犬のいる仮住まい

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六月上旬の夜、野崎健司は六畳の個室で、翻訳原稿と家計表を同じ画面に並べていた。家賃、養育費、食費を引いた残りを「保証金」「引っ越し」と書いた欄へ振り分ける。あと八か月。この調子なら、娘を月に一度泊められる部屋に手が届くはずだった。

画面の隅で芽衣の顔が動いた。

「お父さんの家、次はいつ泊まれる?」

「もう少し広いところに移ってからな。夏か、秋か、そのへん」

「前もそのへんって言ってた」

健司が笑ってごまかすと、通話の向こうで元妻の綾子が芽衣を寝かせた。その直後、綾子から電話がかかってきた。

「急で悪いんだけど、三週間の出張が決まったの。モモ、預かれない?」

共用台所では、早番に備える津田莉奈が弁当箱を洗い、夜勤前の宮内悟がインスタントコーヒーを作っていた。二人の頭上には、管理会社の規約が貼られている。禁煙、深夜の騒音禁止、ペット飼育禁止。最後の一行だけが太字に見えた。

「お父さんなら安心だって、芽衣も言ってる」

拒めば、娘に頼られる機会まで失う気がした。

「大丈夫。三週間だろ」

二日後の夕方、綾子と芽衣は、白いマルチーズと犬用品一式を連れてきた。モモは玄関で健司の靴に鼻を押しつけ、旅行鞄に入れられた餌袋は、動くたびに景気よく音を立てた。

「本当に平気?」と綾子が廊下を見た。

「同居人には話してある」

嘘は、口にすると驚くほど短かった。健司は犬用品を鞄ごと裏口から運び、同居人の勤務時間を書いたメモを机の横に貼った。

芽衣はモモを抱きしめてから、健司を見上げた。

「お母さんが帰ったら、今度は私がお父さんの家に泊まりたい」

「準備しとくよ」

夕方の散歩は、津田が帰る前、宮内が夜勤へ出た後に合わせた。路地の旧理髪店前で、植木に水をやっていた小田切修という老人と何度か挨拶を交わした。モモが店先を嗅ぎ回るたび、小田切は「白いのは汚れが目立って大変だ」と笑った。

預かり四日目の昼、健司は共用台所でオンライン会議に出た。部屋に残されたモモは、初めこそ静かだったが、やがて扉を引っかき、甲高く鳴き始めた。

健司が会議を切り上げて廊下へ戻ると、寝起きの宮内と、忘れ物を取りに戻った津田が、開いた扉の前に立っていた。モモは健司を見つけ、褒められる仕事を終えたように尻尾を振った。

「ペット禁止ですよね」と津田が言った。

「飼ってるわけじゃない。一時的な来客みたいなものだから。すぐ帰るし、管理人にも確認してある」

「確認した内容、見せてもらえますか」

宮内は扉の下部を指した。塗装が剥げ、細い傷が何本も走っている。

「これ、誰が直すんです。昼は寝てるんで、鳴かれるのも困ります」

「今、仕事中なんです。夜に話しますから」

健司はモモを部屋へ押し込み、扉を閉めた。夜になっても、自分から話を切り出すことはできなかった。

預かり七日目の夜、共用台所のテーブルに管理会社からの封筒が置かれた。騒音と犬の目撃情報を受けて確認した結果、規約違反と扉の損傷が認められたという。健司には三週間後を期限とする退去通告が出され、原状回復費は後日請求するとあった。

