大会まで三週間となった夕方、野村修一は市営サッカー場の散水管点検口にしゃがみ込んでいた。継ぎ目から細い水が噴き、周囲の土を黒く濡らしている。倉庫を確かめたが、交換用の正規部品は切れていた。
取り寄せれば掘り返した場所を数日は養生しなければならない。大会前の芝をこれ以上傷めたくない修一は、補修用のテープをきつく巻き、その上から充填材を押し込んだ。五十二歳になるまで、似たような漏れを何度も止めてきたという自負があった。
通水しても水はにじまなかった。修一は掘り返した土を戻し、切り取っておいた芝を隙間なくかぶせた。作業記録には「散水管点検」とだけ書き、応急処置だったことは記さなかった。
大会前日の午前、サッカー場には刈った芝と湿った土の匂いが満ちていた。修一は傷んだ芝を張り替え、ゴール前を転圧し、白線を引く位置に細い下書きをつけた。午後には緑の面がむらなく整い、どこを掘ったのか自分でも見分けにくいほどになった。
大会責任者の高橋浩司が、参加チームの一覧を手にグラウンドを見渡した。
「明日は七時半集合です。ここまで仕上げてもらえれば文句なしですね」
修一は芝についた土を手袋で払い、「天気も持ちそうです」と答えた。予備会場には旧小学校の土の校庭が登録されていたが、設備も広さも足りず、公式戦の規定どおりには使えない。二人とも、そこへ移ることなど考えていなかった。
午後遅く、修一が外周を点検していると、柵の向こうから短い犬の鳴き声がした。ジャック・ラッセル・テリアが立入禁止柵の隙間に鼻を差し込み、白い体をするりと中へ滑り込ませた。
「マメ、だめ!」
飼い主の中西沙耶が呼び止めたが、マメは一直線に張り替えた芝の一角へ走った。鼻を地面に押しつけ、前脚を交互に動かして執拗に掘り始める。修一が駆け寄ったときには、めくれた芝の下から濁った水がにじみ出していた。
「すみません、本当にすみません。すぐ捕まえます」
沙耶がマメを抱き上げた。掘られた穴には、灰色に崩れた充填材と、泥にまみれたテープ片がのぞいている。修一には、それが自分の手で押し込んだものだと一目で分かった。
「犬のせいじゃありません」
ようやくそれだけ言うと、修一は穴の脇に膝をついた。マメは腕の中からなおも湿った土へ鼻を向けていた。
夕方、沙耶たちが去ったあと、修一は散水を止めて芝を四角く切り開いた。点検棒を差し込むと、手応えがないまま深く沈んだ。少し離れた場所を踏むと、芝の下で水が鈍く動いた。
漏れた水が土を流し、地中に空洞を作っている。走ってきた子どもの足が落ちれば、ただでは済まない深さだった。修一の目には、土を詰めて芝を戻し、翌朝まで隠してしまう手順まで浮かんだ。
だが、試合中に芝が沈む光景を想像した瞬間、握っていた移植ごてが止まった。修一は漏水箇所の周囲を広く柵で囲い、高橋と保護者代表の佐伯美紀へ、すぐ管理室に来てほしいと連絡した。
日没直後の管理室には、土のついた修一の手袋が机の端に置かれていた。高橋と佐伯を前に、修一は三週間前の漏水から話し始めた。正規部品がなかったこと、補修材で継ぎ目を塞いだこと、止まったように見えたため報告しなかったことを、順に説明した。
「今日、犬が掘って漏れが出ました。でも、犬にも飼い主にも責任はありません。原因は私の処置です。地中に空洞があります。本会場は使用中止にしてください」
佐伯は唇を結んでから、修一を正面から見た。
「見つかるのが明日だったら、子どもが落ちていたかもしれません。応急処置そのものより、報告しなかったことが問題です」
「そのとおりです」
修一は言い訳を足さなかった。高橋は市の当直担当者へ電話をかけ、修一から現場の状態をもう一度説明させた。当直担当者はメイン会場の封鎖を指示し、状況確認が終わるまで使用を認めないと告げた。
高橋は電話を置き、長く息を吐いた。
「公式大会は中止にします。今から各チームへ知らせます」
