夏の車を降りて

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八月上旬の早朝、小野寺修司はキャンピングカーの運転席で、目的地まで六百キロと表示された画面を確かめた。助手席には高校生の娘、真帆が座り、後部ではフレンチブルドッグのむぎが折り畳み式のキャリーに収まっている。真帆が志望する調理専門校の説明会へ向かうための出発だった。

修司は、入学金が貯蓄だけでは四十万円足りないと知っていた。それでも説明会への参加を認めたのは、納付額や寮費を目の当たりにすれば、真帆も進学を諦めるだろうと思っていたからだ。

「寮に入ったら、朝も自分で起きるからね」

高速道路へ入ったところで真帆が言った。修司は前を向いたまま笑い、「こっちは、むぎと男二人で気楽にやるさ」と返した。

笑い声は長く続かなかった。真帆は窓の外を見て、修司はハンドルを握り直した。若い頃から乗ってきた車を売れば不足分を補える可能性を、修司は誰よりよく分かっていたが、その選択肢には触れなかった。

正午を過ぎ、キャンピングカーが山道へ入ると、吹き出し口から出る風が急にぬるくなった。修司は冷房の設定を下げたが、車内には窓越しの日差しとエンジンの熱がこもっていく。

後部から、むぎの荒い呼吸が聞こえた。真帆が振り返ると、むぎは舌を大きく出し、胸をせわしなく上下させていた。

「お父さん、むぎがまずい。早く止まれるところ探して」

修司は窓を開け、最寄りの道の駅までの距離を確認した。熱風が車内を吹き抜ける間、真帆は保冷剤を濡れタオルで包み、むぎの首に当て続けた。

道の駅に着くと、修司は併設された整備工場へ車を滑り込ませた。冷房のある休憩所へむぎを運び込んでから、工場長が車を調べた。

「圧縮機が駄目ですね。部品の取り寄せに数日かかります」

工場長の言葉に、修司は駐車場の向こうで陽炎に揺れる車を見た。冷房なしでむぎを乗せて走る危険は、中古車販売員でなくても分かる。

「車と鍵を預かってください」

そう言った瞬間、修司は旅の途中で自分の家を置いていくような気がした。それでも真帆に抱かれたむぎの呼吸がまだ速いのを見て、鍵を工場長へ渡した。

午後、工場長が調べてくれた経路を休憩所のテーブルに広げた。路線バスで最寄り駅へ出て、ローカル線を乗り継ぎ、港から夜行フェリーに乗れば、翌朝には目的地へ着ける。

ただし、むぎのキャリーを交代で運ぶには、手荷物を一人一つに絞る必要があった。修司は車内から古いランタンや小型のキャンプ用品を持ち出し、床に並べた。

「その包丁ケース、重いだろ。車に置いていけばいい」

「説明会に持っていくって言ったよね。実習設備を見ながら、先生に聞きたいことがあるの」

真帆は包丁ケースを自分の鞄に固定した。修司はランタンを手にしたまま黙り、やがてキャンプ用品の大半を車へ戻した。最後に、過去の行き先や日付を書き込んだ古い旅の記録帳だけを鞄へ入れた。

