ブレーキの音

六月の平日、午後八時まであと三分だった。長谷川陸は高層マンション二十一階の廊下を小走りに進み、佐伯と表札の出た玄関脇へ小さな段ボール箱を置いた。高額腕時計だと端末に注意表示が出ていたが、受取人は不在だった。

置き配の写真を送れば、通信の遅い端末がまた固まる。受領方法の確認も必要だったが、次の配達は時間指定で、すでに余裕がない。陸は箱を壁際へ寄せ、配達完了だけを入力した。

隣室の扉が開き、三浦奈緒がごみ袋を手に出てきた。その足元からチワワのムギがすり抜け、廊下の曲がり角へ駆けだした。

「ムギ、待って」

三浦がリードをつかむより先に、曲がり角の向こうから、キィッ、と金属を擦る甲高い音が響いた。自転車のブレーキに似ていた。ムギは全身を震わせ、姿の見えない何かへ激しく吠えた。

「すみません、この音がすると飛び出しちゃうんです」

陸は一度だけ曲がり角を見た。しかし誰も現れず、端末には次の住所が点滅している。「箱、ここにありますので」と三浦に告げ、エレベーターへ急いだ。

約一時間後、帰宅した佐伯美咲が見たのは、何もない玄関脇だった。

翌朝、営業所の事務室で、上司の黒田雅之は苦情一覧を机に置いた。

「同じマンションで、二週間に五件。全部、おまえの担当便だ。昨夜の腕時計で、先方も警察への相談を決めた」

端末上には、どの荷物にも配達完了時刻が残っていた。だが写真がない。署名も、受取人への確認記録もない案件が多かった。

「置いたのは間違いありません。持ち去ってもいません」

「なら、なぜ記録がない」

陸は答えるまでに間を置いた。「遅延が怖くて、省略しました。何度もです」

黒田の顔から怒りより先に困惑が浮かんだ。陸が速いことは知っていても、その速さの中身までは知らなかったのだ。

「今日からあの区域を外す。社内でも調べる。窃盗と手続き違反は別だが、自分の記録で証明できない以上、今はおまえを配達に出せない」

陸は苦情一覧を引き寄せた。五件の完了時刻はいずれも夜に集中し、昨夜とよく似た時間帯だった。記録の空白を埋められるものがあるとすれば、あの廊下に残った事実しかなかった。

同日夕方、陸は黒田とともにマンションへ戻った。管理会社担当の大森から許可を得て二十一階へ上がり、三浦宅の前で昨夜の状況を聞いた。

「前にもありました。配達通知が来たあと、ムギが急に玄関へ走って。同じ方向に吠えていました」

三浦の足元で、ムギは廊下の曲がり角を見つめていた。そのときエレベーターが開き、管理組合理事長の岩田修一が折り畳み自転車を押して現れた。

「また配送会社ですか。置き配がどれだけ危険か、これで分かったでしょう」

岩田は陸をにらみ、自転車を止めるためブレーキレバーを握った。キィッ、と細く鋭い擦過音が廊下を走った。

ムギが床を蹴った。三浦がリードを引かなければ、そのまま岩田の自転車へ飛びかかっていた。昨夜と同じ吠え方だった。

陸は黒田と大森を見た。「この音です。荷物を置いた直後に聞きました」

「犬が吠えたくらいで、私を疑うのか」岩田は吐き捨てた。「私は前から置き配禁止を主張している。危険を放置してきたのは、あなた方でしょう」

音だけでは、誰が荷物を運んだかは証明できない。大森が管理室で防犯映像を確認したが、各戸の玄関前は映っていなかった。業務用エレベーターまでの曲がり角も、カメラの死角だった。

