと思われたくない気持ちが先に立つ。
「ノアは訓練されていますから、特別なことはほとんど要りません」
口にした直後、それが正確ではないと分かった。ノアは落ち着いていても、ケーブルが消えるわけではない。紗英の続投意思と高瀬の懸念だけが、整理されないまま舞台袖に残った。
翌日の昼、紗英はノアを連れて学生支援室を訪れた。高瀬と向かい合う席で、水野真紀はまず確認するように言った。
「ノアが安全に待機できるかという問題と、小宮さんが舞台監督を務められるかという問題は、分けて考えましょう」
水野は紗英の代わりに結論を述べず、何を望むかを尋ねた。紗英は膝の上で指を組み直した。
「受付への変更は受けません。ノアを所定の位置に待機させて、短時間の試験リハーサルをしてください。実際の運用で確認したいです」
高瀬は、水野が立ち会うこと、ノアをケーブル区域へ入れないこと、異常があれば即時中止することを条件に同意した。
「それから、連絡は口頭だけでなく、見て分かる合図が必要です」
紗英はそこまで言って、要求を重ねすぎた気がして口を閉じた。ほかにも確認すべきことはあったが、「残りは実地で確かめます」と引き取った。それでも、能力を試してもらう場は得られた。
一週間後、試験リハーサルが始まった。紗英は進行表と舞台上を交互に見ながら、あらかじめ決めた手信号で転換を指揮した。ノアは舞台袖の所定位置に伏せ、人の動きを妨げなかった。
次の転換を出そうとした瞬間、ノアが立ち上がり、鼻先で紗英の脚に触れた。一度、離れ、もう一度触れる。警報音を知らせる動作だった。
紗英は即座に両腕で停止の手信号を出した。舞台上の作業を止め、近くの学生へ退避確認を指示する。しかし、耳栓をしていた出演学生たちは戸惑って立ち尽くし、別の学生は鳴っている音を演出用の効果音だと思っていた。
高瀬が舞台裏を見回し、ようやく警告灯を見つけた。灯りは点滅していたが、積まれた機材の陰に隠れ、通路からはほとんど見えなかった。
施設課へ連絡すると、消防設備の点検中に試験信号が誤って送られたことが判明した。実際の火災ではなかったが、紗英は安堵だけで終わらせず、記録用紙に二つの事実を書き分けた。ノアが警報を知らせたことと、紗英以外にも警報を認識できなかった者がいたことだ。
「ノアがいたから止められました。でも問題は、私に聞こえないことだけではありません。今の手順では、聞こえる人でも演奏中や耳栓の使用中には気づけません」
試験はそこで中止となった。ノアは危険を増やす存在ではなく、見落とされていた警報を補足した。その一方で、ホール全体の緊急伝達が音に頼りすぎていることも明らかになった。
リハーサル終了直後、ホール脇の打合せ室で、高瀬は本番への懸念を口にした。
「同じ混乱は起こせない。ノアは控室にいてもらって、小宮さんには指示書を作ってもらう。肩書は舞台監督のままにして、現場の指揮は別の学生に任せるのはどうだろう」
紗英は、残れるだけでもよい、と言いかけた。舞台監督の名が進行表に残れば、完全に外されたことにはならない。そう考えようとしたとき、椅子の横にいたノアが脚へ寄り、体温が伝わった。
ノアを控室に置くことは、犬だけを外す話ではない。必要な情報を受け取る手段を紗英から切り離し、作った指示書だけを利用する話だった。
「私は警報を受けて、停止の合図を出し、退避確認を始めました。舞台監督として必要な行動はできています」
紗英は高瀬を見た。声を強くするのではなく、一つずつ事実を置いた。
「混乱の原因はノアではありません。誰にとっても伝達手順が足りなかったことです。肩書だけ残す案は受けません。消防設備の担当者と学生支援室、それに出演者も交えた安全協議を開いてください。そのうえで、避難リハーサルを求めます」
