海外渡航を三日後に控えた朝、佐和子はトイプードルのモコと輸送用クレートを連れて店に現れた。モコは巻いた毛に覆われた小さな体を佐和子の足へ押しつけ、受付から施術室をうかがっていた。
「長い移動になるので、汚れにくいよう全身を短めにお願いします。それから、できればクレートにも慣れさせたくて」
佐和子が言うと、紗良は明るくうなずいた。今日の採用試験に合格すれば、見習いを終えて自立へ踏み出せる。犬を望ましい形に整える技術なら、何度も練習してきた。
試験官は施術室の時計を示し、制限時間と基本の仕上がり基準を告げた。モコの体調と反応も確認するよう付け加え、佐和子からリードを受け取るよう紗良に促した。
佐和子の足元を離れたモコは、何度も後ろを振り返った。近くの台で鋏が開閉されると、その銀色の音に身を縮める。
「大丈夫。すぐ慣れるよ」
紗良はモコへ言い聞かせるように声をかけた。引っ越し準備が続いて落ち着かないのだと佐和子から聞いていたが、緊張する犬は珍しくない。手早く進め、きちんと保定すれば抑えられると判断した。
シャンプーと乾燥を終えた頃には、試験開始から三十分ほどが過ぎていた。紗良は電動式の作業台へモコを立たせ、膨らんだ被毛に櫛を通してから鋏を入れた。
耳元で刃が鳴るたび、モコは顔を背けた。前へ逃れようとしては戻され、やがて台の隅へ足を運ぶようになった。
紗良は壁の時計を見た。乾燥に予定より時間がかかっている。このままでは全身を整え切れない。
逃げる方向を腕で塞ぎ、顎を支える手に力を込めた。胴が動けば肘で押さえ、鋏を運ぶ。毛の表面は少しずつ丸く整ったが、モコの呼吸は速くなり、細い足先が震えていた。
「新田さん、仕上がりだけでなく、犬の反応も見てください」
試験官の声に、紗良は一度だけ手を止めた。モコの背を撫で、短い休止を置く。しかし、ここで時間を失えば未完成になるという思いが勝り、すぐ鋏を持ち直した。
技術があれば終えられる。暴れさせず、形にすれば評価される。そう自分へ言い聞かせるほど、モコは紗良の手が近づくだけで体を硬くした。
試験後半、紗良は前脚を整えるため、モコの体を押さえ直した。逃げようと引かれた脚をつかみ、胸を支えようと手を差し入れた瞬間、モコが振り向いた。
指先に小さな衝撃が走った。モコはすぐ口を離したが、紗良の皮膚には浅い歯形と赤みが残った。
紗良は反射的に手を背へ隠した。血は出ていない。これくらいなら事故にしなくてもいい。報告して試験を止められるより、モコが急に動いただけだと装って続けたほうがいいと思った。
「続けます」
自分に向けて言い、紗良は体勢を立て直すため作業台を最低位置まで下げた。保定具を外したとき、仕切りの向こうから佐和子の声が届いた。
「モコ、大丈夫?」
モコは低くなった台から床へ降り、施術室の脇に置かれていた輸送用クレートへ駆け込んだ。扉は開いたまま固定されていた。紗良が追わずに見ていると、モコは奥で伏せ、入口へ顔を向けた。
激しく上下していた胸が、少しずつゆるやかになる。耳は伏せたままだったが、もう逃げようとはしなかった。
紗良は赤くなった指を見た。モコは反抗していたのではない。鋏や手から離れられる場所を探していたのだ。自分は技術を示すことばかり考え、その退路まで腕で塞いでいた。
作業台には、途中まで整えられた毛が散っていた。紗良は握っていた鋏を、その中央へ置いた。
「試験官、来てください」
試験官が近づくと、紗良は隠していた指を差し出した。
「モコに噛まれました。浅い傷です。でも、すぐ報告せずに続けようとしました。嫌がっていたのに、時間を優先して保定を強めました」
試験官は指とクレートの中のモコを確認した。それから佐和子を施術室へ呼んだ。
紗良は佐和子にも同じ経緯を話した。言葉にするたび、完成させるつもりだった形が崩れていくように感じたが、もう取り繕わなかった。
「申し訳ありません。予定どおり全身を仕上げようとすれば、モコの負担が増します。カット課題を、ここで中止させてください」
