日曜のリード

六月最初の金曜日、午後八時半。サッカーの練習から帰った航が玄関を開けると、ポン太が床を滑るように駆けてきた。四歳のジャック・ラッセル・テリアは航のすねに前脚をかけ、苦情を言うように何度も鼻を鳴らした。

台所ではごみ袋が破られ、空になった水入れが横倒しになっていた。航は水を入れ直し、餌を皿に移した。ポン太は朝からずっと一匹だったのだ。

遅番を終えて帰宅した美咲は、荒れた台所を見るなり健司へ電話をかけた。

「今日、お迎えの日でしょう」

「今週末はそっちだと思ってた。先月は俺が行ったのに、留守だっただろ」

「それはあなたが時間を確認しなかったから」

二人の声は電話越しでもぶつかった。航は餌をむさぼるポン太の背中をなでながら、どちらの顔も見ないふりをした。

翌日の昼、健司が美咲と航の家を訪れた。食卓を挟んで座った両親の足元で、ポン太だけが期待に満ちた顔をしていた。

「もう一度こんなことになったら危ない」

美咲はそう言って、組んだ指に目を落とした。介護施設の遅番は減らせず、その手当も家計に必要だった。

「俺も本業があるし、日曜は倉庫に出てる。毎週預かるのは無理だ」

健司が続けた。二人はしばらく黙ったあと、安全に飼ってくれる里親を探す、と航に告げた。募集を始めるのは、航のサッカークラブの決勝遠征が終わった翌週からだという。

「確認表を作ればいいよ。誰が散歩するか、全部書くんだ」

「前にも連絡を決めたけど、続かなかったでしょう」

美咲の返事に、健司もうなずいた。航は膝の上で拳を握った。大人同士で話させるからけんかになるのなら、自分が間に入ればいい。二人が気づかないうちに、足りないところを埋めればいいのだ。

その夜、航は自分の部屋で同じ書式の予定表を二枚作った。母に渡す一枚には健司の担当を多くし、父に渡す一枚には美咲の担当を多くした。空いたところは、自分の学校とサッカーの予定を見ながら埋めることにした。

翌日、航は美咲に母用の紙を差し出した。

「お父さんも、これでいいって」

それからポン太を連れて健司の住居へ行き、もう一枚を見せた。

「お母さんが先に決めたんだ。署名してくれたら、もう里親に出さなくていいよね」

二人はそれぞれの紙に署名した。ただし、決勝遠征の日曜だけは予定が食い違っていた。母用では健司が終日担当、父用では美咲が午前六時半に迎えることになっている。

その日は遠征を休んで、自分が健司の家へ行けばいい。航はそう考え、二枚の紙を別々の鞄にしまった。

翌週の火曜日、航は体調が悪いと言ってサッカーの練習を休んだ。自転車でポン太のいる家へ向かい、散歩と餌を済ませた。写真を撮って時刻の表示を隠し、美咲には健司が、健司には美咲が世話をしたと思わせる文を添えて送った。

木曜日にも同じことをした。グラウンドを出る前、監督から決勝の先発を告げられたが、航は遠征を休むとは言えなかった。胸の中で、日曜日までには何か考えつく、と繰り返した。

帰宅すると、美咲が予定表に丸をつけていた。

「ちゃんと回ってるね。航のおかげで、お父さんとも確認しやすくなった」

今なら本当のことを言えるかもしれない。しかし美咲のほっとした顔を見た途端、航の喉は閉じた。ポン太が足元にボールを置いても、投げ返す力が残っていなかった。

決勝の日曜、午前六時。前夜からポン太を預かっていた健司は、父用の予定表を冷蔵庫の扉で確かめた。六時半に美咲が迎えに来ることになっていた。

健司は水と犬小屋のある裏庭へポン太を出し、門扉を閉めて倉庫の副業へ向かった。掛け金はかかったように見えたが、浅く引っかかっているだけだった。

一方、美咲は母用の予定表を信じ、航を遠征バスの集合場所まで送った。健司が終日世話をする日なのだから、心配する様子はなかった。

バスの座席で、航は何度も携帯を握った。食い違いを知っているのは自分だけだった。今から言えばバスを降ろされ、決勝にも出られず、そのうえ里親探しが始まる。窓の外へ流れていく町を見ながら、航は画面を伏せた。

