バス停までの散歩

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土曜日の午前九時半、健司は焼き上がったパンケーキを皿に重ね、栞の前に置いた。形のそろった三枚にバターを載せ、メープルシロップを小さな器に分けてある。昔、栞が休日になるとねだった朝食だった。

「焦げてないやつ、久しぶりに見た」

栞はそう言ったが、笑いはしなかった。足元では柴犬の鉄が尾を振り、栞の膝へ鼻先を押しつけている。栞は鉄の首を抱くときだけ、顔を少し緩めた。

健司はその様子に手応えを感じ、テーブルの端に置いていた紙を栞のほうへ滑らせた。午前十時半に出発、新しい通学路の下見、学用品の買い替え、午後六時にレストラン。予定は十五分単位で区切られ、一番下には「同居案についての意向確認」という欄があった。

「今日は一日でだいたい見られるようにしてある。学校まで実際に歩けば、そんなに悪くないって分かると思う」

栞は紙を一度見ただけで、パンケーキを小さく切った。健司は空いた皿を片づけようとして、椅子の脇に置いた青いファイルを落とした。床に散ったのは転校先の案内と制服の注文票、それに家庭裁判所へ出すための書類の写しだった。

栞が制服の写真を拾い上げた。

「もう買うことになってるの」

「なってるわけじゃない。決まったとき、すぐ動けるように調べただけだよ」

健司は手早く資料をファイルへ戻した。準備しているだけだ、と言えば安心させられるはずだった。けれど栞は鉄の背を撫でたまま、それからほとんど口を開かなかった。

午前十時半、健司は旧居の玄関で腕時計を見た。通学路を案内してもらう時間に遅れそうだった。

「栞、そろそろ出るぞ。上着を着て」

「行かない」

「予約してあるんだ。話を聞くだけでもいい。それと、あの意向確認のところ、今日中に書いてくれると助かる」

栞は靴を履かず、廊下に立っていた。

「転校したくないって、前にも言った」

「でも今の家からより通学時間は短いし、こっちなら自分の部屋も広く使える。ちゃんと考えて決めたんだ」

「また一人で決めただけじゃん」

健司は返事をのみ込み、車へ載せる鞄を持ち上げた。鉄が二人の間を落ち着かなく行き来していたが、今は話をこじらせたくなかった。荷物を駐車スペースへ運んだところで携帯電話が鳴り、健司は画面を確かめながら玄関へ戻った。

「勝手に決めてない。お母さんにも説明してるし、裁判所にも必要な手順を――」

「私には説明しただけで、聞いてない」

扉は閉めたつもりだった。だがラッチがかかりきらず、細い隙間が残っていた。言い返す言葉と鳴り続ける携帯に気を取られた健司が車へ向き直った直後、鉄は鼻先で扉を押し、道路へ走り出した。

「あっ、鉄!」

栞の声に振り返ったときには、赤い首輪が角の向こうへ消えていた。

午前十時四十分から、二人は住宅街を手分けして捜した。健司は近所へ連絡を入れ、地図を画面に出して、公園から商店街までをいくつかの区域に分けた。栞には東側を回るよう言い、自分は大通りへ向かった。

「鉄! 鉄、出てこい!」

いつもの公園にも、動物病院の前にも姿はなかった。健司は曲がり角ごとに立ち止まり、車道へ赤い首輪が飛び出してこないか目を凝らした。閉めたはずだ、という考えが浮かぶたび、最後まで扉を押して確かめなかった手の感触がよみがえった。

十一時過ぎ、栞から、見つからないと短い連絡が来た。彼女は指示した道ではなく、鉄がよく匂いを嗅いだ電柱や、以前猫を追いかけた空き地をたどっていた。

十一時二十分、二人は商店街の外れにあるコンビニ前で落ち合った。栞は息を切らし、制服のスカートに枯れ草をつけていた。

「東側を回れって言っただろ。勝手に範囲を変えたら、捜してない場所が――」

言い終える前に、仕事用の携帯が鳴った。画面には上司の佐伯の名が出ていた。健司は一瞬迷い、通話を押した。

「はい、水野です」

佐伯は取引先へ送る資料の数字を確認してほしいと言った。健司は栞に手のひらを向け、少し待つよう示して背を向けた。

「すみません、今、外なんですが。はい、すぐ済みます」

栞は交差点の向こうへ歩き出した。健司が通話口を押さえ、呼び止めると、栞は振り返った。

「一人で行くな。危ないだろ」

「じゃあ電話切ってよ」

「仕事なんだ。これだけ確認したら――」

「鉄がいなくなっても仕事が先なんだ」

栞の声は大きくなかった。それでも車の途切れた交差点に、はっきり残った。

「前もそうだった。引っ越すことも、お母さんの仕事も、私の学校も、全部あとから聞かされた。決めたから来いって。今だって同じ。私たちのこと、いつも後回しじゃん」

健司は、家族のために転勤を受けたのだと言いかけた。収入も将来も考えた、と続けるはずだった。けれど目の前には、閉まりきらない扉と、誰も頼んでいない予定表と、姿の見えない鉄があった。