「誰が報告したんですか」

健司が尋ねると、津田の眉が上がった。

「問題はそこですか」

「私じゃない」と宮内が先に言った。「でも、津田さんが連絡したって責める気なら違うでしょう」

「宮内さんこそ、昼に眠れないって言ってましたよね」

互いを見る二人の間に、健司の嘘が置かれていた。それでも健司は、それを自分で引き取れなかった。

「三週間だけなのに、いきなり退去までさせなくても」

津田は封筒を押し戻した。

「三週間かどうかも、私たちは本当か分からないんです」

翌朝、寝不足の健司はモモを連れて旧理髪店の前を通った。小田切が二階から古いカーテンを運び出しており、モモは旧店舗の玄関マットで腰を落としかけた。

「待て、そこは駄目だ」

慌てて抱き上げる健司を見て、小田切は新聞紙を差し出した。

「犬連れで入れる部屋でも探してるのか」

健司は、少しだけ事情を整えて話そうとした。しかし腕の中のモモが、見透かしたように鼻を鳴らした。

「ペット禁止だと知ってて預かりました。同居人にも、許可を取ったと嘘をついて。今月で退去です」

小田切は責めも慰めもせず、二階を見ていくかと顎を上げた。そこには個室が三つと、小さな共用台所があった。窓際の一室には、芽衣の折り畳み机を置けそうな空間もある。

「複数人で住むのは構わん。犬も出入りさせていい。ただし、足音対策の床を入れること。保証金は一人入居より上乗せ。清掃責任者も決めてもらう」

金額を聞き、健司は黙った。守ってきた貯金を使わなければ、条件を満たせない。

同日の午後から翌日にかけて、健司は二階の寸法を測った。防音床の簡易施工、追加保証金、三人分の家賃を表計算に入れる。貯金の大半は消えるが、家賃を三人で分ければ今と大差はなかった。

「私が代表契約者になります。犬が壊したものは、まず私が負担します。清掃の記録も私がまとめる」

一階の店舗跡で、健司は印刷した案を小田切へ差し出した。理髪椅子のなくなった床には、四角い跡だけが残っていた。

小田切は紙を読み、赤いペンで三つ書き加えた。

「同居人全員の署名。負担表。緊急連絡先。これがそろえば、簡易施工の後に貸す。ただし、代表というのは偉い人じゃない。最初に連絡が来る人だ」

「分かっています」

答えた瞬間、健司は自分がまだ分かっていない可能性まで含めて、引き受けるしかないと思った。

預かり十日目の夜、健司は共用台所に津田と宮内を呼んだ。モモは足元のキャリーケースに入れ、扉を開けたままにした。

「ペット禁止なのは最初から知っていました。管理人に確認したというのも嘘です。報告した人を探したのも間違っていました。すみません」

二人はすぐには答えなかった。健司は旧理髪店二階の間取りと、家賃配分、掃除当番、修繕積立を記した契約案をテーブルに広げた。

「ここを出た後、一緒に移る案です。犬の損害は私が一次負担します。ただ、移るかどうかは二人で決めてください。断っても当然だと思っています」

津田は紙を一枚ずつめくった。

「支出記録を全員で見られるようにしてください。月一回、会議も入れたいです。代表者だけが金額を知る形は嫌です」

「入れます」

宮内は間取り図の共用部を指で囲んだ。

「昼の静音時間を決めてほしい。それから、誰かが退去するときに払う費用には上限を。急に何万円も請求されたら無理です」

健司はその場で文面を直した。言い訳の代わりに数字を置き、曖昧な約束の代わりに署名欄を作った。

津田が先にペンを取った。

「条件が契約に入るなら、移ります。ここより職場に近いので」

宮内も続けて署名した。

「家賃が上がらないなら。犬は、昼に鳴かせないでください」

キャリーケースの中で、モモが小さくくしゃみをした。三人とも笑わなかったが、張り詰めていた空気が少しだけほどけた。

預かり三週間目、防音床の簡易施工が終わり、三人は旧理髪店の二階へ移った。健司は貯金から保証金と改修費を払い、小田切へ最初の清掃記録を提出した。小田切は床を靴下で踏み、「前よりは響かん」とだけ言った。

モモを返す日、健司は綾子に、規約違反から退去に至った事情も、新しい契約で自分が負う責任も隠さず話した。

「復縁とか、そういう話ではないから」と綾子は念を押した。「芽衣を泊めるなら、安全で、続けられる場所かどうかを見たい」

「分かってる。来月も、その次も予定を決める」

翌週末、芽衣が初めて泊まりに来た。芽衣は健司の個室を使い、健司は共用部に折り畳み布団を敷いた。

「ここ、お父さんの部屋じゃないの?」

「三人の家の中にある、俺の部屋。今日は芽衣に貸す」

「じゃあ、私の部屋ではないんだ」

「そう。でも、泊まるって決めた日は使える」

翌朝、津田は冷蔵庫に貼った掃除当番表へ印をつけ、夜勤から戻った宮内は「静音時間」と書かれた札を表に返して眠りに入った。健司は流しの犬用ボウルを洗って棚へしまい、清掃記録に日付を書いた。

芽衣が共用カレンダーを見上げた。

「次はいつ?」

健司は来月の週末を指し、予定を津田と宮内にも確認した。芽衣が赤いペンで大きな丸をつける。

追い出されないために黙っているのではなく、迎えるために話し、払うものを払う。健司は丸印の下に自分の名前を書いた。そこは誰か一人の家ではなかったが、隠し事をしないかぎり、娘をまた迎えられる場所だった。

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