十月上旬の午前、三枝真帆は商店街事務所の机に観光助成金の申請書を広げていた。締め切りまで十日。空き店舗の増えた商店街に、目に見える実績を作るには、採択されるだけの規模と話題性が必要だった。
企画名は「朝顔の種交換会・秋の復刻祭」。目標来場者数三千人、映像配信の視聴回数一万回、限定品種の配布五百袋。真帆は数字を入力しながら、色とりどりの封筒から種を選んだ幼い日の記憶を、「世代を超えて楽しめる体験型観光資源」と書き換えた。
だが、審査の目玉となるものが足りなかった。この町で受け継がれてきた古い朝顔の種である。それを保管しているのは、商店街の端で種苗店を営む松岡だった。
同日の午後、真帆は松岡種苗店の古い木のカウンターに会場図と宣伝案を並べた。限定配布の列を店先まで延ばし、希少品種の由来を大型パネルで紹介する予定だと説明した。
「古い品種を出していただければ、町外からも人を呼べます。種の袋には店名も入れられますし、配布数もきちんと報告します」
松岡は会場図を一度見ただけで、種の棚へ目を戻した。店先では柴犬のゴンが伏せていたが、ときどき戸口の外を気にして耳を動かしていた。
「昔の交換会は、珍しい種を見せるためのものじゃない。育てた人が、次の人へ返す場所だった」
真帆は来場者の見込みや広告効果を重ねた。しかし説明するほど、松岡の顔は固くなった。
「見世物にするなら種は出さない」
古い品種がなければ申請は通らない。真帆は資料を畳みながら、条件を修正してでも説得を続けるしかないと考えた。
三日後の夕方、真帆は配布方法を改めた企画書を持って、再び種苗店を訪れた。ところが松岡は、届くはずの園芸用土を待っていて店を離れられないという。
「話ならあとで聞く。その代わり、ゴンを散歩に連れていってくれ」
「どの道を回ればいいんですか」
松岡はゴンの綱を差し出した。
「こいつが知っている」
ゴンは店を出ると、観光客の歩くアーケードではなく、裏手の細い住宅路へ真帆を引いた。乾いた秋の光が軒先を斜めに照らし、植木鉢の土には枯れた朝顔の蔓が残っていた。
しばらく歩いたところで、ゴンは古い門の前に座った。真帆が綱を引いても動かない。やがて引き戸が開き、年配の女性が新聞広告で折った小さな封筒を持って出てきた。
「今日は松岡さんじゃないのね。これ、お願いできる?」
封筒には丸い字で「今年もよく咲きました。角の家へ半分」と書かれていた。中で硬い種が、かすかな音を立てた。
次の家でもゴンは座った。今度は便箋を折った封筒が渡され、「白に青い筋。去年いただいたもの」と記されていた。その次の家では、子どもが「向かいのおばあちゃんへ」と書いた袋をゴンの首につけた布鞄へ入れた。
「松岡さんに預ければ、欲しい家へ回してくれるのよ」
住民たちは特別な催しについて話すような口ぶりではなかった。今年採れた種を包み、短い言葉を添え、いつもの夕方に託す。それは回覧板や挨拶と同じほど、暮らしの中に馴染んでいた。
日が暮れるころ店へ戻ると、松岡は封筒を宛先ごとの木箱に分けた。ゴンは仕事を終えたように水を飲み、戸口へ丸くなった。
「交換会は、途絶えてなかったんですね」
「会と呼ばなくなっただけだ」
真帆は並んだ封筒を見つめた。古い品種だけではない。この習慣そのものを映せば、ほかの町にはない物語になる。申請書の独自性を示す材料として、これ以上のものはないように思えた。
翌日の夕方、真帆は撮影協力者を連れて住宅路へ入った。審査に間に合わせるには、その日しかなかった。ゴンが門前に座り、住民の手から封筒を受け取る場面を、同じように再現してもらうつもりだった。
最初の家の女性は、向けられたカメラを見ると封筒を胸元へ引いた。