公開の場で失敗すれば、配慮の不足ではなく、自分の適性が疑われるかもしれない。それでも、個別の厚意で残してもらうだけでは、次も同じ場所で引き下がることになる。
水野は紗英の言葉を確認してから、高瀬へ向き直った。高瀬はすぐには答えなかったが、やがて協議の開催に同意した。
翌日の午後、大学ホール客席前方で公開の安全協議が開かれた。施設課の消防設備担当者である森川、出演者代表の吉岡美晴、出演学生と舞台スタッフも集まった。ノアは紗英の足元に伏せていた。
森川は、試験信号が送られた経緯を説明したうえで、警告灯の前に機材を置いた運用に問題があったと認めた。
「音だけに頼った連絡も十分ではありません。警告灯が見えない場所を作らず、別の伝達手段も組み合わせる必要があります」
吉岡も手を挙げた。
「演奏中は音の種類を判別しにくいです。耳を守るために耳栓を使う出演者やスタッフもいます。昨日、私たちが動けなかったのは、小宮さんだけの問題ではありません」
紗英は進行表と簡単な配置図を広げた。自分の能力の評価と、仕事に必要な支援を混ぜないために、提案を項目ごとに示した。
「まず、床のケーブルを保護材で覆ってください。舞台袖の奥には、ノアと一緒に移動できる退避位置を定めます。私には警報と連動する振動端末が必要です」
さらに、どの位置からも確認できる警告灯と、停止・避難を伝える共通手信号を提案した。手信号は紗英だけのためではなく、すべてのスタッフが使うものとする。
高瀬は費用と、本番までの準備時間を懸念した。森川が保護材と警告灯の配置を整理し、水野が振動端末の手配を確認した。実施可能な範囲が見えるにつれ、特別扱いという曖昧な言葉は、具体的な安全手順へ置き換わっていった。
最後に紗英は言った。
「私だけが残るための方法ではなく、ここにいる全員が止まれて、避難できる方法にしてください。機能するかどうかは、実地で確かめたいです」
本番三日前の夕方、大学ホール全域を使った避難リハーサルが行われた。床のケーブルは保護材で覆われ、舞台袖奥にはノアと紗英の退避位置が確保された。
演奏中を想定した合図で、警告灯と紗英の振動端末が同時に作動した。紗英が停止の手信号を出すと、舞台袖のスタッフが受け取り、出演者へ順に伝えた。ノアは紗英に従い、定めた動線から退避位置へ移った。
人数確認まで滞りなく終わると、森川は消防設備上も有効な手順だと確認した。高瀬は記録表を閉じ、紗英の前に立った。
「全体を見て指揮できていた。舞台監督は、小宮さんに続けてもらう」
謝罪の代わりに差し出されたその事実を、紗英はまっすぐ受け取った。必要な支援があっても、能力が薄まるわけではない。ノアもその場にいたまま、本番の進行を担うことが正式に決まった。
音楽祭本番の夜、紗英は舞台袖で振動端末を手首に巻き、共通手信号で転換と出演の合図を出した。ノアは保護された待機位置に伏せ、必要なときだけ顔を上げて紗英へ注意を促した。
すべての演目は予定どおり進んだ。最後の出演者が演奏を終えると、紗英は暗転を確認し、終演の合図を送った。
客席から拍手が起こった。その音は紗英には届かない。代わりに、靴底から床を伝う細かな振動が上がってきた。
隣ではノアが静かに伏せ、一定の呼吸を続けている。紗英はその背に手を置いた。ここにいることを隠す必要も、申し訳なく思う必要もなかった。
舞台袖の向こうで、高瀬が成功を示す共通手信号を送った。紗英も同じ合図を返し、それから進行表を開いた。
拍手の外側にも、彼女の仕事は続いている。紗英はノアの落ち着いた体温を手に残したまま、舞台監督として次の撤収指示を出した。
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