締切の向こうの犬

瀬尾真帆が腕時計を見たとき、針は十六時三十五分を指していた。学校の暗室まで自転車で十二分、現像と焼き付けに最低五十分、隣の市民会館へ運ぶのに五分。十八時の応募締切まで、失敗する余裕は一度もなかった。

フィルム部門限定の写真コンテストには、進学費用を補える奨学金が懸かっている。真帆のカメラには、あと一コマだけ残っていた。弱い雨の降る河川敷を見回しながら、これまで撮ったどの写真よりも強い一枚が必要だ、と焦っていた。

古いベンチのそばに、細身の犬が立っていた。灰色の短い毛は雨に濡れ、細い脚に張りついている。遠くを見る横顔だけが、流れていく川や低い空から切り離されたように鮮明だった。

迷い犬かもしれない、という考えは浮かんだ。それでも真帆は先にファインダーをのぞき、ベンチの背と川岸の線が交わる位置まで体をずらした。犬が顔を上げた瞬間、シャッターを切った。

巻き上げレバーは、もう動かなかった。撮り終えた安堵とともにカメラを下ろした真帆は、犬の赤い首輪から垂れているリードに気づいた。先端は泥にまみれ、途中で引きちぎれていた。

十六時三十八分。真帆が近づいても、犬は逃げなかった。ただベンチの下へ細い鼻を差し入れ、落ちていた片方の作業手袋の匂いを嗅いでは、雨の向こうを見回した。

「これ、飼い主さんの?」

犬は答える代わりに、また手袋へ鼻を寄せた。真帆が拾い上げると、擦り切れた甲に補修用の布が縫いつけられ、そこに「津田靴修理」と刺繍されていた。

土手を上がったところに地域掲示板があった。犬はベンチを離れようとしないため、真帆はそこまで走り、色あせた広告の中から同じ店名を見つけた。番号へ電話をかけ、手袋の写真をスマートフォンで送る。

「この縫い方は、うちで直したものです。小林さんのだ」

電話口の男は津田と名乗った。河川敷の整備をしている小林吾郎という常連客が、二十分ほど前に犬を捜して店へ来たという。犬が下流へ逃げたと思い込み、そのまま下流方向へ歩いていったらしい。

「小林さんの携帯へかけてみます。犬は、そこにいますか」

「います。手袋のそばから動きません」

通話を切った時刻は十六時四十六分だった。真帆は警察にも連絡したが、雨による事故対応が重なり、保護に向かえるのは四十分以上先だと言われた。

切れたリードを持つと、犬は真帆のそばには来た。しかし自転車へ近づけようとすると脚を突っ張り、車道でタイヤの音がするたびに身を縮めた。どこかへ運ぶどころか、ベンチから離すことさえ難しい。

再び津田から電話が入った。小林とは連絡がついたものの、雨音で説明が聞き取りにくいうえ、本人は河川敷に不慣れで、合流まで時間がかかるという。

腕時計は十六時五十三分を示していた。今すぐ出ても、暗室では一秒も無駄にできない。真帆は手袋をベンチの脚元へ置き直した。

「ここで待っていられるよね」

犬ではなく、自分に言い聞かせるような声になった。警察も来る。飼い主も戻る。自分が残らなければならない理由はないと繰り返し、真帆はカメラバッグを肩へ掛け、少し離れた自転車と駅の方角へ歩き出した。

数十メートル進んだ十六時五十四分、大型トラックが河川敷沿いの車道を通過した。低い轟音に振り返ると、犬がベンチから飛び出し、切れたリードを跳ねさせながら車道側へ駆けていた。

真帆はカメラバッグを地面へ放り出した。犬と道路の間へ滑り込み、泥水を浴びながらリードをつかむ。犬の胸を両腕で抱えたすぐ脇を、次の車が水しぶきを上げて走り抜けた。

腕の中で、細い体が激しく震えていた。写真を撮ったとき、真帆はこの震えを見ようとしなかった。孤独な姿だけを欲しがり、その姿がなぜそこにあるのかを、締切の外へ押しやろうとしていた。

