転居を一週間後に控えた午後四時、真人は河川敷の駐車場で、売却予定のキャンピングカーにもたれて綾を待っていた。助手席のダッシュボードには売却書類が入っている。半年前まで二人で使った車は、もうどちらの暮らしにも大きすぎた。
綾はソラを連れて堤防の階段を下りてきた。灰色と白の毛を揺らすオーストラリアン・シェパードは、真人を見つけると足を速めたが、綾が短く名前を呼ぶと、すぐ歩調を戻した。
真人はしゃがみ、ソラの首まわりを撫でた。鼻先が頬に触れる。覚えている、と胸の内で確かめてから、持参した訓練用リードを首輪の金具につないだ。綾が普段使っている青いリードと合わせて、一本の首輪から二本が伸びた。
「書類に署名したら、今日は俺が連れて帰る」
綾は青いリードを握ったまま、真人を見た。
「それは決まってない」
「半年も預けた。部屋も片づけたし、水入れも買った。朝と帰ってから散歩に出せる」
「帰るのは何時?」
「日による。十二時を回ることもあるけど、朝は行ける」
「昼前に出て、深夜まで一匹にするの」
真人は立ち上がった。料理人の勤務を綾は知っている。いまさら不可能だと決めつけられることが、結婚生活まで否定されたように思えた。
「休憩に戻る日も作る。休日にまとめて運動させればいい」
「ソラに、まとめては通じない。私は転居したら在宅勤務になる。昼も外へ出せる」
「それで、そっちの犬になるのか」
綾は答えず、駐車場の先の遊歩道へ歩き出した。真人も訓練用リードを放さなかったため、ソラは二人の間を進む形になった。
午後四時十分、三人は河川敷の遊歩道にいた。真人が自分の側へ寄せると、綾の手にある青いリードが張った。綾が速度を落とせば、今度は真人のリードが首輪を引いた。
「最初に訓練へ連れていったのは俺だ。ここだって、休みのたびに走らせた」
「三年前の話でしょう」
「結婚していた頃は、俺のほうが朝の散歩をしてた」
「私が夜に行っていたから」
堤防道路を走るトラックが、前の車へ長く警笛を鳴らした。ソラの耳が伏せられ、身体が低く沈んだ。真人が反射的にリードを引いたのと、綾が抱き寄せようとしたのは同時だった。
ソラは二方向へ引かれて身をよじり、後ずさった。緩んでいた首輪が耳を越え、頭から抜ける。真人の手には訓練用リードが、綾の手には青いリードが残り、その先で空の首輪が揺れた。
「ソラ!」
犬は一度だけ振り向き、上流へ走った。綾が追い、真人も駆け出したが、ソラは草地を横切って見えなくなった。
息を切らした二人は、遊歩道の分かれ目で立ち止まった。綾は川沿いを指した。
「私はこっちを捜す。真人は住宅地側から回って」
命令されることに言い返す余裕はなかった。真人は訓練用リードだけを持ち、階段を駆け上がった。綾は首輪と青いリードを抱えて、川沿いを上流へ急いだ。
午後四時十五分を過ぎ、真人は住宅地側の道を走っていた。曲がり角ごとに名前を呼んだが、灰色の毛も足音も見つからない。呼び戻すには食べ物が早いと思い、道沿いの小さな売店へ入った。
棚の犬用菓子を前にして、手が止まった。以前ソラが好んだ肉の菓子を取ったものの、袋の脂肪分という文字が目に入る。五歳になったソラへ、いま何をどれだけ与えてよいのか、真人には分からなかった。
綾へ電話をかけると、数回でつながった。向こうから風に乱れた呼吸が聞こえた。
「おやつで呼ぶ。前に食べてた肉のでいいか」
「駄目。先月から低脂肪の療法食に替えてる」
「どうして」
「胃腸を悪くしたから。まだ薬も飲んでる」
真人は菓子の袋を棚へ戻した。
「病院は、前の駅前のところか」
「違う。診療時間が合わなくなって、川向こうの病院に替えた。一日の食事は二百十グラム。朝と夜に分けて、夜の薬は食後。今日は朝を少し残したから、余計なものは食べさせないで」
綾の答えには迷いがなかった。真人が知っているのは、ソラが昔好んだ菓子と、若い頃に喜んで走った道だけだった。半年前から自分が知らずに過ごした一日一日を、綾は食事の重さや服薬の時刻として持っている。
「真人、聞いてる?」
「ああ」
