カメラの外で待つ

一時預かりが始まる前日の午後、藤代絵里香は配信事務所の打ち合わせ室で、三崎が差し出した企画書を見つめていた。表紙には「保護犬と心が通うまでの一週間」とある。今月で細い広告収入まで途切れそうな絵里香には、その文字が契約書よりも救命具に見えた。

「一週間で、初対面、食事、散歩、それから心を開く瞬間まで撮ってください。数字が取れる形に仕上がれば、専属契約です」

三崎は制作前金の額を示した。家賃を払い、滞納している料金を清算しても少し残る。絵里香の頭には、犬の丸い顔や、膝へ顎を乗せる姿や、動画につくであろう温かなコメントが、まだ会ってもいないうちから浮かんだ。

「やります。一週間あれば、ちゃんと伝わるものにできます」

翌日の午後、保護団体の倉田がフレンチブルドッグのブンを連れてきた。ブンは低い体をいっそう縮め、居間の入口で鼻を鳴らしていた。

「環境の変化に弱い子です。自分から近づくまで待ってください。食事や休む時間も、なるべく崩さないように」

絵里香は何度もうなずいた。しかし倉田が帰ると、すぐに小型照明と三脚を出した。用意していた犬用の衣装も床に並べ、カメラへ向かって笑顔を作った。

「今日から一週間、保護犬のブンと暮らします」

照明をつけた瞬間、ブンは身を翻した。居間を抜け、洗面所にある洗濯機の横の狭い隙間へ体を押し込む。絵里香が名前を呼んでも、見えるのは引き結ばれた口元だけだった。

おやつを置き、衣装を見せ、声の調子を変えてみても出てこない。絵里香が撮影を諦めて照明を消すと、暗くなった部屋に洗濯機の低い輪郭だけが残った。

それからしばらくして、爪が床を擦る音がした。ブンは洗面所を出て、居間の入口まで戻ってきた。絵里香が動くと止まり、手を伸ばすと一歩退いた。

「慣れれば大丈夫だよね」

絵里香は自分に言い聞かせ、翌日の撮影予定をスマートフォンへ入力した。

二日目から四日目まで、暮らしは撮影時刻に合わせて組み替えられた。朝の散歩は光がよくなるまで遅らされ、食事はカメラと器の位置が決まるまで待たされた。ブンは照明がつくたび洗濯機の横へ逃げ、消えると時間をかけて戻ってきた。

深夜、編集を終えた絵里香が床に座っていると、ブンは同じ部屋の端で眠った。三日目には少し近づき、四日目には絵里香の足先から手のひら二つ分ほどの場所に伏せた。絵里香は息を殺してスマートフォンを取り、画面を暗くしたまま、その姿を撮った。

昼間の散歩、器に顔を寄せる瞬間、静かな夜の接近。それらをつなぎ、「少しずつ心を開いてくれた」と字幕を載せると、一本の物語に見えた。ブンが散歩を待たされたことも、照明から逃げたことも、その映像には入っていなかった。

三崎から届いた試作への返事は短かった。

「いいですね。最終日に、抱っこか膝の上で眠る画があれば決まります」

絵里香は画面を閉じた。足元のブンは物音に目を開き、洗面所の方を見た。後戻りできないという感覚だけが、前金の残高とともに絵里香の中へ重く沈んだ。

五日目の午後、絵里香は長い時間、照明をつけたままにした。ブンへ衣装を着せ、カメラの前から名前を呼ぶ。近づかなければおやつの位置を変え、隠れようとすれば洗面所への通り道に三脚を置いた。

宅配便が来たのは、その途中だった。絵里香は撮影を止めず、玄関の扉を開けた。荷物を受け取ろうと体をずらした瞬間、背後からブンが走り抜けた。

「ブン!」

絵里香はスマートフォンをつかんだまま共用廊下へ飛び出した。ブンは廊下の先にいた管理人の川村の足元まで走り、そこで伏せていた。脇腹が激しく動き、荒い呼吸が途切れずに続いていた。