机の上には、翌朝配るはずだった対戦表が残っていた。修一はその紙を見ながら、自分の判断で勝敗も表彰も消えたことを受け止めた。それでも、空洞の上を子どもに走らせずに済むことだけは確かだった。
連絡を始めようとする高橋へ、修一は旧小学校の名を出した。
「公式戦は無理でも、短いコートなら作れます。順位をつけない交流試合に変えることはできませんか」
高橋は大会規定と登録書類を開き、市の当直担当者に条件を確認した。公式大会を中止したあとの交流活動であれば、登録済みの予備会場の使用許可を使える。参加者保険も維持できるが、順位や表彰はなくし、参加は希望する家庭だけに限る必要があった。
「年齢を混ぜて、短時間の試合にしましょう」
高橋が言うと、佐伯はすぐ連絡網を開いた。
「中止の理由も、交流試合は自由参加だということも、曖昧にせず伝えます。ただし野村さん、明日の朝、皆さんの前でも説明してください」
「はい。私の名前で説明します」
高橋は市と各クラブへ了承を取り、佐伯は保護者へ連絡を回した。修一は簡易ゴール、固定具、石灰を運ぶと申し出た。中止を決めただけでは戻らないものを、安全な別の形へつなぎ直すしかなかった。
夜、修一が用具を積んで旧小学校の校庭へ着くと、暗い土の上にいくつもの人影があった。佐伯の連絡を受けた保護者と地元クラブの有志が、石やガラス片を拾っている。高橋も懐中電灯で地面を照らしていた。
修一は批判されたあとの気まずさを抱えたまま、土の硬さと傾斜を確かめた。誰も慰めの言葉は口にしなかったが、修一一人に作業を押しつける者もいなかった。拾った石が容器へ落ちる乾いた音が、夜の校庭に続いた。
危険物を取り除くと、全員で簡易ゴールを運び、重りと杭で固定した。修一は巻き尺を伸ばし、交流用の短いコートの四隅を決めた。高橋が反対側を押さえ、佐伯が目印を土へ置いていった。
夜明け前、空が薄青くなるころ、修一はラインカーに石灰を入れた。足元の土は芝のように整ってはいなかったが、石もガラスもなく、ゴールは動かなかった。修一がゆっくり歩くと、乾いた土の上へ白い線がまっすぐ落ちていった。
朝、参加を希望した子どもたちと保護者が集まった。優勝杯も順位表もない。試合を始める前に、修一は白線の脇へ立った。
「本会場の散水管を、私は正しい部品を使わずに補修し、そのことを報告しませんでした。水が漏れて地面の下に穴ができたため、会場を閉じました。大会を中止にした責任は私にあります。本会場は地盤を直し、正規部品へ交換して、安全を確認してから開けます」
ざわめきは起きたが、修一は顔を上げたまま最後まで話した。高橋が交流試合の決まりを説明し、年齢を混ぜたチームをコートへ入れた。
笛が鳴ると、土が明るく舞った。年上の子が年下の子へパスを譲り、転んだ子を別のチームの子が起こした。得点のたびに歓声は上がったが、誰も順位を数え続けてはいなかった。
修一は薄くなった白線へ石灰を足しながら、その声を聞いた。予定していた大会ではない。それでも子どもたちは走り、笑い、大人たちはその場所を囲んでいた。完璧に整えた芝を見せることだけが、自分の仕事ではなかった。
交流試合から数日後、修一は市営サッカー場で漏水箇所を掘り直していた。処分についての連絡はまだ来ていない。流れた土を入れ直して地盤を締め、今度は作業の一つ一つを記録に残した。
散水管の継ぎ目を正規部品へ交換し、通水試験を繰り返す。漏れがないことを確かめると、修一は新しい芝を一枚ずつ張り戻した。そこはマメが掘らなければ、見た目だけ整った危険な場所のままだった。
最後の一枚を土へなじませながら、修一は旧校庭に引いた白い線を思い出した。場所を守る誇りとは、失敗の跡を見えなくすることではない。自分の過ちを明かし、皆が安全に楽しめる次の形へつなぐことなのだと、今は土の手触りとともに受け止めていた。
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