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転居から三日目の午前、藤巻澄江は一階の小型倉庫に巻尺を這わせていた。間口、奥行き、扉の幅を手帳に記し、四畳ほどの床に古い裁ち台とミシンの輪郭を鉛筆で引いた。
住戸の中では布を広げる場所がない。ここなら鍵がかかり、道具を出したままにできる。長年続けた洋服直しを、誰の世話にもならず再開できると思った。
隅には錆びた棚が残っていた。澄江はねじ回しを当て、固まったねじを両手で押した。足元でミニチュアダックスのマメが鼻を鳴らしたが、澄江は振り向かなかった。
「これくらい、自分でできるよ」
一本目のねじが甲高い音を立てて緩んだ。澄江は汗をぬぐい、床に引いた裁ち台の線を見直した。店も借家もなくなったが、この四畳だけは自分の手順で整えられる。
同じ日の夕方、澄江はマメを連れて一階の裏口へ向かった。外まで最短の共用通路には、扉の手前を横切る金属製の段差があった。
マメは前足をかけ、腹を擦りそうになるとすぐに引いた。もう一度促しても、短い脚を踏ん張ったまま動かない。
「こんなもの、ひとまたぎなのにね」
澄江はマメを抱き上げた。扉を開けようと片手を伸ばしたところで腰に鈍い痛みが走り、慌てて犬を下ろした。
結局、廊下を戻って建物を半周し、坂側の出入口から外へ出た。坂は短いが急で、帰りには息が上がった。それでも澄江は、明日からこちらを使えば済む、と考えた。
転居後一週目、朝夕の遠回りは日課になった。裏口の前を通るたび、マメは段差を見て立ち止まり、澄江が廊下の先へ向きを変えると黙ってついてきた。
ある朝、乳児を乗せたベビーカーを押す小沢奈緒が、裏口の段差の前で車体を反転させた。廊下の幅では一度に回りきれず、前輪を何度も切り返している。
「そちらも坂へ回るんですか」
「毎回です。ここ、持ち上げると子どもが傾くので」
夕方には、久保田静子が買い物カートを引いてきた。段差の前で取っ手を持ち上げかけ、袋の重さに腕を震わせると、何も言わず坂側へ戻っていった。
配達員も同じだった。台車を通せず、箱を一つずつ下ろして段差の向こうへ運び、空の台車を持ち上げた。澄江は、その間に裏口を二度開け閉めする音を聞いた。
洋裁では、勘だけで布を切らない。澄江は散歩用の手帳に、時刻と使った人、遠回りにかかった時間を書き始めた。小沢、八分。久保田、六分。自分とマメ、七分。
二週間目の夜、月例自治会が共用室で開かれた。澄江は市販の着脱式スロープの寸法と価格を書いた紙を、自治会長の森田邦夫の前に置いた。
「裏口の段差に、使う時だけこれを渡したらどうでしょう」
森田は紙を持ち上げ、眼鏡の奥で数字を追った。
「常設はできません。裏口は避難経路です。使わない時、どこに置きますか」
「通路の端では」
「通路には物を置かない決まりです。それに自治会費で買うなら、全員に説明が要る。犬のための設備に出すのか、と言われますよ」
澄江は口を結んだ。マメの名は一度も出していなかったが、最初に困ったのが犬であることは伝わっていた。
「私も困っています」
小沢が言った。
「私もです。荷物が多い日は、あの坂はきついです」
久保田も続けたが、森田は二人を見回しただけだった。
「困っていることと、管理できることは別です。保管場所と費用、それから誰が片づけるのか。そこまで決まらないと、許可はできません」
会が終わると、澄江は紙を折って持ち帰った。誰かが困ると言えば動くものだと思っていたわけではない。それでも、自分の不便を口にしただけの人間に見られたことが腹立たしかった。
翌朝、澄江は小型倉庫の鍵を開けた。床には裁ち台の輪郭があり、その奥には昨日運び込んだミシンが置かれていた。
ミシンを据えれば、残る隙間は人が横向きに通れる程度だった。折り畳んだスロープも共用台車も入らない。森田の言った保管場所を作るには、この線を消すしかなかった。
