朝六時の境界線

内定通知の画面を見せると、恵理子は鍋の火を弱め、老眼鏡を押し上げた。台所の時計は夜の八時を回っていた。食卓の下では、柴犬のハルが前足に顎を載せている。

「正社員になったら、前に話した部屋に移りたい。通勤も二十分になるし、家賃も払えるから」

紗季は、褒めてもらうより先に一人暮らしを切り出した。そうしなければ、また言えなくなると思った。

「あの部屋なら、もう断ったわよ」

恵理子は味噌汁の味を確かめるような口調で言った。紗季が返事を保留していた仲介担当へ、自分から辞退を伝えたのだという。

「どうして勝手に」

そこまで言って、紗季は口を閉じた。母の眉間に皺が寄るのを見ると、自分の言葉のほうが間違っている気がしてくる。

「家事もお金の管理も、ろくに続いたことがないでしょう。ハルのごはんだって、言わなきゃ忘れるのに。一人で暮らせるわけがないわ」

恵理子が器を並べる音に、ハルが顔を上げた。紗季は内定通知の画面を伏せた。正社員になれるという事実まで、急に母の許可が必要なものに思えた。

「じゃあ、明日からハルのことは私がやる。朝の散歩も、ごはんも、病院も。全部、記録する」

「一日や二日で、できるなんて言わないでよ」

「続ける。私がやる」

反論ではなく約束になってしまったことが悔しかった。それでも紗季は、食卓の端にあった小さなノートを自分の側へ引き寄せた。

翌朝六時、住宅街にはまだ夜の冷たさが残っていた。紗季は眠気で重い瞼をこすりながら、餌の量と飲水量、排泄の時刻をノートに記してから、ハルのリードを握った。

ハルはいつもの角を曲がり、紗季が借りるつもりだった建物の前で立ち止まった。低い植え込みの向こうに、二階の空室の窓が見える。リードを軽く引いても、ハルは前足を揃えて座り込んだ。

「もう、そこには住まないんだよ」

ハルは耳だけを動かした。紗季は窓を見上げ、自分がそう決めたわけではないと思ったが、声にはしなかった。

出勤時刻が迫っていた。紗季は無理に引きずらず、一本先の道まで回ってハルを歩かせた。帰宅すると足を拭き、器を洗い、散歩の所要時間までノートに書いた。母に起こされず、決めたことを終えた朝は、それだけで少し明るく見えた。

それから三週間、紗季は毎朝六時に起きた。散歩の距離、食事、飲水量、排泄の状態を記録し、前夜のうちに必要なものを玄関へ揃えた。寝坊した日には散歩の経路を短くし、そのぶん夜に歩く時間を増やした。

残業予定の日は、出勤前に夕方の世話を恵理子へ頼んだ。ただ頼むのではなく、代わりに週末の朝夕を引き受けると伝えた。母の手を一度も借りないことより、借りる時間と返す時間を先に決めるほうが、生活は崩れにくかった。

通院日には紗季がハルを動物病院へ連れていった。診察内容、薬の回数、次回予約、費用を一覧にし、薬を忘れた日には、食器の横へケースを置くと書き足した。

できなかったことを隠さず、原因と次の手順に変える。その繰り返しによって、生活は強い意志で支えるものではなく、小さな段取りで倒れないようにするものだと紗季は知った。

三週間後の日曜日、紗季は居間で物件情報を見ながら、新しい部屋の内見へ行くと伝えた。恵理子は洗濯物を畳む手を止めた。

「自分だけ出ていくの。これだけ世話をしておいて、ハルは置いていくわけ?」

紗季は返事を探した。以前は世話ができないから駄目だと言われ、続ければ今度は置いていくのが薄情だと言われる。何を満たせば認められるのか、もう分からなかった。

黙ったままハルを散歩へ連れ出すと、ハルはまた旧物件の前で座った。朝の光が空室の窓に薄く反射し、紗季の足元へ四角く落ちていた。

惜しいのは、この部屋ではなかった。もっと駅に近い部屋も、安い部屋も探せる。それでもここを見るたび苦しくなるのは、母がいつか正しい答えを出し、ここから動いていいと言ってくれるのを待っていたからだ。

