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土曜の午後、佐伯真一は完成した新居の玄関で、美沙たちを迎えた。
白い壁も、傷一つない床も、庭へ続く大きな窓も、すべて図面どおりだった。七海の腕から降ろされたトイプードルのモコが、磨かれた床を嗅ぎながら走り出す。
「まず二階を見てくれ。二人の部屋は、もう家具まで入ってる」
真一は先に階段を上った。南側の部屋には七海の机と淡い色のカーテン、向かいの部屋には悠斗の本棚とベッドが置かれている。
「すごい。私の部屋、本当にこっちでいいの?」
七海は窓を開け、庭を見下ろした。モコも足元で跳ねた。
悠斗だけは入口に立ったままだった。
「ここから今の学校まで、電車で一時間以上かかる」
「だから新学期から転校すればいい。前より近くなる」
「俺、転校するって決めてない」
真一は本棚の扉を開けた。悠斗の好きな本が入るよう、棚板の高さまで測ってある。
「住めば気に入る。友達だってすぐできるさ」
「部屋まで勝手に決めて、それで住めば分かるって?」
悠斗は背を向けた。足元へ寄ってきたモコにも触れず、階段を下りていく。
美沙が低い声で言った。
「真一さん、今夜こそ、悠斗君とちゃんと話したほうがいいよ」
「そのための試泊だ。楽しく一日過ごせば、不安も薄れる。夕方に家族写真を撮って、バーベキューをして、夕食のときに入籍日と入居日を発表する」
真一は予定を書いた紙を示した。美沙はそれを見ず、階段の下にいる悠斗へ目を向けた。
「話すって、予定を聞かせることじゃないでしょう」
真一は返事をせず、七海の部屋の収納を開けた。せっかく整えた一日を、始まる前から崩したくなかった。
同日の夕方、真一はウッドデッキに三脚を立てた。庭にはバーベキュー用のテーブルが用意され、炭も食材も順番どおりに並んでいた。
「美沙は俺の隣。七海は前でモコを抱いて。悠斗、もう少しこっち」
「撮らなくていいだろ」
「一枚だけだ。年賀状にも使える」
「まだ家族になったふりはしたくない」
真一はカメラのタイマーを設定し、悠斗の言葉を聞かなかったことにした。悠斗の肩へ手を置いて位置を直すと、その体が固くなるのが分かった。
シャッター音がした。画面の中では真一と美沙と七海が笑い、悠斗だけが口を結んでいた。
「よし。じゃあ次は火を起こそう」
悠斗が何か言いかけたが、真一は炭の袋を持ち上げた。立ち止まれば、また転校や入居の話になる。今はまず、楽しい時間を形にすればいいと思った。
悠斗はデッキを下りた。その脇で、施工確認用の格子パネルが外れ、床下へ通じる黒い隙間が開いていた。
閉めるか、大人に知らせるべきだと分かっていた。だが、何を言っても父は自分の決めた順番を変えない。悠斗は隙間から顔を背け、そのまま庭の奥へ歩いた。
「悠斗君、待って」
七海の腕をすり抜け、モコが悠斗を追った。小さな体は芝生を横切り、開いた格子の奥へ迷いなく入り込んだ。
「モコ、だめ!」
七海が駆け寄った直後、床下で短い悲鳴が上がった。続いて、かすれた鳴き声が暗がりから聞こえた。
真一は物置から懐中電灯を取り、隙間へ伏せた。光の先で、モコの首輪が下地材から突き出た固定金具に引っかかっている。もがくたびに首輪が引かれ、鳴き声が細くなった。
「入口から取れないの?」
七海が泣きながら尋ねた。
「狭すぎて人は入れない。金具も奥だ。外から腕を伸ばしても届かない」
真一は立ち上がり、頭の中で図面を開いた。柱と下地材の位置を数え、モコの真上に当たる床板へ鉛筆で印を付ける。
床板は表からねじの見えない隠し金具で固定されていた。端から順に解体すれば傷つけずに外せるが、何時間もかかる。今すぐ救うなら、真上を切り開くしかない。
物置には切断工具がある。しかし板を切れば、翌朝の引き渡し検査には通らない。特注材の交換費もかかり、予定していた入居は延期になる。
「施工会社を呼ぼう。専門の人間なら、別の入口を作れるかもしれない」
「何分かかるの?」と美沙が聞いた。
真一は答えられなかった。床下から、モコが息を詰まらせるような音がした。
「外周の反対側を見れば、外せる場所があるかもしれない。切るのは最後だ。検査もあるし、この板はすぐには取り寄せられない」
七海は床へ膝をつき、隙間に向かってモコの名を呼び続けていた。その声に応えようとするたび、首輪の金具がかすかに鳴る。
美沙が真一を見た。
「また家の完成を人より優先するの?」
「優先してるんじゃない。壊さずに助ける方法を探してる」
