花火大会の朝、澪はルカに引かれるように坂を下った。細い胴と長い脚を持つウィペットは、まだ熱をためていない舗道を軽やかに進んでいく。
路線が廃止されてからも、旧停留所には色あせた標識とベンチだけが残っていた。ルカがその脚に鼻を寄せるあいだ、澪はスマートフォンを開いた。
『ごめんね。今の生活では、澪と一緒に暮らすのは難しいです』
昨夜、真紀から届いた返事は、何度読んでも別の意味にはならなかった。嫌いだからではないこと、離れていても大切に思っていること、そのあとに続く言葉ほど、最初の一文を固くした。
父が奈緒と再婚してから、澪は実母の家へ移りたいと考えてきた。奈緒が作った食事をおいしいと言うことも、二人で買い物へ行くことも、真紀を裏切るような気がしていた。だから先に奈緒を拒んだ。いつか迎えに来てもらえると思えば、この家で馴染めないことにも意味ができた。
ルカがリードを引き、澪は画面を伏せた。直接会えば、真紀は考え直すかもしれない。文字で断るのと、目の前に立つ娘を帰すのとは違うはずだった。
家へ戻ると、奈緒が玄関まで出てきた。ルカはためらいなく尾を振り、差し出された手に頭を押しつける。
「今夜の花火、三人で行かない? お父さんも早く帰れるって」
「友達と行くから」
用意していた嘘は、驚くほど平らな声で出た。奈緒は一瞬だけ口元を止め、それから「そう」と笑った。
「帰る時間がわかったら連絡してね」
澪は返事をせず、自室へ上がった。閉めた扉に背を預けると、リュックの底に入れてある通帳の硬さを思い出した。
夕方、澪は一泊分の着替えを詰めたリュックを背負った。居間では、帰宅した父の孝志が花火大会の交通規制を調べ、奈緒がルカの夕食を用意していた。
「友達と一緒なら、終わったら駅前から臨時バスか?」と孝志が聞いた。
「たぶん。混んでたら歩く」
「遅くなるなら連絡しろよ」
奈緒は冷やした飲み物を差し出した。断れば中身まで見抜かれそうで、澪は受け取ってリュックの脇へ押し込んだ。
「いってらっしゃい。気をつけて」
玄関の奥からルカがこちらを見ていた。澪は奈緒にもルカにも振り返らず、花火会場へ向かう人の流れに紛れた。
会場近くの臨時バス乗り場から駅へ出れば、真紀の町へ向かう最終列車に間に合う。今夜は友達の家に泊まるとあとで連絡すれば、一晩くらいはごまかせる。その先のことは、真紀の顔を見てから考えるつもりだった。
夜空に開いた花火は、見上げた人々の顔を一瞬ずつ明るくした。澪はほとんど空を見ず、バス乗り場の列の後ろで時刻ばかり確認していた。
最後の花火が消えたころ、係員が運休を告げた。近くで起きた接触事故のため道路が封鎖され、駅行きの臨時バスはすべて動かせないという。
澪は人波を抜けながら、迂回路と徒歩の所要時間を何度も検索した。どの経路を選んでも最終列車には間に合わず、スマートフォンの電池表示だけが赤く細くなっていった。
真紀に電話をすれば、来ないでと言われるかもしれない。父にかければ、友達と花火を見るという嘘から説明しなければならない。どちらの名前も押せないまま、澪は浴衣姿の人々とは逆へ歩いた。
家には戻っていないつもりだった。けれど見慣れた坂を下り、暗い道を曲がった先に現れたのは、毎朝ルカと立ち寄る旧停留所だった。
ベンチに腰を下ろすと、リュックの中で飲み物が音を立てた。奈緒に持たされたそれを取り出して一口飲む。ぬるくなっていても、乾いた喉には痛いほど冷たく感じられた。
電池は残り二パーセントだった。澪は連絡先を開き、真紀と孝志の名前を通り過ぎた。最後に奈緒の名前を押したのは、奈緒なら拒まれても、もともと期待などしていなかったと言えるからだった。
「もしもし、澪ちゃん?」
「旧停留所にいる」
息を吸っても、次の言葉がなかなか出なかった。
「迎えに、来てほしい」
「怪我はない? 一人?」
「怪我はない。一人」
「わかった。そこを動かないで。すぐ行くから」
どうしてそこにいるの、と奈緒は聞かなかった。通話が切れた直後、画面も暗くなった。遠くで花火の残響に似た音がして、澪は動かないスマートフォンを両手で握った。
どれほど待ったのか、坂の上から車の灯りが近づいてきた。停車した車の後部ドアが開くより先に、ルカの細い頭が隙間から現れた。
