机の底の創業年

助成金の申請締切まで、あと一週間だった。高木蒼太は店頭中央の文机を乾いた布で磨き、黒ずんだ木目に朝の光を滑らせた。百年前、初代が作ったと伝わる品であり、高木家具店が三代続いた証しでもある。

「写真は、正面だけでなく銘のあるところも撮っておきなさい」

事務机で申請書を確認していた母の澄江が言った。創業年の欄には、百年前の年が記されている。蒼太がうなずくと、澄江は一度だけ文机を見て、すぐ書類へ目を戻した。

「これが通れば、作業場の機械を替えられる。店も立て直せるよ」

「なら、早く出したほうがいいわ」

声に迷いが混じったように聞こえたが、蒼太は疲れのせいだと思った。閉店後、文机と店内を撮影し、裏口と窓を確かめ、最後に表の錠を二度引いた。看板を守ることは、家族の暮らしを守ることだと、蒼太は疑っていなかった。

翌朝、文机は床板の目地に対してわずかに斜めを向いていた。前夜の写真と見比べなければ気づかないほどだったが、右の脚だけが目地を越えている。蒼太は掃除の際に触れたのだろうと考え、元の位置へ戻した。

二日目には、机は反対向きにずれていた。かがんで脚を調べると、底板に細い引っ掻き傷が増えている。錠にも窓にも異常はなく、床に引きずった跡もなかった。

その日の閉店間際、久世修一がミニチュアシュナウザーのバルトを連れて現れた。かつて父と作業場に立っていた職人だが、退職してから店へ来ることはほとんどなかった。

「助成金に出すそうだな」

久世は告知の紙より、文机を見ていた。

「ええ。うちの百年を証明できる品ですから」

「来歴は、確かめたのか」

「祖父から父へ、父から僕へ伝わっています」

久世は何も答えなかった。その足元からバルトが抜け、文机の下へ潜り込んだ。灰色の眉毛を震わせて底を嗅ぎ、同じ箇所を前脚で激しく掻いた。蒼太が引き離すと、犬は低く鼻を鳴らし、なお机を振り返った。

翌朝、文机はまた動いていた。蒼太は申請書を閉じ、誰にも告げず、その夜は店内に残ることにした。

閉店から二時間ほどたったころ、表の錠がかすかに鳴った。暗がりで息を潜める蒼太の前で、扉が細く開く。入ってきた久世は古い鍵を抜き、バルトを招き入れた。

久世は灯りをつけずに文机へ近づき、片側を持ち上げて横へずらした。バルトがすぐ底へ鼻を寄せる。蒼太は壁のスイッチを押した。

「何をしているんです」

白い照明の下で、久世の手が机から離れた。バルトだけが底板を見上げていた。

「その鍵、いつから持っていたんですか」

「辞めたとき、返しそびれた。机を動かしたのも俺だ。三晩ともな」

「どうして、こんな真似を」

久世は握った鍵へ目を落とした。

「口で話しても、お前は母親と家の話を信じる。俺が恨みで嘘を言うと思うだろう。だから、物に残ったものを自分で見つけさせたかった」

蒼太が文机へ目を向けると、バルトがまた底板を掻いた。乾いた音が、消灯後の店に鋭く響いた。

二人は文机を作業場へ運んだ。明かりの下で確かめると、底板の一部だけが木目に沿って薄く継がれている。傷はその継ぎ目に集まっていた。

久世の指示に従い、蒼太は細いへらを差し入れた。板を傷めないよう少しずつ糊を外すと、内側から油紙の包みが現れた。バルトは鼻を寄せたが、久世に制されて座った。

包みの中には設計図と古材の材料伝票、それに作業覚えが入っていた。どれにも三十年前の日付があり、設計図の表題には、父の筆跡で「創業時文机・復元」と記されていた。作業覚えには正人と久世、二人の名が並んでいる。