「佐伯さん、申し訳ありません。犬が逃げて、娘と捜しています。今日は確認できません」

電話の向こうで佐伯が何か言ったが、健司はもう一度謝り、通話を切った。仕事用の携帯を鞄の奥へ入れると、急に周囲の音が戻ってきた。

そのとき、鉄が雷の夜に逃げかけたことを思い出した。口論の声に怯えたときも、鉄は決まって昔の散歩道を逆にたどった。家族三人でバスを待った、川沿いの古い停留所。その錆びたベンチの下で丸くなっていたことがある。

「バス停かもしれない」

「昔の?」

「不安になると、鉄はあっちへ行く。俺、忘れてた」

二人は商店街を抜け、午前十一時半の川沿いを走った。健司が先を急ぎかけると、栞が植え込みの前でしゃがみ込んだ。乾いた土に犬の足跡があり、枝には赤い首輪から抜けたらしい短い毛が絡んでいた。

「こっちに行ってる」

今度は健司も栞の見たものを確かめ、同じ道を走った。予定表も捜索範囲もなく、二人の足音だけが川沿いに重なった。

午前十一時四十五分、廃止された路線の標識が見えた。色の薄れた時刻表の下、錆びたベンチの陰に、茶色い背中がうずくまっていた。

「鉄」

健司は駆け寄りそうになったが、足を止めてしゃがんだ。栞も少し離れた場所で腰を落とした。

「鉄。大丈夫だよ。おいで」

栞が静かに呼ぶと、鉄は耳を伏せたまま顔を上げた。やがてベンチの下から這い出し、健司と栞の間まで来て、濡れた鼻を栞の手に押しつけた。

健司は鞄に入れていた予備のリードを首輪につないだ。金具を二度確かめてから、鉄の背に手を置いた。

「扉をちゃんと確かめなかった。俺のせいだ。ごめん」

栞は鉄を撫でたまま何も言わなかった。健司は、今までならここで、でも急いでいたから、と続けただろうと思った。

「転勤のときも同じだった。家族のためだと思って、相談しないで決めた。説明すれば分かってもらえると思ってた。でも説明は、相談じゃなかった」

喉の奥が乾いた。錆びたベンチに、三人で座った記憶があった。バスが遅れ、真紀が文句を言い、幼い栞が鉄の前足を握っていた。あの形へ戻る方法を、健司は手続きの中に探していた。

「お母さんと元に戻れるかも分からない。栞とまた一緒に暮らせるって約束もできない。それなのに、できるみたいな顔をしてた。ちゃんとした父親に見せて、署名をもらえば、失敗を取り返せると思ってた」

栞がようやく顔を上げた。

「申立ては取り下げる。転校の話もやめる。あの紙に署名しなくていい」

「本当に?」

「月曜に手続きする」

健司は一度息を吸った。大きな約束を口にすれば、また同じことになる気がした。

「その代わりって言い方は変だけど、毎週一回、鉄と散歩しないか。来られる週だけでいい。俺は一回ずつ、ちゃんと来る」

栞はすぐには答えなかった。鉄の首輪に指をかけ、赤い革についた土を払った。

「次の日曜の十時なら」

それは将来の返事ではなかった。それでも健司は「分かった」とだけ答えた。帰り道、鉄を間に挟み、二人は走らずに旧居まで歩いた。

翌週月曜日の午前九時、健司は出勤予定を変更して家庭裁判所の受付へ行った。同居再開と転校を前提に用意した書類は、何度も書き直した跡で角が柔らかくなっていた。

取下書を差し出すと、準備に費やした時間や、ここまで進めた手続きを手放すのだという実感が遅れて湧いた。それでも書類を引き戻さず、受付印の押された控えを受け取った。

建物を出てから、栞へ写真を添えて送った。

「取り下げた。日曜十時にバス停へ行く」

長い説明は書かなかった。しばらくして届いた返事も、「わかった」の四文字だけだった。

次の日曜日、健司は鉄を連れ、約束の十分前に古いバス停へ着いた。仕事用の携帯は電源を切らず、鞄の奥へしまった。連絡が来ても、散歩が終わるまでは見ないと決めた。

十時ちょうど、現在の路線のバスが道の反対側に停まり、栞が降りてきた。横断歩道を渡った栞は挨拶より先に手を出し、健司から受付印のある控えを受け取った。

栞は日付と印を確かめ、紙を折らずに鞄へ入れた。同居のことも、次の面会のことも尋ねなかった。健司も先回りして言葉を足さなかった。

鉄が待ちきれずに歩き出し、リードが張った。栞が途中を持つと、健司は持ち手の輪を握ったまま、少し力を緩めた。

「今日は川まで」

「うん。川まで」

二人は鉄の歩幅に合わせ、古いバス停を離れた。来週のことはまだ決まっていない。同じ家へ戻る見通しもなかった。それでも栞は今日一度分の時間を預け、健司はその一度を急がず歩いた。

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