「ごめん。もう行かないから」

十六時五十五分、真帆は津田へ電話をかけ直した。飼い主が来るまでここに残ると伝えると、津田は小林を加えて三者通話につないだ。

「ルイは、ルイは無事ですか」

息を切らした声に、真帆は初めて犬の名前を知った。

「無事です。古いベンチのところにいます。手袋もあります」

同じようなベンチが河川敷にいくつも並んでいるため、小林は場所をつかめなかった。真帆は周囲を見回し、手袋の刺繍、土手の青い地域掲示板、雨にかすむ橋脚の「7」という番号を一つずつ伝えた。津田がその説明を言い直し、小林を逆方向から戻らせる。

真帆はルイを道路から遠いベンチの川側へ座らせ、自分の上着を脱いで濡れた背中へ掛けた。大型車の音がするたび、切れたリードを短く持ち、手袋を嗅がせて落ち着かせた。

十七時を過ぎ、暗室へ戻っても現像は間に合わなくなった。十七時五十分には、市民会館へ駆け込む可能性さえ消えた。それでも真帆は何度も時計を見た。諦めたはずの締切が、雨の向こうでまだ自分を呼んでいるようだった。

十八時。秒針が文字盤の上を一周しても、河川敷には雨音しかなかった。真帆はカメラバッグの中のフィルムを思い、ルイのリードを握る手に力を込めた。

十八時十分ごろ、橋脚の向こうから黄色い雨具の男が現れた。ルイは顔を上げ、初めて自分からベンチを離れた。細い体が真帆の上着を落とし、泥を蹴って男へ駆けていく。

「ルイ!」

小林は膝をつき、飛びついてきた犬の首を抱いた。真帆の指は反射的にカメラバッグへ伸びた。再会の瞬間なら、きっと誰の目にも届く写真になる。

けれど真帆はカメラを出さなかった。泥の中から切れたリードを拾い、その端を小林の手へ直接渡した。

「もう切れないものに替えてください」

「はい。必ず。あなたがいてくれて、本当によかった」

小林の手には、片方だけの作業手袋が戻った。ルイはその手へ鼻を押しつけてから、真帆を一度だけ見上げた。

一週間後の放課後、真帆は学校の暗室にいた。応募できなかったフィルムを、自分のために現像液へ沈めた。赤い安全灯の下で像が浮かぶまでの時間は、あの日の一時間余りより静かで、長く感じられた。

最後の一枚には、雨に濡れたルイだけでなく、足元の作業手袋も写っていた。ルイの顔は孤独なのではなかった。誰かが戻ってくる方角を信じるように、わずかに持ち上がっていた。

その日のうちに津田から連絡があり、真帆は写真を持って靴修理店へ向かった。店には小林とルイも来ていた。真帆は写真を見せる前に、助けるより先にシャッターを切ったことを打ち明けた。

「勝手に応募したり、公表したりはしません」

小林はしばらく写真を見つめていた。それから、ルイの首輪を確かめるように撫でた。

「事情を知らずに見れば、寂しい犬の写真でしょう。でも私は、こいつがここで待っていたと知っています。同じような迷い犬を減らすために、店先へ飾らせてもらえませんか」

真帆は津田にも展示場所と目的を尋ね、小林へもう一度、許可してよいのかを確認した。二人がうなずくのを見てから、写真を一枚焼き増しすると約束した。

約一か月後、津田靴修理店の店先には、ルイと手袋の写真が飾られていた。その隣へ迷い犬や迷い猫、落とし物の情報が少しずつ貼られ、通りかかる人が足を止めるようになった。

真帆は奨学金で埋めるつもりだった進学費用の不足分を、週末のアルバイトで補い始めた。空いた時間には掲示物に使う動物や落とし物を撮ったが、必ず持ち主や保護した人へ用途を説明し、了承を得てからカメラを構えた。

ある日、小林とルイが店を訪れた。陽の当たる店先でルイが手袋の匂いを嗅ぎ、真帆はカメラを持ち上げかけた。

「撮ってもいいですか」

小林が笑ってうなずいたあとで、真帆はファインダーをのぞいた。良い瞬間は、奪って残すものではない。その場に関わった責任ごと引き受けて初めて、誰かのもとへ届くのだと、今は知っていた。

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