澄江はしばらく裁ち台の印を見ていた。鍵のかかる四畳があれば、住民と関わらずに仕事へ戻れる。そのつもりで棚まで外した。
マメが扉の外から倉庫をのぞいた。澄江はため息をつき、ミシンにかけた布を外した。
「せっかく入れたのにね」
返事の代わりに、マメの爪が床を鳴らした。澄江はミシンをもう一度箱へ収め、床の線を雑巾でこすった。倉庫を自分の仕事場にする計画をやめ、スロープと共用台車の置き場として返すことに決めた。
自治会から三日後の夕方、管理人室前の打ち合わせ机に、澄江は二週間分の記録を広げた。手帳の数字は表に書き直し、段差を避けた回数と迂回時間を人ごとにまとめてあった。
森田は一番下の欄を指でたたいた。
「一回平均、七分」
「犬だけなら、ここまで回数は増えません。ベビーカー、買い物カート、配達台車も入っています」
澄江は倉庫の鍵を机に置いた。
「私に割り当てられた倉庫は、仕事場にしません。保管場所として無償で戻します。スロープと折り畳み式の共用台車を置けます」
「費用はどうします」
「希望する受益者で分担します。まず三か月だけ。使った人が必ず倉庫へ戻し、当番が最後に確認する。それなら避難経路には残りません」
小沢が表をのぞき込み、すぐに言った。
「分担します。当番もできます」
「私も。週に一度なら見に行けます」
久保田は買い物カートの取っ手に両手を重ねた。
森田は鍵と表を交互に見た。
「三か月の試行です。通路に置きっぱなしがあれば中止。利用記録もつけてください」
「わかりました」
澄江は即座に答えた。礼を重ねる代わりに、表の余白へ開始日を書いた。借りを作ったのではなく、条件をそろえたのだと思えた。
試行開始から一か月後の午前、裏口には使う時だけ着脱式スロープが渡されるようになっていた。小沢はベビーカーを押して通り、久保田は買い物カートを引いたまま外へ出た。配達員は倉庫の折り畳み式共用台車を借り、箱を積んで往復した。
使い終われば、スロープも台車も倉庫へ戻された。小沢が朝の確認をし、久保田が夕方の記録をつける。澄江だけが片づけ役になることはなかった。
マメは最初の日こそ鼻先でスロープを嗅いだが、今は歩調を緩めない。短い脚で金属板を渡り、裏口の前で澄江を待った。
「犬のためだけではなかったですね」
利用記録を確認しに来た森田が言った。
「最初に止まったのは犬ですけど」
澄江が答えると、森田は表の枚数をそろえた。
「試行後も、受益者負担と当番制を続けましょう。使う人も増えています」
裏口は広くなったわけではない。段差も消えてはいない。ただ、必要な時に渡し、使ったら戻す仕組みができた。それだけで、通れなかった人たちが同じ経路を使うようになった。
試行開始から二か月後の木曜午後、澄江は空いていることの多かった共用室に裁ち台を出した。ミシンは毎週その時間だけ運び込み、仕事が終われば片づけるという条件で、自治会の許可が出ていた。
「これ、丈を二センチだけ上げられますか」
小沢が子どもの服を裁ち台へ置いた。
「二センチだと、来月には短いよ。一センチにして、縫い代を残しておきます」
「では、それで」
久保田は上着の袖口を見せた。
「ここも、ついでに」
「ついでは困ります。仕事ですから」
澄江が言うと、久保田は乾いた声で笑い、料金を尋ねた。澄江は手帳に品名と仕上がり日を書き、順番に採寸した。
夕方になれば裁ち台を畳み、ミシンを片づける。共用室はまた別の住民が使える空間に戻る。澄江の名札も道具も、そこを占領したままにはならない。
窓の外では、散歩へ出るマメがためらわずスロープを渡っていた。その後ろを、買い物カートを引いた久保田が続いた。
澄江は次の依頼を手帳に記した。鍵のかかる四畳は手放したが、木曜になれば人が服を持ってやって来る。居場所は囲って取っておく面積ではなく、自分の役目を持って行き来できる範囲なのだと、澄江はようやくわかった。
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