乾かない椅子

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ホテル開業まで十二日。久住奈緒は、木地の修復を終えた二十脚の椅子を塗装室へ並べた。削り直した肘掛けは朝の光を淡く返し、古い木目の底には、これから重ねる塗膜を待つ乾いた艶があった。

独立してから、これほど大きな仕事は初めてだった。老舗ホテルの開業日に二十脚をそろえれば、亡き師匠の工房を継いだだけではなく、自分の腕で立てる。その証明になるはずだった。

奈緒が換気扇のスイッチへ手を伸ばすと、足元のムギが止まった。いつもなら塗装室入口脇のマットへ行き、前脚の間に顎を置いて伏せる。それが今朝は敷居の手前で四本の脚を突っ張り、動こうとしなかった。

「ムギ、そこじゃ邪魔になるよ」

リードを引くと、トイプードルの小さな体が低く沈んだ。ムギは奈緒の作業着の裾をくわえ、逆に廊下へ引き戻そうとした。

奈緒は塗装室を見回した。床に漏れはなく、排気音も普段と変わらない。ムギの鼻や目にも異常は見えなかった。それでも犬は裾を離したあと、入口の向こうを見据えていた。

午前八時半、奈緒はムギを廊下の定位置につないでから、換気扇の運転表示を確かめた。臭気計、温湿度計も許容範囲に収まっている。前日に試した板の塗膜にも、曇りや縮みはなかった。

気にしすぎだ。奈緒はそう決め、マスクを着けた。納期を一日でも失えば、乾燥時間か作業量のどちらかに無理が出る。一人で請けた以上、一人で終えなければならないと思っていた。

ムギを別室へ移し、奈緒は一脚目に仕上げを吹いた。霧が木目に沿って沈み、痩せていた褐色が深くなる。二脚目を終えて噴霧器を置くと、閉めた扉の外から、ムギの低い鳴き声が続いているのに気づいた。

佐伯宗一が生きていた頃、ムギが作業台の下を離れず、しきりに排気管の方を見た日があった。計器は正常だったが、師匠は機械を止めた。分解してみると、管の曲がりに削り屑が詰まっていた。

あの日、師匠はムギを褒めなかった。ただ、いつもと違うなら、違う理由がある、と言った。

奈緒は残る十八脚を見た。予定表の数字が頭の中で赤く滲んだが、噴霧器の電源を切った。塗った二脚には札を付け、ほかの椅子から離して隔離した。

午前九時から、奈緒は塗装室の空気を調べ直した。携帯型の揮発性有機化合物測定器を借り、給気口と排気口に細い紙片を取り付ける。十五分ごとに、数値と紙片の向きを記録した。

午前中、異常は出なかった。紙片は一定の方向へ流れ、測定値も低いままだった。ムギは廊下で落ち着かなかったが、奈緒は数値が変わらないことに、焦りと安堵の両方を覚えた。

正午前、隣の工事区画から重い機械音が響いた。給気口の紙片が一度ふるえ、次の瞬間、室内側へ吸い戻された。測定器の数値が跳ね上がり、警告音が短く鳴った。

数分後には、すべて元へ戻った。午後二時過ぎにも同じことが起きた。奈緒は時刻を囲み、隣接区画の設備担当である宮原亮に連絡した。

工事区画で記録を照合した宮原は、表情を硬くした。

「その二回、大型排気設備の試運転をしています。こっちの負圧が強すぎて、工房の排気を引き戻した可能性があります」

工房側の表示は、換気扇が動いていることしか示さない。隣の設備が稼働した数分間だけ気流が逆転し、排気口から塗装蒸気が戻っていたのだ。

宮原とともに隔離した二脚を確認すると、表面はもう指に付かなかった。しかし内部まで正常に硬化している保証はない。乾いて見えることと、安全に乾いていることは違った。

夕方、奈緒は作業机に工程表を広げた。設備の改善、二脚の剥離と塗り直し、十分な乾燥時間。それらを入れ直すと、一人では開業日に二十脚をそろえられなかった。

さらに、提出済みの試作工程表には、見過ごせない数字があった。実際の試作では中間乾燥に十二時間置いたのに、奈緒は八時間と記載していた。その方が一人でも間に合うと示せたからだった。

設備異常だけを報告し、数字のことは伏せることもできる。奈緒は訂正前の紙を何度も裏返した。だが、それではムギの異変を信じて作業を止めたことさえ、納期に都合よく使うだけになる。