路線バスとローカル線を乗り継ぐうち、日は傾いた。階段の多い駅では修司がむぎのキャリーを両腕で抱え、真帆が包丁ケースと二人分の着替えを運んだ。

港の待合室へ着いた頃には、二人とも汗で服が背中に張りついていた。むぎに水を飲ませたあと、修司は券売機の上に掲げられた時刻表を見ながら口を開いた。

「説明会を見たら満足するだろ。入学金だけで四十万足りないんだ。近場で探せばいい」

真帆はペットボトルの蓋を閉め、修司をまっすぐ見た。「あの車、売ればいいじゃない。年式と走行距離で相場を調べた。故障分を引いても、四十万円は作れるでしょ」

「古すぎて値段なんかつかない」

「中古車を売る仕事をしてる人が、そんな嘘つかないでよ」

真帆の声は低かった。「お父さんは車の思い出を守るために、私の進路を削ろうとしてる。お金がないんじゃなくて、売りたくないだけでしょ」

修司は反論できず、鞄の中の記録帳へ手を触れた。フェリーの乗船案内が流れても、二人は口をきかないまま、むぎのキャリーを挟んで立ち上がった。

夜行フェリーのペット同伴船室は、冷房がよく利いていた。むぎはようやく落ち着いた呼吸を取り戻すと、向かい合って座る父娘の間を離れ、冷たい床へ腹をつけた。

エンジンの低い振動の中、修司は記録帳を開いた。海辺や高原へ行った日付の脇には、幼い真帆の字や、離婚前の家族の名前が残っている。しかし今、車は遠い山の整備工場にあり、それでも三人の旅は先へ進んでいた。

「離婚してから、お前が飯を作って、洗濯もしてくれたな」

修司は記録帳から目を上げた。「俺は二人で暮らしてきたつもりだったけど、支えられてたのは俺のほうだ。四十万を用意できないんじゃない。車とお前を一度に失うのが怖くて、用意しなかった」

真帆はすぐには答えなかった。床に伏せたむぎの背を撫でてから、「寂しいって言うのはいいよ」と静かに言った。

「でも、お父さんが寂しいからって、私が選べるはずの道まで閉じないで」

修司は記録帳を閉じた。表紙を両手で挟み、「港に着いたら、車を査定に出す」と言った。真帆はうなずき、それ以上は何も言わなかった。

翌朝、目的地の港へ着くと、修司は勤務先と取引のある系列業者へ電話をかけた。続いて整備工場の工場長へ連絡し、車体の写真、走行距離、整備記録、冷房の故障診断を査定担当者へ送ってもらうよう頼んだ。

調理専門校へ向かう途中で、概算額の連絡が入った。冷房の故障分と陸送費を差し引いても、入学金の不足額を上回る見込みだった。

「帰りに工場へ寄ります。そこで現車確認と正式契約をお願いします」

電話を切った修司は、金額を真帆に見せた。真帆は画面を確かめ、「本当に売るんだね」と言った。

「ああ。今度は仕事の勘じゃなく、契約書を見せる」

専門校の説明会では、真帆が包丁ケースを開き、実習担当者に設備の使い方や授業内容を次々と質問した。修司はその横で、入学手続きの期限、納付額、寮費を資料に書き込み、自分から担当者へ確認した。

諦めさせる材料を探しに来たはずなのに、手元には送り出すための数字が並んでいた。真帆が実習台の前に立つ姿を見て、修司はようやく、その数字を娘の希望から差し引かずに済むのだと思った。

三日目の夕方、父娘とむぎはフェリーとローカル線を逆にたどり、道の駅の整備工場へ戻った。キャンピングカーは出発時と同じ姿で置かれていたが、修司にはもう、帰る場所ではなく売る車として見えた。

系列業者の査定担当者が車体を確認し、修司も下回りや車内を自分の目で確かめた。提示された正式な査定額から、冷房の診断・修理相当額と陸送費を差し引いても、手取りは不足していた四十万円を補えた。

修司は売買契約書へ署名した。車は後日、系列業者が陸送することになり、工場長へ預けていた鍵も査定担当者へ引き渡された。

父娘は車内に残していた品を整理した。真帆は家族で写った写真を選び、修司は旅の記録帳を手元に残した。食器と古いキャンプ用品は分けて箱へ収め、持ち帰るものだけを二人の鞄に入れた。

家へ戻った修司は、入学手続きの期限内に不足分を含む入学金を振り込んだ。振込完了の画面を真帆と確認したあと、二人で寮へ送る荷物の一覧を作った。

「お前が出ていったら、寂しい」

修司は今度こそ笑ってごまかさなかった。「むぎと二人で平気だなんて、たぶん嘘だ」

真帆は一覧の余白に、むぎの世話の時間を書き足した。「電話くらいするよ。料理も、たまには作りに帰る」

足元では、むぎが冷たい床を選んで眠っていた。犬を守るために真夏の車を降りた旅は、修司に過去の居場所まで手放させた。それでも写真と記録帳は残り、空いた場所には、真帆が家を出て学ぶための荷物が少しずつ積み上がっていった。

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