金曜の午後五時半、彩は食卓に置いた赴任承諾書を見ながら、拓海に電話をかけた。返答期限は週明けだった。
「来月中には転校の手続きを進めたい。向こうの学校にも問い合わせるから」
「それは相談じゃなくて決定通知だろ。陸を連れていく前提で話すな」
「昇進がかかってるの。いつまでも保留にはできない」
「だからって、会える回数が半分以下になる条件に同意はしない」
決定権を奪われる。彩の胸に、離婚前から何度も味わった感覚がよみがえった。
「陸の前でまた言い争いたくない。予定は持たせるから」
通話を切り、彩は両家の予定を書いた紙を青い連絡袋へ入れた。ソファでは陸がロクの背を撫でていた。灰色のミニチュアシュナウザーは、これから出かけると察して尻尾を振っている。
彩はロクに早めの夕食を与え、皮膚炎の薬を一錠、フードに混ぜた。食べ終えたのを確かめてから、陸に言った。
「ご飯と薬は済んだって、お父さんに言ってね」
「うん」
陸の返事は小さかったが、彩は聞き返さなかった。もう一度拓海へ連絡すれば、転勤の話を蒸し返される。それを避けるほうが、そのときの彩には大切だった。
午後七時、彩は陸とロクを拓海の家へ送り届けた。玄関に出てきた拓海は、陸の荷物を受け取るより先に彩を見た。
「転校届、いつ出すつもりだ」
「陸の前で話すことじゃないでしょう」
「陸のことを、陸のいないところで勝手に決めるのか」
「勝手に決めてるのはどっち?」
彩が言い返す間、陸は青い袋を胸に抱え、二人を交互に見ていた。ロクの食事と薬を伝えようと口を開いたが、彩が「もう帰るから」と言った声に重なった。
彩は伝わったものと思い、玄関を離れた。扉が閉まったあと、拓海は台所に置かれた空の餌皿を見た。前回洗って伏せたままの皿だった。
「ロク、まだだよな」
陸は青い袋を握った。母の言葉を思い出したが、今さら違うと言えば、なぜすぐ言わなかったと責められる気がした。
「……うん」
拓海は計量したフードを皿に入れ、皮膚炎の薬を一錠混ぜた。ロクは勢いよく平らげたが、三十分ほどすると床に吐いた。続けて二度吐き、立ち上がろうとした脚がふらついた。
「ロク?」
陸が抱き起こすと、ロクは力なく床へ伏した。拓海はすぐに彩へ電話した。
「ロクが吐いて動けない。夜間病院へ行く」
午後八時半、夜間動物病院の診察室で、ロクは前脚に点滴を受けていた。陸は診察台のそばを離れず、彩と拓海はその後ろに並んだ。
佐伯医師はロクの腹部を確かめながら尋ねた。
「最後に食事をした時刻と量を教えてください。薬も飲んでいますね」
「午後五時です。いつもの量を食べて、皮膚炎の薬を一錠」
彩が答えると、拓海が顔を上げた。
「七時半にも同じ量と薬を一錠、与えました」
「どうして確認しなかったの」
「済んだなんて聞いてない。そっちこそ、なぜ連絡しない」
佐伯医師は二人の言葉を制し、薬の名前と処方量を確認した。重複した食事と投薬が、嘔吐やふらつきに関係した可能性があるという。処置はしたが、今夜は経過観察が必要だった。
「投薬を記録したものはありますか」
彩と拓海は同時に黙った。彩は青い連絡袋を示したが、中にあるのは予定を書いた紙だけだった。
「陸に伝えたんです。ご飯も薬も済んだって」
「俺は陸に聞いた。まだだってうなずいた」
二人の視線が陸へ向いた。陸は唇を震わせ、ロクの背に置いた手を引っ込めた。
「言わなきゃと思った。でも、玄関で二人とも怒ってたから。あとで言ったら、どっちに言っても怒られると思った」
涙が頬を伝った。
「ぼくがうなずいたからだ。ごめんなさい。ロク、ごめん」
彩は息をのんだ。叱るつもりなどなかった、と言いかけたが、陸が恐れたのは叱るという言葉ではなく、自分たちの顔と声だった。
午後十時を過ぎ、三人は待合室へ移った。ロクは処置室で経過を見てもらっている。陸は椅子の端で眠りかけ、彩は薬の袋を探そうと青い連絡袋を開いた。
折られた原稿用紙が床へ落ちた。赤字で丸がついた題は、「二つの家の間で運ぶもの」だった。