佐和子はクレートの前へしゃがみ、モコの様子を見た。すぐには答えず、呼吸が落ち着いていることを確かめてから、紗良へ向き直った。
試験官は採点表を閉じた。
「実技は未完了として、採点を中止します。そのうえで、新田さん。渡航まで三日しかないこの犬に、今できることは何ですか」
紗良は台の上の鋏ではなく、クレートの中のモコを見た。全身を美しく仕上げる必要はない。けれど、長距離移動に備えて済ませたほうがよい手入れは残っている。
「足裏と腹部、それから排泄で汚れやすい箇所だけを、短時間で整えます。嫌がる動作が出たら、その時点で止めます。クレートは、佐和子さんがそばにいる状態で、モコが自分から出入りする練習に変えたいです」
「モコが入らなかったら?」と試験官が尋ねた。
「入れません。引っぱらず、押し込みません。実施するかどうかは、佐和子さんと試験官に決めていただきたいです」
佐和子はクレートの入口へ手を置いた。
「それでお願いします。きれいにすることより、この子が一緒に無事に行けることのほうが大事です」
試験官も、負担が見られたら直ちに中止することを条件に許可した。
紗良は佐和子にモコのそばへいてもらい、まず手の甲を近づけた。モコが匂いを嗅いでから顔を背けると、そこで手を離した。もう一度触れられるまで待ち、鋏の使用を最小限にして、足裏と腹部、汚れやすい箇所だけを整えた。
途中でモコの脚が引かれるたび、紗良はつかみ直さずに手を止めた。その分だけ時間はかかったが、先ほどのように逃げ道を塞ぐことはなかった。必要な手入れを終えると、紗良はすぐ道具を片づけた。
次にクレートの扉を開いたまま固定し、佐和子がそのそばへ座った。モコは入口まで来て止まり、佐和子の顔を見上げた。
「入ってもいいし、入らなくてもいいよ」
佐和子が穏やかに呼びかけ、入れたときだけ小さな褒美を渡した。モコは何度か前脚だけを入れて戻った。やがて自分から奥まで入り、すぐに出て、もう一度入口の匂いを嗅いだ。
紗良はその一つ一つを記録した。入れた回数よりも、どの距離で止まり、何があれば呼吸が落ち着いたかを書き留めた。
同日の夕方、受付で佐和子へ記録を渡した。鋏の音、前脚への接触、強い保定を嫌がったこと。クレートの中と佐和子のそばでは呼吸が落ち着いたこと。渡航後のトリマーにも見せられるよう、無理に全身カットを続けないでほしいという注意も添えた。
「持っていきます。向こうでも、最初にこれを見せます」
佐和子は記録を受け取り、クレートの中のモコをのぞいた。モコは伏せたまま、佐和子の声に耳を動かした。
二人を見送ったあと、紗良は試験官と向き合った。採点を途中で止めた以上、期待していた言葉が得られないことは分かっていた。
「課題は未完了です。それに、接触事故の報告が遅れました。即日採用はできません」
胸の奥が沈んだ。浅い歯形を隠そうとした瞬間が、消せない失敗として戻ってきた。紗良は言い訳をせず、頭を下げた。
「ただし、途中からでも安全を選び直した判断は評価します。再試験を受けますか」
紗良は顔を上げた。
「受けます。次は犬の反応を、作業を邪魔するものではなく、止めるか進めるかを決める材料として見ます」
三日後の朝、紗良は開店前の施術室で作業台を拭いていた。佐和子とモコが空港へ向かう時刻だった。
携帯端末が震え、佐和子から短い動画が届いた。扉を開けたクレートの前で佐和子が待っている。モコは入口を嗅ぎ、誰にも押されず、促されもしないまま中へ入った。奥で一度向きを変え、静かに伏せる。
動画の下には、紗良の記録を持って一緒に旅立つというメッセージが添えられていた。
紗良は何度も映像を見返さなかった。一度、最後まで見届けると、端末を伏せた。完成したカット写真の代わりに残ったのは、毛並みではなく、モコが自分で選んだ動きだった。
空の作業台に練習用の道具を並べ、紗良は鋏を開閉した。乾いた音が施術室に響く。紗良はいったん鋏を置き、犬が後ずさったときにどこで手を止めるかを確かめる練習から、再試験の準備を始めた。
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