奈緒がリードを握って降りると、ルカは長い脚をもつれさせそうな勢いで駆けてきた。澪の膝へ鼻先を押しつけ、無事を確かめるように何度も息を吸う。澪はその首を抱いた。
「ルカ、連れてきたの」
「落ち着かなかったから。私も、そのほうがいいと思って」
奈緒は叱らず、車にあった新しい飲み物を澪へ渡した。運転席へ戻ってからもエンジンをかけず、前を向いたまま言った。
「このまま家へ帰るか、ここにお父さんを呼んで三人で話すか、澪ちゃんが決めていいよ。無事だってことと、私が迎えに来たことだけは伝えてある」
「行き先、聞かないの」
「話したくなったら聞く。今すぐ言わせたら、また逃げ道をなくすから」
また、という言葉に澪は顔を上げた。後部座席に座ったルカが、前脚のあいだへ鼻を伏せている。
「お母さんの町へ行くつもりだった」
奈緒の肩がわずかに動いた。それでも振り返らなかった。
「一緒に暮らしたいって頼んだ。でも、無理だって。昨日、返事が来た」
口にした瞬間、胸の奥で支えていたものが崩れた。澪は膝の上で拳を握った。
「直接行けば変わるかもしれないと思った。顔を見たら、やっぱり来ていいって言うかもしれないって。何も決まってないのに、家を出た」
「そっか」
「かわいそうだと思った?」
「思わないようにするのは無理。でも、それだけじゃない」
奈緒はそこでようやく振り返った。
「私は、澪ちゃんのお母さんになりたかった。だから話しかけても返事がなくても、時間がたてば受け入れてくれるって都合よく考えてた。傷ついて黙ってるかもしれないって、ちゃんと見なかった」
「私、奈緒さんを嫌ってた」
「うん」
「お母さんみたいにされるのも嫌だった」
「うん。それは言っていい」
奈緒の声は少しかすれていた。善い人の顔で何でも許すのではなく、傷ついた顔を隠しきれないまま、奈緒は言葉を続けた。
「でも今夜のことは、心配したし、腹も立ってる。帰ったら何もなかったことにはできない。ただ、私をお母さんと呼ばないから帰れない、なんてことはないよ」
澪はルカの背に手を置いた。短い毛の下で、規則正しい呼吸が動いている。
「帰る。お父さんにも、自分で言う」
「わかった」
奈緒がエンジンをかける。旧停留所の標識が灯りの外へ遠ざかるまで、澪は後ろを見ていた。
深夜の居間で、孝志は腕を組んで待っていた。澪は座る前に、真紀と暮らしたいと頼んでいたこと、断られたこと、黙って町へ向かおうとしたことを話した。
孝志はすぐには答えなかった。怒鳴られるより、その沈黙のほうが澪にはつらかった。
「お前が向こうで暮らしたいと思ってたことは、聞きたくなかった。でも、言ったからってここから追い出したりはしない」
孝志は深く息を吐いた。
「ただし、無断で遠くへ行こうとした責任は別だ。一か月、門限は七時。外泊や遠出は、これから必ず事前に相談する。それがこの家で暮らす条件だ」
「わかった」
「納得できないなら話し合う。黙っていなくなるのは、もうなしだ」
「……わかった」
澪は充電器につないだスマートフォンを手に取った。真紀への返信欄に、『当面はこちらで暮らす。落ち着いたらまた連絡する』と打ち、自分で送信した。
奈緒は向かいの椅子に座ったまま、その画面をのぞかなかった。
「私のことは奈緒さんでいいから」と言った。「いつか別の呼び方をしたくなっても、ならなくても、澪ちゃんが決めて」
「ずっと奈緒さんかもしれないよ」
「それでいい。少し寂しいとは思うけど、強制はしない」
その正直さに、澪は初めて奈緒の顔をまともに見た。家族になるというのは、誰も傷つかない言葉を選ぶことではないのかもしれなかった。
翌朝、澪が玄関でリードを持つと、ルカは昨夜のことなど忘れたように跳ねた。ドアを開けかけてから、澪は台所にいる奈緒を振り返った。
「散歩、来る?」
奈緒は驚いたあと、すぐに笑わず、一度だけ澪の顔を確かめた。
「行ってもいい?」
「旧停留所までだけど」
「うん。靴、履いてくる」
澪は玄関の外で待った。ルカのリードは前へ伸びていたが、今朝は引かれるまま歩き出さなかった。やがて隣に並んだ足音を聞いてから、澪はルカと一緒に坂を下り始めた。
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