彩は一枚目を開いた。着替え、教科書、ロクの薬、父の家に置き忘れた充電器。そこまでは、よくある持ち物の話だった。
続く行に、予定、謝っておいてという言葉、言いにくい返事、と書かれていた。最後には、父の機嫌を母の家へ、母の機嫌を父の家へ運ぶこともある、とあった。重いけれど鞄には入らないので、なくしたふりもできない、と結ばれていた。
拓海も横から読み、長く黙った。彩は原稿用紙を膝に置いた。
「相談したら、あなたに決められると思ってた。だから、決まってから伝えようとした。必要な連絡まで陸に渡して」
「俺も、彩に聞けば都合のいい答えしか返ってこないと思ってた。陸から聞いたほうが本当のことがわかるって」
「陸、ごめん。私たちが自分で運ぶべきものを、持たせてた」
拓海も陸の前にしゃがんだ。
「もう、父さんへの伝言も、母さんへの伝言もしなくていい。わからないことは父さんが直接聞く」
陸は袖で涙を拭い、かすかにうなずいた。
佐伯医師が待合室へ来て、ロクの状態は落ち着き始めていると告げた。退院後は食事量を減らし、指定した時刻に薬を与えること、再び嘔吐やふらつきがあればすぐ受診すること。指示は文書で渡された。
彩は予定表の裏に線を引き、日付、食事量、投薬時刻、体調、担当者の欄を作った。拓海がペンを受け取り、上部に書いた。
「二軒分の食事表」
「食べさせた人が記入する。受け取る側が確認する」
「確認できなければ、陸じゃなくて相手に聞く」
二人は転勤について結論を出すのをいったんやめた。善意で余分に世話をするのではなく、誰が何をしたかを残し、自分たちで確かめる。最初の一枚には、佐伯医師の指示を二人で書き写した。
翌週火曜の午後三時、彩は勤務先の会議室で高橋部長と向かい合った。ロクの容体は安定し、少量の食事も取れるようになっていた。
「赴任も昇進も、お断りするつもりはありません。ただ、条件を再協議させてください」
彩は半年間、陸を転校させず、自分だけが赴任先の住居を使う案を示した。週三日は現地勤務とし、顧客訪問をその三日間へ集約する。残りは現在の地域での勤務と在宅対応にして、半年後に改めて勤務形態を検討する計画だった。
高橋部長は資料をめくった。
「移動負担は軽くないですよ」
「承知しています。それでも、今すぐ子どもの生活を全部動かすより、成果と家庭の両方を検証できる形にしたいんです」
高橋部長は訪問計画を確認し、半年後の再検討を条件に承認した。会議室を出た彩は、まず共有用の連絡欄に結果を記入した。陸に言っておいて、とは書かなかった。
退院から一週間後の金曜午後六時、回復したロクは彩の食卓の下に伏せていた。彩は変更された赴任条件を拓海と陸に説明し、三人で半年分の予定を開いた。
拓海は平日の決まった二日間、陸の送迎を担当し、ロクの通院も引き受ける。彩が現地にいる三日間も、陸は今の学校へ通う。共有アプリには陸の食事と予定、ロクの食事と投薬、医療費と学校費用、送迎担当をそれぞれ記録することにした。
「急に病院へ行く必要が出たら、その場にいるほうが決める。そのあと、すぐ連絡する」
彩が確認すると、拓海が続けた。
「転校や進学みたいに、今すぐ決めなくていい大事なことは二人で決める。陸にどちらかを選ばせない」
受け渡しのときは玄関で五分間、親同士がアプリを見て確認することも決めた。半年後の暮らし方は、そのとき三人でもう一度話し合う。
拓海が帰るために立ち、陸はロクのリードを握った。彩は棚から青い連絡袋を取り、いつものように差し出しかけた。
中には何も入っていなかった。彩は手を止め、袋を棚へ戻した。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
陸は何も背負わずに玄関を出た。握っているのはロクのリードだけで、その先を歩くロクの足取りは、もうふらついていなかった。
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