陸はもう一度、佐伯宅の前へ戻った。箱を置いた壁際に、髪の毛ほど細い黒い筋が残っている。指先で触れると、乾ききっていない油が薄く伸びた。

黒い跡は廊下を途切れながら曲がり、業務用エレベーターまで続いていた。先ほど見た岩田の折り畳み自転車にも、チェーン付近から同じ色の油がにじんでいた。

大森は管理室でカード履歴を呼び出した。五件の紛失時刻の直後、毎回、岩田のカードで業務用エレベーターが使われている。行き先は、改装待ちの空室がある十八階だった。

三人で十八階へ下りると、エレベーター前から再び油跡が現れた。細い筋は無人の廊下を横切り、一室の扉の前で止まっていた。

「ここは設備点検の立ち会い用に、岩田理事長が一時的に鍵を預かっています」大森は扉に触れず、携帯電話を取り出した。「警察へ連絡します」

翌日午前、警察官の立ち会いのもと、大森が十八階の空室を開けた。家具のない室内に、段ボール箱が四つ積まれていた。伝票の宛名は、苦情一覧にある住人のものだった。どれも未開封だった。

同行した岩田は、しばらく黙ったあとで言った。「盗むつもりはない。置き配の危険性を住民に理解させ、禁止決議を通すために一時的に移しただけです」

黒田が箱を数え直した。「五件のはずだ。腕時計がない」

陸への疑いを決定的にした佐伯の箱だけが、どこにも見当たらなかった。

「私は腕時計には触れていない」岩田はすぐに言った。「高額品だと知っていたのは配送員でしょう。彼が先に抜いた可能性もある」

四件が見つかっても、最も高い一件がなければ、陸の空白は埋まらない。むしろ岩田の言葉は、その空白へぴたりとはまってしまう。

同日午後、陸は警察官と佐伯宅を訪ねた。「箱そのものの位置を確認できるものはありませんか。配送通知以外に、何か」

佐伯はしばらく考え、顔を上げた。「紛失防止タグを入れています。腕時計の内箱に。配送中に失くなったときのために登録してありました」

佐伯は警察へ位置履歴を提出した。警察署で確認された点は、配達後に二十一階から十八階へ移り、その夜遅く岩田宅へ入っていた。さらに翌朝、点はマンションを離れ、郊外の貸倉庫で止まっていた。

翌朝、警察が岩田名義の区画を確認すると、棚の奥から佐伯宛ての箱が見つかった。梱包も腕時計の内箱も未開封で、タグはその中に残っていた。

「壊れやすい高額品だけ、安全な場所へ移した」

倉庫に呼ばれた岩田はそう弁解した。しかし、受取人へ知らせず、空室から自宅を経て外部倉庫へ運んだ履歴は消せなかった。腕時計は警察立ち会いのもと回収され、陸が持ち去っていないことも客観的に確定した。

全ての荷物が受取人へ返却されたあと、陸は営業所で黒田に書類を差し出した。今回の五件だけではない。これまで写真撮影や受領確認を省略した配達を、自分で調べられる限り全て申告した一覧だった。

「疑いは晴れた。だが、これは処分になるぞ」と黒田は言った。

「分かっています。盗んでいないことと、手続きを破ったことは別です」

陸は減給処分を受け、再研修へ回された。そこで管理会社と住人に協力を求め、各戸が希望する置き場所、対面受領の要否、写真撮影の可否を一覧にした。端末上で項目を確認しなければ、配達完了に進めない手順も黒田と作った。

三週間後の夕方、陸は同じマンションの二十一階に立っていた。復帰初日の荷物を、指定された玄関脇の内側へ置く。

廊下の遠くで、キィッ、とあのブレーキ音が鳴った。警察の確認を終えた岩田の折り畳み自転車が、作業員によって運び出されていくところだった。三浦宅の向こうで、ムギが激しく吠えた。

端末の時刻は次の配達を急かしていた。陸は走り出さず、指定位置をもう一度確かめた。写真を撮り、受取人への通知を送り、画面に送信完了と表示されるまで待った。

ブレーキの音は遠ざかっていった。ムギの声もやがて止み、廊下には、手続きを終えた端末の短い電子音だけが残った。

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