犬の歩幅の町

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体験利用を二週間後に控えた日曜の午後、国枝麻衣は父の家の廊下で、切れかけた電球を見上げていた。居間の卓上には、朝に飲むはずの薬が一錠、包装されたまま残っている。

「電球は明日替えるつもりだった。薬は一回忘れただけだ」

父の茂はそう言って、足元をまとわりつくチワワのチロを抱き上げた。麻衣には、その一回や明日が、遠方へ移った後に起こる事故の予告に思えた。

麻衣は鞄から高齢者住宅のパンフレットと予定表を出し、卓上に並べた。郊外にあるペット可の施設で、看護職員が日中常駐し、服薬確認も受けられる。

「体験利用は再来週。チロも一緒に入れるし、部屋も空いてる。ここなら私が向こうへ行っても安心できる」

「俺はこの町を出る気はないよ」

茂はパンフレットを開こうともしなかった。商店街まで平らな道が続き、顔を知る店があり、チロは毎日同じ角で同じ匂いを嗅ぐ。その暮らしを、設備の一覧だけで置き換えられるとは思えないようだった。

「じゃあ、栄転は断る。私が近くに残るしかないでしょ」

口にしてからも、麻衣は弟の直人に相談しようとは思わなかった。話せば仕事や家庭の都合を並べられ、せっかく整えた計画が崩れるだけだと決めていた。

茂はチロの背をゆっくり撫でた。やがて、娘の顔を見ないまま「体験だけなら」と答えた。それは施設への納得ではなく、麻衣の仕事を潰さないための同意だった。

体験利用当日の午前、郊外の高齢者住宅は、磨かれた床も案内表示も整然としていた。職員の森は健康確認や昼食の時刻を説明した後、廊下の突き当たりにあるペット室へ三人を案内した。

「食堂や共用部をご利用の間、わんちゃんはこちらでお預かりします。居室で一匹にしておくことは、転倒や衛生管理の点から認めておりません」

麻衣は当然だと思った。規則が細かいほど、事故が起きたときの対応も明確なのだろう。

「チロは、一匹で待つのに慣れてないんです」

茂が言うと、森は短時間から慣らせると穏やかに答えた。だが扉が閉まった途端、チロは甲高く鳴き、前脚で何度も扉を引っかいた。

茂は血圧計に腕を入れている間も、鳴き声の方へ顔を向け続けた。麻衣が別室で契約条件の説明を受け始めると、茂は森に散歩へ出ると告げ、チロを抱いてペット室を出た。

許されていたのは中庭までだった。しかしチロは地面に下ろされても落ち着かず、茂は正面玄関を抜けて、路線バスの停留所へ向かった。

正午前、説明を終えてロビーへ戻った麻衣は、父とチロがまだ帰っていないと知らされた。茂の携帯電話は、充電器につながれたまま体験用の居室に残っていた。

森が確認した防犯映像には、チロを抱いた茂が施設前からバスに乗る姿が映っていた。行き先表示は、父の家がある商店街方面だった。

「申し訳ありません。体験は中断させてください」

頭を下げながら、麻衣の腹には怒りが溜まっていった。嫌なら初めから断ればよかったのに、同意した後で約束を破り、携帯まで置いていくのは無責任だった。

麻衣は後続のバスに乗った。窓の外を流れる道を見ながら、施設の空室期限や契約書の文言を思い浮かべたが、朝まで整っていた手順は、もうどれも役に立たなかった。

午後一時ごろ、商店街に着いた麻衣は、まず茂の家を確かめた。鍵は閉まり、呼び鈴にも応答はない。

携帯電話のない父を捜す手掛かりは、以前一度だけ同行したチロの散歩道しかなかった。小さな犬の歩幅に合わせて歩いたとき、チロが店ごとに立ち止まっていたことを思い出した。

