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午前九時、相沢真琴は閉ざされていた佐伯洋装店のシャッターを開け、搬出業者に作業表を配った。什器、残置物、清掃、鍵の返却までを午後五時に終える。それが今日の仕事であり、真琴にとっては、それ以外の事情は作業表の外にあるはずだった。
店内には、制服姿の高校生と一匹の柴犬がいた。犬は帳場の前に伏せ、入ってきた人間を警戒するように耳を立てている。
「悠斗です。店が閉まってからも、毎日ハチの餌と散歩に来てました」
悠斗が首輪を押さえると、ハチは抵抗せずに立ち上がった。真琴は端末の記録を確認し、犬の項目がないことを確かめた。
「犬は搬出の対象外です。相続人に連絡しますが、ここには残せません」
事情ではなく、担当範囲を伝えたつもりだった。悠斗は黙ってハチの背を撫で、ハチは店の奥へ顔を向けた。
午前九時半、真琴は帳場から故店主の娘、佐伯奈緒に電話をかけた。奈緒はハチを引き取る意思を示したが、遠方での事情が片づくのは三週間後になるという。
「必ず迎えに行きます。でも、それまではどうしても動けなくて」
「今日の午後五時で、店は明け渡しです。一時的な預け先に心当たりはありませんか」
奈緒にはなかった。悠斗も、自宅では犬を飼えないと小さく首を振った。
真琴は緊急連絡先を探して帳場の引き出しを調べた。店主の手帳には、向かいのパン店主である森下が散歩を手伝っていることと、「もしもの時、三週間ほど預かり相談」と書かれていた。しかし、その後には返事も合意も記されていない。
ガラス戸越しに向かいのパン店が見えたが、真琴は手帳を閉じた。約束のない相手との交渉は、時間も責任も増やす。まず搬出を進めることにし、業者へ作業開始を告げた。
午前十時半、作業場から棚や裁断台が運び出されていった。ところがハチは、壁際の古い棚の前から動こうとせず、扉を前脚で何度も掻いた。
「ハチ、邪魔になるから」
悠斗がリードを引いても、ハチは踏ん張った。真琴は作業を止められるより早いと考え、棚の扉に手をかけた。
中には包装紙に包まれた服が四点、きちんと重ねられていた。ジャケット、スカート、コート、それにもう一着のジャケットで、それぞれに顧客名と電話番号、返却予定日を書いた票が留められている。縫い目を確かめると、裾上げも袖詰めも終わっていた。
ただの売れ残りではなく、預かった品だった。ハチは鼻先を棚の内側へ寄せ、それからようやく真琴を見上げた。
午前十一時、真琴は四点を店先へ運び、上司の高橋に電話した。報告を聞き終える前から、高橋の声には苛立ちが混じっていた。
「契約上は残置物だ。写真を撮って、ほかと一緒に処分しろ。そこで作業を止めるな」
「顧客名と連絡先があります。店主が預かった服です」
「うちが受けた仕事じゃない。期限を超えれば倉庫代も延長費用も出る。責任を持てない物に触るな」
通話が切れると、真琴は服を廃棄用の箱へ入れようとした。悠斗が、その手元を見ながら言った。
「おじさん、入院する前の日も、あれを返さないとって言ってました。僕には何のことかわからなかったけど」
顧客票の返却予定日は、どれも店主が入院した頃で止まっていた。日付は過ぎていても、約束そのものがなくなったわけではない。真琴は箱から服を戻し、四枚の票を返却予定日の順に並べた。
午前十一時半、真琴は搬出業者に一部の作業を止めてもらった。顧客票の番号へ上から一件ずつ電話をかけると、驚きや戸惑いのあとに、三人は午後五時までに受け取りに来ると答えた。
最後の一人だけは、仕事を抜けられなかった。店に着けるのは、早くても午後五時半だという。
「それまで待ちます。店の前に着いたら電話してください」
言ってから、真琴は自分が期限を越える約束をしたことに気づいた。だが、訂正はしなかった。
午後二時、高橋から再び電話が入った。廃棄便に間に合わなければ、残った什器を一時倉庫へ入れる費用と、業者の延長費用が発生すると告げられた。
