青い足跡の名簿

閉校式まで三週間となった朝、安達美香は中庭の壁画の前で足を止めた。現校舎と旧校舎を結ぶ壁には、歴代卒業生の名が一本の大樹を形づくるように描かれている。その根元にだけ、乾ききらない青い文字で、公式名簿にはない五人の名が加えられていた。

「記念事業に落書きは困ります。式まで時間がありませんから、今日中に消してください」

美香がそう指示すると、そばにいた坂井校長は苦い顔でうなずいた。閉校を惜しむ卒業生の間には、統廃合への反発も残っている。美香は誰とも争わず、滞りなく最後の日を終えるために、寄せられる要望を一つずつ無難な形へ整えてきた。

壁画制作を手伝っていた森真帆が、消されていく青い名を黙って見ていた。用務員の娘である真帆は、学校に隣接した旧用務員住宅に住んでいる。

「何か知っているの?」

美香が尋ねても、真帆は首を横に振った。

翌朝、壁画には別の名前が三つ増えていた。青い筆跡は前日より細く、急いで書かれたように震えている。美香が近づくと、旧校舎側から小さな犬が駆けてきた。

真帆の飼うミニチュアダックス、ソラだった。長い胴を弾ませるたび、短い四本の足から青い跡が落ち、中庭を横切って壁画まで続いた。

「ソラ、どこへ行ってたの」

真帆は慌てて抱き上げた。青く濡れた足先を制服の袖で包み、美香とは目を合わせなかった。

「毎朝、旧校舎へ行っているの?」

「分かりません。勝手に抜け出すから」

美香は再発防止のため見回りを増やすことにした。しかし、壁画の前から旧校舎へ延びる青い足跡を見つめるうち、見張るべきなのは壁画だけではないと思い直した。

その翌日、美香は夜明け前から中庭に立った。旧用務員住宅の戸口からソラが現れ、地面すれすれの体で植え込みへ駆け込んでいく。追うと、犬はフェンスの下に口を開けた低い排水溝へ身を滑らせ、そのまま旧校舎側へ消えた。

人間には通れない狭さだった。美香は施錠されたフェンス沿いを回り、許可を受けた者だけが使える通用路から旧校舎裏へ入った。

そこには、青い絵の具の皿を持つ真帆と、数人の年配者がいた。ソラが皿の縁に前足をかけると、真帆が小さく息をのんだ。

「教頭先生」

年配者の一人、黒田澄子が美香の前へ進み出た。閉校準備の旧資料整理を許可され、旧校舎へ出入りしている元卒業生だった。

「壁に名前を書いたのは私たちです。真帆さんには手伝ってもらいました。ソラは先に排水溝を抜けて、絵の具を踏んだだけです」

「許可のない加筆はやめてください。事情があっても、あの壁画は公式名簿を基に作られています」

「だから書いたんです。公式から消されたまま、学校までなくなってしまう前に」

黒田は美香を旧校舎一階へ導いた。かつて夜間学級に使われた教室には、低い棚と黒板が残っていた。資料庫から運び出された箱の上に、黄ばんだ当番表、教材の貸出票、色紙の寄せ書きが並べられている。

「昼は働いて、夜ここへ通いました。けれど統合のとき、学籍の一部がどこかへ行った。後で校史が作られたときは、資料不足の四文字で、学級ごとなかったことにされたんです」

黒田が差し出した大学ノートには、鉛筆で何度も書き直された名前が並んでいた。周りの卒業生たちが記憶を持ち寄り、呼び名や席順を確かめて作った名簿だという。

「全員を壁に戻してください。ここで学んだことは本当です」

美香は貸出票を手に取った。名字だけの署名が、消えかけた日付の脇に残っている。夜間学級が存在したことは疑えなかったが、ノートの名前がすべて同じ教室にいたと証明するには足りなかった。

「消去はいったん止めます。学校で扱いを協議させてください」

二日後の午後、校長室で学校側と卒業生側の協議が開かれた。坂井校長は黒田のノートと旧資料を見比べ、ゆっくり眼鏡を外した。

「夜間学級の存在は記録に補うべきでしょう。ただ、公印のある学籍簿で確認できない氏名を恒久的な壁画へ載せれば、誤記や個人情報の問題が起きます」

「その学籍簿から落ちたから、私たちは来たんです」

黒田の声が硬くなった。

「学校が残した紙だけを証拠にしたら、紙を失われた人間は永遠にいなかったことになるでしょう」

卒業生たちは口々に記憶を語った。しかし、同じ人物を旧姓で呼ぶ者と結婚後の姓で呼ぶ者がいた。通称しか知られていない者もおり、二つの呼び名が一人を指すのか、別人なのかさえ一致しなかった。