最初の豆腐店で茂のことを尋ねると、店主は商店街の先を指した。茂は時々、足の悪い近所の客へ注文品を届けているという。

「さっきもチロちゃんと通ったよ。今日は手ぶらだったけどね」

次のクリーニング店では、軽い洗濯物なら茂が帰り道に届けてくれると聞いた。店の人は、チロならいつも次に靴屋へ行きたがる、と笑って大崎靴店の方角を教えた。

麻衣は足を止めた。父を、周囲から見守られ、助けてもらうだけの高齢者だと考えていた。だが父とチロが毎日たどる道には、麻衣の知らない受け渡しがいくつもあった。

午後二時ごろ、大崎靴店の戸を開けると、店の奥でチロが器の水を飲んでいた。その傍らで、茂は修理済みの靴が入った小箱を抱えていた。

「何してるの。約束したでしょう。携帯も置いたまま、勝手に帰って」

「逃げたんじゃない。チロがあんなに鳴くから、いつもの道を歩けば落ち着くと思ったんだ」

「だからって、バスに乗ってここまで来る? 何かあったら、誰が捜すと思ってるの」

茂が答える前に、店主の大崎が作業台から顔を上げた。茂が持っている靴は、二筋先の独居客へ届ける品だという。

「国枝さんには配達だけじゃなく、相手がちゃんと出てくるか、顔色が悪くないかも見てもらってるんです。返事が妙なら、うちから家族に連絡する。もちろん国枝さんのことも、みんなで見てますけどね」

茂は箱を置き、麻衣を見た。足腰が以前ほど利かず、町の人に助けられていることは自分でも分かっている。それでも、まだ誰かの役に立てる暮らしまで手放したくはないのだと言った。

「施設に行くと言ったのは、お前に仕事を諦めてほしくなかったからだ。俺がうなずかなきゃ、お前は本当に栄転を断るつもりだったろう」

麻衣は反論できなかった。父の同意を得たつもりでいたが、自分の犠牲を差し出し、受け入れさせただけだった。

店の外で施設へ電話をかけ、体験利用を終了すると伝えた。戻ると、茂は靴箱を大崎へ返し、チロのリードを握って待っていた。麻衣は二人を家へ連れ帰り、その夜、長く開いていなかった直人の連絡先を押した。

翌日の午前、直人は車で茂の家へ来た。居間の卓上には、施設のパンフレットの代わりに、麻衣が作った空白の週間予定表が広げられていた。

「今までお父さんのこと、私に任せて逃げてたよね」

「姉さんは相談なんかしなかっただろ。施設のことだって昨日初めて聞いた。いつも決めた後で、これをやれって言うだけだ」

麻衣は言い返しかけて、口を閉じた。直人が責任を避けてきたのは事実だが、自分も、相手の都合を聞けば正しい計画が崩れると思っていた。

「施設は私一人で決めた。お父さんには、栄転を断るって言って同意させた。私のやり方も間違ってた。でも、これからも何もしない理由にはさせない」

三人は予定表を挟み、曜日と作業を一つずつ埋めた。直人は週二回、仕事帰りに訪問し、通院日は車で送迎する。麻衣は会社と交渉して週の半分を在宅勤務に切り替え、買い物や役所の手続きを担う案を出した。

茂も条件を受けるだけではなく、自分にできる約束を口にした。毎朝決まった時刻に連絡し、薬を飲んだら記録をつけ、外出時は緊急連絡端末を身につける。

「そこまでやる。その代わり、俺はここで暮らして、チロの散歩を続けたい」

直人は火曜と金曜の欄に自分の名を書いた。麻衣も残りの仕事を記し、茂は予定表を冷蔵庫に貼った。責任はようやく、誰か一人の覚悟ではなく、曜日と作業の形になった。

三週間後の朝、麻衣は父の家の近くに借りた小さな部屋から歩いてきた。施設契約の撤回には違約金がかかったが、会社とは栄転先での職務を維持したまま、週二、三日の在宅勤務と着任時期の調整を取りつけていた。

担当日の直人も車で立ち寄り、冷蔵庫の予定表で次の通院日を確認した。以前なら麻衣が念を押したところを、直人が自分の携帯電話へ予定を登録するのを見て、何も言わずに任せた。

茂は首から緊急連絡端末を下げ、チロのリードを持って家を出た。チロは短い脚で商店街へ進み、いつもの店先で立ち止まっては、茂が追いつくのを待った。

大崎靴店では、小さな靴箱が用意されていた。茂がそれを受け取ると、麻衣は止める代わりに届け先だけを尋ねた。

「二筋先だ。着いたら連絡する」

茂はそう言って歩き出した。チロの歩幅に合わせると、茂も、麻衣も、隣を歩く直人も自然に速度が緩んだ。誰かを安全な場所へ囲うのではなく、それぞれが負える分だけ手を添えながら、父の暮らしを残す朝が始まっていた。

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