「親父が、これを作った?」

「俺も手伝った。創業当時の家具を古材で再現したんだ。正人さんは、復元品がいつか本物にされるのを嫌がった。それで記録をここへ納めた」

蒼太は材料伝票の日付を何度も見直した。父の仕事であることは、接ぎ方の正確さがかえって証明していた。百年前の机でないなら、創業百年という数字は何を根拠にしているのか。その疑いを抱いたまま、蒼太は朝を待った。

開店前、事務室の机に設計図と伝票を並べると、澄江は長く黙っていた。久世は入口近くに立ち、蒼太は母の顔から目をそらさなかった。

「お父さんが作った模作よ。それだけのことでしょう」

「模作なら、なぜ初代の作品として融資資料にも載っているんだ」

蒼太は保管庫から創業台帳と三十年前の融資書類を出した。古い台帳の創業年は、現在掲げている年より四十年遅い。写真を貼ったらしい台紙だけが、四隅の跡を残して空いていた。

「本当は六十年なんだね」

澄江の肩がわずかに下がった。

「三十年前、店にはもうお金がなかったの。融資を断られたら、職人も取引先も全部失った。古い店なら信用になると言われて、創業年をさかのぼらせた。あの机を証拠にしたのは私よ」

「父さんは知っていたのか」

「机のことは知っていた。でも、数字を変えたのは私。あの人は書類を隠して、いつか正せるようにしたつもりだったのでしょうね」

澄江は融資書類を押さえた。

「公表したら、今の取引先まで疑われる。従業員だって傷つく。守ってきたものを、あなたが一日で壊すの?」

久世が低い声で言った。

「俺も作った。嘘だと知って黙った。もう店を閉じて終わらせるしかない」

隠し続ける母と、閉じて終わらせようとする久世。そのどちらにも、明日この仕事をどう引き受けるかがなかった。蒼太は設計図に引かれた父の線を見つめた。偽りに使われた線であっても、仕事まで偽物になるわけではなかった。

その日の午後、蒼太は助成金事務局へ電話し、申請を撤回した。二日後には店頭とウェブサイトから百年史を外し、正しい六十年の沿革へ改めた。訂正文には、復元文机を初代作として扱ってきた経緯と、現店主として訂正する責任を自分の名で記した。

作業場では、文机の設計図を久世の前へ広げた。バルトが二人の足元を行き来し、やがて古材のそばに座った。

「店は閉めません。父さんと久世さんが形や技法を再現した力を、今度は復元だと明かして使いたい。修復と復元の部門を作ります。教えてもらえませんか」

久世はしばらく図面を見ていたが、やがて古材の端を指でなぞった。

「閉めれば責任を取った気になれると思っていた。だが、残すほうが難しいな」

澄江には、訂正文への署名を求めなかった。蒼太は事務室に紙を置き、訂正後の店で働くか、去るかを母自身に委ねた。

澄江は署名せず、私物を鞄に入れた。店を出る前、店頭の文机に一度だけ触れたが、蒼太には何も言わなかった。扉の鈴が鳴り、母の背中は通りの人影へ紛れた。

訂正文を掲示して数日後の朝、蒼太は文机の引き出しに見覚えのない封筒を見つけた。中には、小さな店の前に立つ若い祖父母の写真が一枚入っていた。台帳の空いた台紙と、四隅の跡が重なった。

写真の裏には、正しい創業年月日だけが澄江の筆跡で書かれていた。謝罪も、戻るという言葉もなかった。久世の合鍵はすでに回収してある。それでも蒼太は、誰がいつ封筒を置いたのか確かめなかった。

やって来たバルトは文机の下へ入り、底板を一度だけ嗅いだ。もう掻くことはなく、すぐに離れると、修復を待つ家具のそばで伏せた。

蒼太は写真を引き出しへ戻した。文机は百年の証拠ではなくなったが、父たちの技術と、家族が守った沈黙の両方を残している。店先には六十年目の朝の光が差し、傷の増えなくなった底板を静かに照らしていた。

物語を、アプリで。

「犬と人の物語」はiPhone・Androidで読めます。アプリでできることや読書画面をご覧いただいてから、お使いのストアへ進めます。