売店を出ると、上流側に古い訓練広場のフェンスが見えた。二人でソラを連れ、待てと来いを教えた場所だった。思い出しか持たない自分にも、その思い出で推測できることが一つだけあった。
「訓練広場へ行く。ソラなら、あそこを覚えてるかもしれない」
電話を切り、真人は住宅地を抜ける近道へ走った。
午後四時四十五分、古い訓練広場に着くと、フェンス際の草がかすかに動いた。ソラが腹を地面につけるようにして身を低くしていた。走ったせいで胸が大きく上下し、耳はまだ伏せられている。
真人との距離は数歩だった。訓練用リードを大きな輪にして首へ通せば、先に確保できる。連れて駐車場へ戻り、そのまま車に乗せれば、決着にすることさえできた。
「ソラ、来い」
結婚していた頃と同じ、命令の声が出た。ソラは顔を上げたが、さらにフェンスへ身体を寄せた。真人が一歩進むと、後ろ脚が逃げるように縮んだ。
川沿いから綾が駆け込んできた。真人を追い越そうとはせず、その場で息を整えてから、ソラに正面を向けないよう横向きにしゃがんだ。
「大丈夫。待ってるよ」
低い声でそれだけ言い、目を合わせずに手を草の上へ置いた。しばらくして、ソラの耳がわずかに起きた。一歩、もう一歩と自分から近づき、綾の手の匂いを嗅いだ。
綾は急がず首に触れ、持ってきた首輪をつけ直した。青いリードを金具につなぐと、ソラは彼女の膝へ鼻先を押しつけた。
真人は輪にした訓練用リードをほどいた。ソラが選んだのは人ではなく、落ち着ける接し方なのだと分かった。自分が先に見つけたという事実は、その前では何の役にも立たなかった。
午後五時、三人は訓練広場を出た。真人は手に残った古いリードを見下ろし、ソラの首輪へはつながず、持ち手のほうを綾へ差し出した。
「これも持っていって」
綾はすぐには受け取らなかった。
「いいの」
「長いから、向こうで走らせるときに使える」
綾が受け取ると、二本のリードは初めて同じ手の中に収まった。真人は空いた手を上着のポケットへ入れ、駐車場まで歩いた。
キャンピングカーのボンネットに書類を広げた。真人は売却同意書へ署名し、その余白に、ソラを綾が引き取ることを確認する一文を書いた。さらに売却代金の自分の取り分から、未払いになっている胃腸の治療費と、転居時の犬用移送費を差し引くよう書き加えた。
「治療費の明細は送って。移送費も」
「分かった」
「不足があったら、それも」
綾は礼を言わず、記載を読み直してから一度うなずいた。そのうなずきで十分だった。真人も、仕事を変えれば飼えるとか、いつか引き取れるとか、言い訳を足さなかった。
署名を終えた書類を分けると、綾はソラと歩き去った。青いリードと古い訓練用リードが、彼女の片手で並んで揺れていた。真人は、その背中へ呼びかければ、まだ何か話せる気がした。
だがソラの帰属が決まれば、綾へ連絡する理由もなくなる。車の売却も終わる。真人は声を出さず、書類をダッシュボードへしまった。
一週間後の早朝、真人は綾の住む建物の向かい側に立っていた。道路の先に犬用の移送車が停まり、荷物の最後の一つが積み込まれた。近づけばソラを興奮させると分かっていたので、街路樹の陰から見ていた。
綾が後部座席へ乗り、車がゆっくり動き出した。窓辺に灰色と白の頭が見えたが、ソラがこちらを向く前に、真人は背を向けた。
自宅へ戻ると、台所の隅に大きな水入れが残っていた。ソラを引き取るつもりで買い、半年前から一度も水を満たしていない。真人はそれを流しで洗い、布巾で水気を拭いた。
建物の入口に置かれた犬用品の寄付箱へ、水入れを入れた。部屋へ戻ると、台所の隅だけが不自然に広く、冷蔵庫の低い音が聞こえた。
寂しさは、正しい選択をした証拠にはならない。ただ、間違いの証拠でもなかった。真人は空いた床を見ながら、綾に負けたのではないと思った。
手元に置かないことを、自分で選んだ。その決着を引き受けるように、真人は仕事へ出る支度を始めた。
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