昼過ぎ、落ち着きをなくしたポン太は門扉に前脚をかけた。掛け金が外れ、開いた隙間から道路へ出た。近隣の住民が見つけ、市の動物保護施設へ連れていった。

夕方、登録上の連絡先になっている美咲の携帯が鳴った。同じころ、副業から戻った健司は、空の庭と開いた門扉を見つけた。遠征帰りのバスにいた航は、美咲からの短い連絡を読んだまま、しばらく息ができなかった。

翌月曜日の午前九時、三人は市動物保護施設を訪れた。ポン太は無事だったが、返還の手続きが済むまで職員の小野の足元に伏せ、細かく震えていた。

身元を確認した小野は、三人に尋ねた。

「昨日は、どなたが世話をする予定でしたか。もう一度同じことが起きないよう、確認させてください」

「健司です」

「美咲だろ」

二人は同時に答え、それぞれ予定表を取り出した。食卓で見たものと同じ書式なのに、日曜の欄だけでなく、ほかの担当も違っている。

「書き換えたの?」

「そっちこそ、話が違うだろ」

責める声が重なった。航は耳を塞ぎたくなったが、ポン太が小野の靴に体を寄せるのを見て、両手を下ろした。

「僕が作った」

美咲と健司が振り向いた。

「二枚とも僕が作った。練習を休んで、散歩と餌もやった。写真も、どっちかがやったみたいに送った」

声が震えた。それでも航は、決勝の日も二枚の予定が違うと知っていたことまで話した。

「けんかしなければ、僕が全部やればいいと思った。そうしたら、ポン太を里親に出さなくてすむから」

美咲は口元を押さえ、健司は二枚の紙を見つめた。しばらくして、健司が低い声で言った。

「航が休んでたことにも、俺たちは気づかなかった」

「気づかないふりをしてたのかもしれない。予定どおりだと思えば、楽だったから」

美咲が答えた。二人はもう互いを責めなかった。現実に守れる計画を作るまで里親募集を保留する、と小野の前で決めた。

同じ日の午後、三人は自宅の食卓に一枚の週間表を広げた。今度は、誰かが埋めてくれることを当てにせず、自分が必ずできる担当だけを書くことにした。

「僕は月曜と水曜。クラブがないから、散歩と夕ご飯をやる。でも、試合の日と病気の日は外してほしい」

航が言うと、美咲はその条件も紙に書いた。それから勤務先へ電話をかけ、木曜と日曜を遅番から早番へ変えてもらった。遅番手当が減ることも、その場で受け入れた。

「俺は日曜の倉庫を外す。土曜の夜から日曜の夕方までは、俺が預かって送る」

健司も副業先へ連絡した。金曜の遅番や急な残業の日には散歩代行を頼み、費用は美咲と健司が半分ずつ出すことにした。

完成した予定は共有カレンダーに登録した。受け渡しは、渡す側が「送迎完了」、受ける側が「受取完了」を押すまで終わったことにしない。三か月、この方法を試して守れたら、ポン太はそのまま朝倉家で暮らす。

三週間後の日曜日、午後四時半。健司がポン太を散歩させながら、美咲と航の家の前までやってきた。以前なら倉庫にいた時間だった。

健司は門の前で立ち止まり、共有カレンダーの「送迎完了」を押した。早番を終えて帰ってきた美咲は通知を確かめてから、健司の手にあるリードを受け取った。

「受取完了、押したよ」

玄関には、航が月曜と水曜の当番を守った印が残っていた。航はカレンダーを開き、次の予定を声に出した。

「明日の夕方は僕。雨でも散歩する」

「無理な雨なら連絡して。代行を頼むから」

美咲が言い、健司もうなずいた。

三人が同じ家に入ることはなかった。それでもポン太は、健司、美咲、航の足元を順番に回り、誰の前でも同じように尻尾を振った。

航はもう、みんなを同じ場所へ戻すための嘘を考えなかった。父から母へ渡ったリードは、どちらか一人に押しつけられることなく、次の日には自分が持つ。それぞれが減らすものを決め、約束を確かめ続けるかぎり、離れて暮らしていても家族でいられるのだと思った。

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