滑らない廊下

防災査定まで二週間となった午前、井沢孝志は各階の共用廊下を巻き尺と記録表を持って回った。植木鉢、折り畳み椅子、空の段ボール箱。避難経路の幅を狭める物を見つけるたび、撤去欄に正の字を加えた。

三階では、夏目芙美の玄関脇に買い物籠が置かれていた。孝志が持ち上げると、中で缶詰が重たい音を立てた。

「それ、買った物を少しずつ家に運ぶために置いてるんです。いっぺんには重くて」

「事情を例外にすると通路幅は守れません」

孝志は籠を夏目に渡し、規約の条文番号を告げた。正規契約を得るには、まず数字を整えなければならない。住民一人ずつの事情を聞いていては、規則は規則でなくなると考えていた。

四階では、武田静江が折り畳み椅子に手をかけた。杖を使う彼女は何か言いかけたが、孝志が撤去数を表へ記入するのを見て口を閉じた。

その日の集計は、植木鉢七、椅子二、籠一、その他三。障害物はゼロになった。孝志は住民の視線を、査定を通すために必要な摩擦だと割り切った。

一週間後の夕方、管理会社の黒崎健吾が管理員室へ来た。私物の消えた避難通路を見回し、古びた床に靴先を擦った。

「片づいた分、床のくたびれ方が目立つな。査定官は第一印象で見るから」

黒崎の指示で、その日のうちに安価な光沢ワックスが施工された。製品の缶には細かな注意書きが並んでいたが、孝志は滑り抵抗について尋ねず、清掃記録の施工済み欄に印を付けた。

乾いた床には天井灯が細長く映った。黒崎は満足そうに腕を組んだ。

「これなら管理が行き届いて見える」

孝志も革靴で端を一歩踏み、異常なしと判断した。その向こうで武田が手すり側へ遠回りしていたが、記録表に目を落としていた孝志は気づかなかった。

防災査定前日の午前、避難訓練が行われた。中庭に集まった住民たちは、誘導係の合図で一階の避難通路へ向かった。

列の途中で、夏目の飼うウェルシュ・コーギー・ペンブロークの麦が止まった。普段なら誰より先に進みたがる犬が、ワックスを塗った床との境目で短い四肢を突っ張っている。

「麦、どうしたの」

夏目がリードを軽く引いても、麦は床の匂いを嗅ぎ、尻を落として後ずさった。後ろの列が詰まり、理事長の大島修一が腕時計と犬を交互に見た。

「犬一匹なら運べます」

孝志は麦を抱き上げた。ずしりとした胴を両腕に収め、磨かれた床へ踏み出した瞬間、革靴が横へ流れた。

肩を壁にぶつけ、どうにか転倒は免れた。腕の中の麦は身を固くし、床に触れていない爪をいっぱいに開いていた。笑いかけた住民たちも、孝志の靴底がきゅっと滑る音を聞いて黙った。

訓練が終わった午後、孝志は管理員室で参加名簿を開いた。欠席欄を追うと、杖や歩行器を使う住民がそろって来ていなかった。

「麦は前の床なら平気でした。あの子、階段だって勝手に上ろうとするくらいなのに」

夏目は管理員室の入口で言った。足元の麦は、ワックスのない床を平然と歩いていた。

孝志はゴム底の靴を濡らし、施工前の床と施工後の床を踏み比べた。次に予備の杖を斜めにつき、体重をかける。磨かれた部分では、杖先がほんの数センチ逃げた。

四階の武田の玄関を訪ねると、彼女は杖を戸口に立てたまま、しばらく黙っていた。

「ワックスを塗ってから、二度よろけました。訓練で転んだら皆さんに迷惑でしょう。管理人さんに言っても、決まりではありませんと言われそうでしたし」

廊下から撤去した椅子は、エレベーターまで歩く途中で休むためのものだった。孝志はそこで初めて、椅子が通路を塞いでいたことと、武田の歩行を支えていたことが同時に事実なのだと知った。