「モコが苦しんでる今も、あなたは検査と入居日の話をしてる」
真一は印を付けた床板へ手を置いた。自分が設計し、職人と何度も納まりを確認したデッキだった。四人で食卓を囲み、笑っている姿まで想像して完成させた場所だった。
「俺のせいだ」
悠斗の声がした。
「隙間が開いてるの、気づいてた。閉めなかったし、誰にも言わなかった。モコが入るかもしれないって、ちょっと思ったのに」
七海が顔を上げた。悠斗は唇を震わせ、床下を見ないように拳を握っていた。
「何を言っても聞かないから、もういいって思った。だから、俺のせいだ」
真一の中で、完成した部屋と、笑わない写真と、黒い隙間が一本につながった。
「違う」
真一は悠斗の前にしゃがんだ。
「言っても聞かれないと思わせたのは俺だ。転校したくないって言っていたのに、部屋も入居日も勝手に決めた。お前が黙った責任を、お前だけに負わせちゃいけない」
真一は美沙へ向き直った。
「検査は延期する。修理費も俺が負担する」
物置から丸鋸と延長コードを運び、図面を広げた。電源や配管のない位置を確かめ、モコの真上からずらした場所へ最初の切り口を決める。
「美沙、切った板を支えてくれ。悠斗はライトをこの印に。七海はモコに声をかけ続けて」
工具の音が夕方の庭に響いた。刃が新品の床板へ食い込み、真一が守ろうとした木目を横切っていく。
切断した板を美沙と持ち上げると、床下の暗がりが口を開けた。悠斗のライトがモコを照らし、七海が「動かなくていいよ」と声をかける。
真一は開口部から腕を差し入れた。金具へ指をかけ、首輪を緩める。引っかかりが外れた瞬間、モコの体が腕の中へ崩れ落ちた。
七海は抱き上げたモコへ頬を寄せた。モコは浅く息をしながらも、七海の指を舐めた。
デッキの中央には、大きな切断跡が残っていた。真一はそれを見たが、もう板を惜しいとは思わなかった。
その夜、動物病院から戻ると、四人は新居のリビングで診察を終えたモコを囲んだ。首元に軽い擦り傷はあったが、深刻な異常はないと言われていた。
「今夜の試泊は中止にする。みんな、元の家に帰ろう」
真一は施工会社へ電話し、翌朝の検査延期と、修理費を自分で負担することを伝えた。電話を切ると、夕食の席で見せるはずだった封筒をテーブルに置いた。
「ここには、入籍日と入居日を書いていた。でも撤回する。いったん全部、白紙にしたい」
美沙は黙って待った。真一は悠斗と七海の顔を順に見た。
「部屋割りも、通学方法も、転校の時期も、今すぐ一緒に住むかどうかも、二人には嫌だと言う権利がある。嫌だと言われたら、説得する前に理由を聞く」
七海がモコの背を撫でた。
「私の部屋、モコが安全に出入りできるようにしたい。庭にも、入れない隙間を作ってほしい」
「分かった。一緒に考えよう」
悠斗はしばらく床を見ていた。
「俺は、まだここに移るって言えない。転校もしたくない」
胸の奥で、予定を立て直そうとする癖が動いた。通学方法を工夫すればいい、時期を延ばせば納得するかもしれない。真一はその言葉を飲み込んだ。
「分かった。今は、それが悠斗の答えなんだな」
悠斗はわずかに顔を上げた。拒んでも次の説得が始まらないことを確かめるように、真一を見た。
一週間後の昼、四人は再び新居のウッドデッキに集まった。施工会社の助言を受け、切断した部分を隠して元どおりにするのではなく、床下を点検できる開閉式の床板へ作り替えることになった。
真一は完成図を配らなかった。代わりに簡単な下書きを中央へ置いた。
「板の幅も、格子の形も、まだ決めてない。どうしたい?」
「モコの頭が絶対に入らない細かさ」と七海が言った。
「掃除するとき、私でも簡単に開けられる重さがいい」と美沙が続けた。
悠斗は転居の話をしないまま、取り外せる板へ取っ手を付けた。ねじを締め終えると、真一に下書きを返した。
「次は決める前に図面を見せて」
「ああ。決める前に見せる」
切り取られた古い床板を捨てようとすると、悠斗が止めた。
「それ、脚を付けたらベンチにできるんじゃない?」
真一は傷の残る板を見た。七海がモコを抱いたまま置き場所を考え、美沙が掃除のしやすい高さを口にする。
「じゃあ、それも図面から一緒に考えよう」
開閉式の板はまだ仮留めで、ベンチも形になっていなかった。入籍日も入居日も決まっていない。それでも真一には、完成していた一週間前より、今の家のほうが四人の暮らしに近く見えた。
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