「顔は映しません。手元だけでも十分です。町に残る温かい交流として紹介したくて」
「渡す相手がいるから置いているの。知らない人に見せるためじゃないわ」
別の家でも戸は開かなかった。子どもを連れた住民は、ゴンの鞄へ入れかけた封筒を持ち帰った。真帆が趣旨を説明するほど、住宅路からいつもの気安さが消えていった。
店へ戻ると、松岡は撮影者より先に真帆を見た。
「預かったのは種だけじゃない。誰に渡すかという信頼もだ。それを勝手に企画の材料にしたな」
「この習慣を残すためにも、まず知ってもらわないと」
「残す相手は、審査員じゃない」
松岡は木箱の蓋を閉めた。古い品種も、住民から預かった種も、一切提供しないと告げた。映像も目玉の種も失い、真帆の企画は申請の形すら保てなくなった。
申請期限前夜、閉店後のアーケードには、シャッターの隙間を抜ける風の音だけがあった。真帆は事務所を出て、ベンチで申請書を開いた。
来場者数、配布数、視聴回数、経済効果。数字の欄は埋まっているのに、幼い自分が誰から種を受け取ったのか、翌年その種を誰へ返したのかは、どこにも書かれていなかった。
真帆は、交換会の日に並んだ飾りや人混みを思い出そうとした。だが先に浮かんだのは、近所の女性が掌へ落としてくれた三粒の種と、翌年咲いた花を報告しに行ったときの笑顔だった。懐かしかったのは、同じ景色ではなく、花が咲くまで誰かと待った時間だった。
足音がして、散歩中のゴンが現れた。松岡の手から綱を少し伸ばし、ゴンは空き店舗の前に残された古い陳列棚で立ち止まった。松岡は何も言わず、ゴンが動き出すのを待っていた。
棚には商品も値札もなく、薄く埃が積もっていた。真帆は申請書を閉じた。思い出を復刻するのではなく、住民が自分の意思で次の誰かへ渡せる場所だけを整えればいい。そう考えると、埋め尽くした数字が急に遠く見えた。
翌朝、真帆は完成寸前の申請を取り下げた。得られるはずだった予算も、企画担当としての評価も消えた。それでも送信しなかった申請書を閉じたとき、胸の奥に残ったのは後悔より静けさだった。
真帆は空き店舗前の陳列棚を拭き、傷んだ板を整えた。白い札に「朝顔の種 置く人も、持ち帰る人も、ご自由に」とだけ書いた。催事名も主催者名も、目標数も付けなかった。
松岡と住民たちには、撮影しようとしたことを一軒ずつ謝った。古い品種の提供は求めず、棚を使うかどうかもそれぞれに任せた。
その日の夕方、ゴンを連れた松岡が棚の前に立った。松岡は何も言わず、紙の封筒を一通置いた。表には「来年、咲いたらまた少し」とだけ記されていた。
少し遅れて、住宅路の女性が新聞広告の封筒を置いた。子どもも一袋を並べ、別の住民は棚の端から一袋を持ち帰った。真帆は数を記録せず、風に飛ばされそうな封筒の向きを直した。
翌年の春、空き店舗前の棚には、秋に持ち帰られた種から咲いた朝顔の写真が少しずつ挟まれるようになった。写真の裏には「次は種を返します」「隣町の孫へ渡しました」と、短い返事があった。
真帆は来訪者数の集計表を作らず、減った空の封筒を補充した。誰が何袋置き、誰が持ち帰ったのかを知らない日もあったが、それでよかった。
ゴンが棚の前に座ると、通りかかった子どもが一袋を選んだ。入れ違いに住民が新しい種を置き、その封筒を子どもがいた場所へそっと寄せた。
季節の思い出は、同じ景色を再現して保存するものではない。誰かの手から次の誰かへ渡るたび、花の色も、添えられる言葉も変わりながら残っていく。真帆は棚の封筒を整え、ゴンがまた歩き出すのを見送った。
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