ハルは動かず、紗季の顔を見上げた。許可を待って座り込んでいたのは、自分も同じだった。

「一緒に暮らす方法、ちゃんと調べようか」

紗季が歩き出すと、ハルもようやく腰を上げた。

散歩から戻った直後、紗季は門を閉め切る前にハルのリードを外した。気づいたことを早く言葉にしたくて、安全を確かめる手順が抜けた。

「お母さん。私、ハルも連れて出たい」

玄関から出てきた恵理子の顔が固くなった。

「ハルは私の犬よ。登録だって私の名前でしょう。思いつきで連れていかせるわけにはいかない」

「思いつきじゃない。三週間、私がやってきた」

「三週間で何が分かるの。仕事が忙しくなったら、結局こっちへ押しつけるくせに」

「最初からできないって決めて、部屋まで断ったのはお母さんでしょう」

恵理子が何か言い返したとき、乾いた爪音が門の外へ遠ざかった。開いた隙間から、ハルが住宅街へ飛び出していた。

紗季は名前を呼びながら追った。ハルは角を曲がり、車道へ続く道の手前で一度振り返った。紗季は走る足を緩め、いつもの呼び戻しの声を出した。

「ハル、こっち」

ハルが迷うように耳を伏せ、それから紗季のもとへ戻った。紗季は首輪をつかみ、震える指でリードを留めた。車の音が一本先の道を通り過ぎていった。

家へ戻ると、恵理子は青ざめた顔で門の前に立っていた。紗季はハルを家の中へ入れ、門扉を最後まで閉めた。

「ごめん。門を確認する前にリードを外した。言い争いになったからじゃない。私の不注意だった」

恵理子は答えなかった。紗季も、母を責める言葉で自分の失敗を薄めなかった。望むだけでは命を連れていけないという事実が、手のひらに残る首輪の感触より重かった。

その夜から、紗季はペット可の物件を調べ直した。家賃と初期費用だけでなく、餌代、医療費、保険料を月ごとに分け、朝夕の散歩時間を勤務予定へ書き込んだ。残業時の代行サービスと緊急時の預け先も調べ、連絡先を添えた。

門の件については、出入りの際にリードを外さないこと、扉の施錠を指差し確認することを書いた。貯金から初期費用を引くと、残る額は心細かった。それでも数字を都合よく直さず、足りない余裕もそのまま一覧にした。

一週間後、紗季は食卓へ計画書を置いた。恵理子は何度もページをめくり、ハルの費用欄で長く手を止めた。

「通勤に便利な安い部屋は、ペット不可だった。こっちは家賃が高いけど、ハルと住める。私の名義で借りる。世話も費用も私が持つ」

「困ったときだけ戻されても困るわよ」

「困ったときに助けを頼むことはあると思う。でも、頼んだ分をお母さんの責任にはしない。代行を使う費用も、病院へ行く判断も、私が引き受ける」

恵理子は完全には納得していない顔をしていた。やがて、割高な部屋を紗季自身の名義で借りること、ハルの全費用を負担すること、登録を移すことを条件に、書類を渡すと言った。

紗季は旧物件を諦め、保証会社を利用して新居を契約した。契約金が口座から引かれると、数字は予想していたより大きく減った。けれどそれは母に奪われた損ではなく、自分で選んだ条件の代金だった。

契約から数週間後、引っ越しの朝が来た。荷物を積み終えた玄関に、恵理子がハルの診察記録と登録変更の書類を置いた。見送りの言葉はなく、口元は固く結ばれていた。

紗季は反射的に謝りそうになった。母の機嫌を直せば、正しい出発として認めてもらえる気がした。しかし紗季はその言葉をのみ込み、自分の鍵、契約書、費用表を順に確かめた。

「書類、ありがとう。ハルのことは連絡する」

恵理子は小さく頷いただけだった。不機嫌なのは母の感情であり、紗季が代わりに片づける仕事ではない。その一方で、これからハルが病気になれば、判断するのも支払うのも紗季だった。

午前六時、紗季はハルのリードを持って玄関を出た。背後で扉が閉まり、朝の光が道の端を白く照らしていた。

旧物件へ向かう角で、ハルが一瞬だけ鼻先をそちらへ向けた。紗季は引っ張らず、家賃の高い新居へ続く道を選んだ。

「こっちだよ、ハル」

ハルは紗季を見上げ、それから同じ方向へ歩き出した。紗季はその歩調に合わせ、自分で引き直した境界の向こうへ進んだ。

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