「話を聞かずに撤去しました。すみません。よろけた日時と場所を教えていただけますか」

武田は少し驚いた顔をしてから答えた。孝志は二件の転倒未遂を、時刻と位置まで記録した。空いた廊下を作った自分が、そこを通れない人を作っていた。

査定当日の朝、孝志は記録とワックスの製品名を黒崎へ見せた。黒崎は書類を一読し、机へ伏せた。

「今日だけ注意表示を出しておけばいい。査定後に考えよう。問題を増やさない判断力も、正規契約には必要だぞ」

孝志は報告書をいったん引き出しへ戻した。正規契約は、今の彼にとって生活の見通しそのものだった。予定どおり査定を終えれば、黒崎の評価も固まるはずだった。

しかし、机上の訓練名簿には欠席の印が並んでいた。武田の「皆さんに迷惑でしょう」という声を思い出す。声を上げずに欠席した人は、記録の上ではただの不参加者になる。

午後、管理組合の集会室で査定が始まった。査定官が設備記録を確認する席で、孝志は引き出しから出した報告書、杖先による確認結果、ワックスの施工指示書を差し出した。

「避難通路に転倒の危険があります。歩行に補助が必要な住民が、訓練へ参加できていません」

査定官は書類を読み、現場の再検査が必要だとして査定の延期を決めた。大島は深く息を吐き、黒崎は表情を動かさなかった。

集会室を出たところで、黒崎が孝志を呼び止めた。

「予定を乱した責任は取ってもらう。契約は月末で終了だ」

孝志はうなずいた。正しい判断だったという確信はなく、ただ、あの欠席欄を空欄のままにしなくてよかったと思った。

契約終了までの二週間、マンションでは査定延期への不満と孝志への同情がぶつかった。余計な工事費がかかるという声もあれば、転んでからでは遅いという声もあった。

集会室で、夏目は滑り止め工事を求める署名用紙を広げた。

「井沢さんが報告しなかったら、武田さんたちは避難できないままでした。でも、床だけ直せばいいわけじゃありません。私たちも廊下の物を片づけましょう」

署名用紙には、植木鉢や籠を恒常的に置かないこと、休憩椅子は消防上問題のない共用スペースへ移すことが添えられた。夏目は買い物籠を室内に置き、買った物を二度に分けて運ぶことにした。

武田は杖をついて各戸を回った。これまで言えなかった足元への不安を話すと、同じようによろけた経験を打ち明ける住民もいた。規則に反発していた者たちが、自分の植木鉢を抱えて部屋へ戻す姿は、孝志には少し可笑しく、少しまぶしく見えた。

過半数の署名と住民側の改善案を受け、大島は臨時総会を開いた。費用の説明には渋い顔をしたが、具体的な記録と合意がそろっている以上、退ける理由はなかった。滑り止め工事は可決された。

退職の日、孝志が管理員室の鍵を返すと、夏目が署名の写しを差し出した。

「規則に負けたんじゃなくて、規則の床を直したんです」

「床は規則ではありません」

孝志が反射的に訂正すると、夏目は笑った。

「そういうところは、まだ滑らかじゃないですね」

それから一か月後、滑り止め工事を終えた管理組合は、孝志に直接雇用を申し出た。危険を記録でき、住民との調整もできる管理人が必要だと、大島は契約書を差し出した。

復職初日、孝志は新しい休憩場所まで武田と一緒に歩いた。何歩で着くか、どれくらい時間がかかるかを尋ね、それから避難通路に物を置けない理由を説明した。武田は「先に聞かれると、規則も少し親切に聞こえますね」と言った。

その日の避難訓練で、麦は床の境目に鼻を近づけた。ひと嗅ぎしたあと、ためらわず短い脚で通路を駆け抜けた。

「犬が査定官より厳しいな」

大島の声に、住民たちが笑った。武田も杖を滑らせることなく、自分の歩幅で後に続いた。

訓練後、孝志は記録表へ参加人数を書いた。その下に、武田が無理なく歩けたこと、夏目が籠を室内へ運べたことを添えた。

数字は相変わらず必要だった。ただし、数字からこぼれる足音を拾うのも、管理する者の仕事だった。孝志は走り終えた麦の短い脚を見てから、次の住民に歩幅を尋ねた。

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