「会社では負担しないぞ。相沢、お前の判断だな」
真琴は服を返却順に並べ直した。数字にすればためらう額だったが、数字にしなければ消えてしまうものが、目の前に四つある。
「はい。私の判断です。追加分は私が負担します」
電話を終えると、真琴は手帳を持ち、道路を渡った。ハチの問題だけは、服を返しても残る。午後二時半、焼き上がったパンの匂いがする店内で、森下は事情を聞き、困ったように眉を寄せた。
「散歩は何度か代わったよ。でも、預かるって決めたわけじゃない。うちは奥に母がいてね。介護だけでも時間が読めないんだ」
森下の住居部分は売り場と分かれていたが、犬を迎えれば餌も散歩も必要になる。真琴は曖昧な善意に頼むのではなく、三週間の負担を一つずつ分けることにした。
「期限は三週間です。餌代と、必要になった場合の通院費は私が負担します。朝夕の散歩は悠斗君が手伝えます。娘さんから、引取日と費用の扱いについて書面をもらいます」
呼ばれた悠斗は、登校前と下校後なら必ず来られると答えた。真琴はその場で奈緒に電話し、三週間後の引取日と、一時保護に同意する旨をメールで送ってもらった。
午後三時半を過ぎる頃、真琴は店の帳場で簡単な確認書を作った。預かり期間、散歩の担当、餌と通院時の連絡先、奈緒が迎えに来る日を記し、森下と悠斗に一項目ずつ読み上げた。
「三週間だけなら、奥で預かるよ。売り場には出さない。それでいいなら」
森下が署名すると、悠斗の肩から力が抜けた。真琴は確認書を三部に分け、奈緒にも写しを送った。手帳に残っていた相談は、そのとき初めて、誰が何を引き受けるかの決まった約束になった。
午後四時から、顧客が順に店を訪れた。スカートを受け取った人は縫い目を指でなぞり、コートの持ち主は包装を抱えたまま、閉店した店内を見回した。
「佐伯さん、ちゃんと仕上げてくださってたのね」
真琴は店主に代わってうなずくことしかできなかった。空になった包装紙を畳みながら、業者へ延長と残る什器の一時保管を正式に依頼した。
午後五時、店内には最後のジャケットだけが残った。高橋から追加費用の額が伝えられ、真琴は端末に表示された数字を確認した。これまでなら、その数字だけで判断を撤回していた。
午後五時半を過ぎ、最後の顧客が息を切らして駆け込んできた。真琴が丈を直したジャケットを渡すと、その人は袖口と裾を確かめ、胸の前に抱いた。
「これ、父の形見なんです。佐伯さんに、もう一度着られるようにしてもらって。お礼を言えないままになってしまった」
真琴は、店主が入院前まで返却を気にしていたことを伝えた。顧客はしばらく黙り、それから空の作業場へ深く頭を下げた。午後五時四十分、四件目の受け渡しが終わった。
午後六時過ぎ、最後の什器が運び出され、佐伯洋装店は空になった。壁際に残っていた糸くずまで掃き終えると、悠斗は使い慣れたリードと、餌の量を書いた紙を森下へ渡した。
ハチは森下に引かれて道路を渡りかけ、一度だけ足を止めた。灯りの消えた店を振り返り、それから悠斗に背を押されるように、パン店の奥へ入っていった。
真琴の端末には、倉庫代と遅延費用の明細が届いていた。それは予定を守れなかった証拠であり、数字だけを見れば失敗だった。それでも真琴は初めて、その損失を無駄だと思わなかった。
服は持ち主へ戻り、ハチは三週間を過ごす場所へ移った。別れの後始末とは、残された物を早く捨てることではなく、途中で止まった約束を次の人へ手渡すことなのだと、真琴は思った。
店を施錠すると、暗いガラスに向かいのパン店が映った。奥の戸口で森下がハチの水入れを置き、悠斗がその横にしゃがんでいる。真琴は鍵を握り直し、結び直された小さな輪をしばらく見つめてから、空になった店を離れた。
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