奈緒は測定記録を清書し、十二時間に直した工程表と、分割納品案を作った。最後にホテルの改装責任者、神谷智子へ電話し、翌朝の面談を申し入れた。

翌朝、老舗ホテルの改装会議室で、奈緒は神谷と宮原の前に資料を並べた。向かいには、呼び出しに応じた岡部誠と田辺文も座っていた。二人とも佐伯の古い仕事仲間だったが、奈緒が独立してから助けを求めたことはなかった。

「二脚は出荷できません。換気改善後に剥離して、最初からやり直します。それから、もう一つ訂正があります」

奈緒は、試作工程では十二時間取った乾燥を、提出書類に八時間と書いたことを説明した。声が震えないよう、紙の端を押さえた。

「受注したい一心で短く記載しました。私の誤りです。申し訳ありません」

神谷は工程表から目を上げた。

「設備の問題と、記録の問題は別です。なぜ、今まで訂正しなかったのですか」

「能力がないと思われるのが怖かったからです。でも、このまま予定だけを守れば、安全を確認できない椅子を納めることになります」

奈緒は八脚、六脚、六脚に分けた納品案を示した。乾燥時間は短縮せず、各工程に測定記録を添える。だが、そのためには一人分を超える手が必要だった。

奈緒は岡部と田辺へ向き直った。

「岡部さんには剥離と木地調整を、田辺さんには塗装と硬化確認をお願いしたいです。費用はこちらで持ちます。助けてください」

岡部はしばらく奈緒を見てから、訂正後の工程表を引き寄せた。

「佐伯さんの弟子だから手を貸すんじゃない。剥がすべきものを剥がすと決めた職人だから、手を貸す」

田辺も、塗装日を指で追った。

「この分け方ならできる。ただし、乾燥は一時間も削らない。それでいいね」

「お願いします」

宮原は、隣接設備との同時運転を防ぐ連動制御と、排気経路の調整案を示した。神谷は全館一斉開業の予定を確認したあと、低層階から順に開ける段階開業へ切り替えると決めた。

「八脚、六脚、六脚で受け取ります。契約は変更して継続します。ただし、すべての測定値と作業時刻を提出してください」

奈緒は頭を下げた。契約解除は免れたが、追加利益は応援の人件費へ消える。二十脚を一人で仕上げたという実績も残らない。それでも、肩にのしかかっていた予定表が、初めて人の手で持ち上げられた気がした。

翌日、宮原が連動制御を直し、朝、正午、午後の各時間帯で気流を確認した。大型排気設備を動かしても紙片は逆を向かず、測定値も上がらなかった。

奈緒と岡部は、隔離した二脚の塗膜を薄く剥がした。刃を寝かせ、木地を傷めない深さで古い艶だけを戻していく。田辺は残る椅子の仕上げを分担し、塗膜の硬化を一脚ずつ確かめた。

奈緒は塗装時刻、温湿度、測定値を記録し、決めた乾燥時間が来るまで椅子に触れなかった。ムギは噴霧中、別室で待たせた。作業前の確認で入口へ連れてくると、ムギは匂いを確かめるように鼻を上げ、それから入口脇のマットへ静かに伏せた。

開業前夜、完成した最初の八脚がホテルへ運ばれた。奈緒は荷台の扉が閉まるまで、一脚ごとの札を目で追った。急いで乾かした椅子は、一脚もなかった。

段階開業から四日後の朝、残る十二脚も六脚ずつ納品を終えた。神谷は最後の検査記録に目を通し、契約完了を告げた。

「予定どおりではありませんでした。でも、必要な形で完了しています」

奈緒は礼を言った。手元に利益はほとんど残らず、単独施工の名誉もなかった。代わりに、不良品も事故も出さず、二十脚すべてをホテルへ渡したという事実が残った。

工房へ戻ると、奈緒は塗装室前の壁に新しい確認表を掲げた。換気設備、時刻別の測定、乾燥時間、必要な作業人数。異常があれば止め、記録し、工程を組み直す欄も加えた。

ムギは紙の擦れる音を聞きながら、いつもの入口脇へ歩いていった。くるりと一度回り、前脚の間に顎を置いて伏せる。

奈緒はその頭を撫でたが、ムギが仕事を救ったとは書かなかった。計器に出ない異変を信じたことも、失敗を明かして人に助けを求めたことも、自分だけの手柄ではない。

塗装室には、次の作業を待つ静かな空気が流れていた。奈緒は確認表に今日の日付を記した。一人で耐えることではなく、安全に完成させるために工程を作り直すことまでが、職人の技術なのだと思った。

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