「追わない方がいい。少し離れて、待ちましょう」

川村は動かずに言った。絵里香は構えていたスマートフォンを見下ろし、廊下の床へ置いた。それからブンに手が届かない場所へ座った。

名前を呼ばず、触ろうともせずに待った。照明も指示もない廊下で、聞こえるのはブンの呼吸だけだった。やがてその間隔がゆるみ、ブンは顔を上げた。

しばらくして、ブンは自分から立ち上がった。一歩ずつ絵里香へ近づき、膝へ鼻先を寄せた。絵里香は抱き上げず、ブンが離れるまでその場に座っていた。

六日目の午前、絵里香は三崎へ逃走の経緯を報告した。企画は続けられないと伝えると、三崎はしばらく黙った後、落ち着いた声で別の案を出した。

「事故をそのまま出す必要はありません。玄関から飛び出したブンを、藤代さんが抱き止める。救出場面として再現しましょう。それなら契約まで持っていけます」

通話を終えた絵里香は、完成目前の編集画面を開いた。深夜にブンが近くで眠る映像には、「ついに信じてくれた」という字幕がついていた。けれど実際には、ブンが近づいたのは撮影が終わり、何も求められなくなった後だけだった。

共用廊下で膝へ触れた鼻先も、撮らなかったからこそ起きたことだった。それまで自分は、ブンの選んだ距離まで、自分に都合のよい意味へ変えていた。

絵里香は三崎へかけ直した。

「再現はしません。今ある素材も使わないでください。企画は取り下げます。前金は返します」

「返せるんですか。契約もなくなりますよ」

「分かっています」

午後、絵里香はブンを保護団体へ連れ戻した。面談室で倉田と向かい合い、散歩や食事を撮影に合わせたこと、隠れ場所を塞いだこと、安全を確かめず玄関を開けたことを話した。夜の映像をつなぎ、親密に見えるよう編集したことも隠さなかった。

「一時預かりは、ここで終了です」

倉田の言葉に、絵里香はうなずいた。足元のブンは倉田の椅子のそばに伏せ、絵里香を見なかった。

「もう一度だけ、関係をやり直す機会をもらえませんか。撮らなくていいんです。今度は、ブンのために」

倉田はすぐには答えなかった。やがて、配信活動の休止、飼育講習への参加、住環境の再確認を条件として挙げた。そのすべてを満たした後、撮影禁止の試用期間を設けるという。

「次に見るのは、動画ではなく生活です。それでも続けられますか」

「続けます」

その後の数週間、絵里香は配信を休止し、短期の事務仕事へ通った。生活費を確保しながら前金の返済分を積み立て、休日には飼育講習を受けた。照明と三脚と犬用の衣装は収納の奥へしまい、玄関には脱走防止柵を取りつけた。

倉田の住環境確認を経て、撮影禁止の再試用が始まった。戻ってきたブンは、以前と同じように洗濯機の横へ隠れた。絵里香は呼ばず、のぞき込まず、決められた時刻に食事を置いた。

散歩も食事も、光や撮れ高とは無関係な時間に続いた。ブンが同じ部屋にいても、絵里香は触れようとしなかった。数日するとブンは居間の入口で休むようになり、その次の週には、絵里香が床に座っている間も洗面所へ戻らなくなった。

返済が進み、再試用にも問題がないことを確認した倉田から、正式譲渡を認める連絡が来た。絵里香は礼を言って通話を切ったが、その報告を配信する相手はもういなかった。

その夜、絵里香は照明のない居間の床で本を読んでいた。ブンは洗濯機の横ではなく、部屋の中央をゆっくり歩いてきた。絵里香の隣で一度立ち止まり、それから脚に触れるように伏せた。

小さな体の重みが、じわりと伝わってきた。絵里香は反射的に、机の上のスマートフォンを見た。手を伸ばせば、この瞬間を残すことはできた。

けれど絵里香は本を閉じず、ブンを抱き寄せることもしなかった。やがて聞こえてきた寝息と、預けられた重みだけを、誰にも見せない部屋で黙って受け止めた。

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