坂井は裏付けのない名前は一切載せられないと繰り返し、黒田は全員を載せなければ意味がないと譲らなかった。美香は双方の言葉を整理して合意点を探したが、全員掲載か全員不掲載かという二つの箱しかないかぎり、どちらにも人が挟まれると思った。

「連絡できる方から、一人ずつ確認します。資料との照合もさせてください」

協議後の数日、美香は教頭室と旧資料庫を往復した。当番表の姓、貸出票の筆跡、卒業生たちの記憶を照らし合わせ、所在が分かった元生徒へ電話をかけた。

壁画への掲載を喜び、長く忘れられていた教室が戻ってくるようだと泣く人もいた。一方で、声を低くして断る人もいた。

「今の家族には、夜の学校にいたことを話していません。事情も知られたくないんです。名前は出さないでください」

受話器を置いたあと、美香は確認表の氏名を線で消しかけ、手を止めた。載せないという意思を、存在しなかったことと同じ印で処理してよいのか分からなかった。

旧資料庫では、黒田と真帆が一人の手掛かりを探していた。皆が「ミチさん」とだけ覚えている人物で、本名も生死も分からない。寄せ書きには、青いインクで「ミチ」とだけあった。

「この人まで消したら、また同じです」

黒田は寄せ書きを握りしめた。

「けれど、別の人の本名をミチさんだと決めつけたら、その人の記憶まで変えてしまいます。望まない方の名前を出せば、今の暮らしも傷つけます」

美香が言うと、黒田は長く黙った。真帆が寄せ書きの空いた部分を指でなぞった。

「名前が分からないってことも、残せませんか」

その言葉で、美香は完全な名簿を作ること自体が、学校の都合のよい結末なのだと気づいた。確認できた事実と、本人たちの記憶と、どうしても確認できない欠落を、同じものとして塗り固めなければよい。

閉校式の一週間前、美香は校長室へ新しい案を持ち込んだ。資料で確認でき、本人の同意も得た名前は壁画へ戻す。同意した卒業生の証言は放送室で録音し、実名を望まない人は匿名で語れるようにする。

そして特定できない人々のために、壁画へ名前のない青い枠を設ける。脇には、夜間学級の記録が散逸し、氏名も人数も完全には確認できないという経緯を記す。

坂井は書面を何度も読み返した。

「確定したことと、証言に基づくことと、未確認のことを明確に分ける。それなら、学校として承認できます」

黒田は青い枠の見本を見つめていたが、やがてうなずいた。

「名前を書けない人も、ここにいた。そのことまで消さないなら」

美術室では、在校生有志と卒業生たちが並んで筆を動かした。確認された名前が大樹の根元へ戻り、その隣に大小の青い枠が描かれた。放送室では真帆たちが、働いたあとの眠気や、冬の教室の寒さ、遅い時間に分け合ったパンについて語る声を編集した。

ソラは作業する人々の足元を歩き、時折、長い胴を青い枠の前へ伸ばした。美香は壁画と録音記録を見比べながら、どちらにも収まらない人がいることを、以前のように不備とは思わなくなっていた。

閉校式当日の朝、中庭には薄い朝露が降りていた。美香は来校者が壁画を見たあと証言音声を聞けるよう、案内を整えた。

式では誰かを告発することも、名簿が完成したと宣言することもしなかった。ただ、この学校の記録には残せたものと残せなかったものがあり、その両方を次へ渡すのだと伝えた。

開場の少し前、旧校舎側からソラが歩いてきた。制作時に残っていた青い絵の具を踏んだらしく、短い足の下から小さな足跡が続いていた。

ソラは壁画の前まで来ると、名前のない青い枠を嗅ぎ、真帆に呼ばれて駆け戻った。足跡は枠の手前で途切れていた。

美香は雑巾を手に取ったが、拭かなかった。青い跡を残したまま中庭の扉を開けると、卒業生と在校生が静かに壁画の前へ集まり始めた。

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