十月下旬、高額ツアーの開始を一週間後に控えた朝、野々村佳澄は紅葉散策路の入口に立っていた。新しい木柵には「予約客専用」と記された札が下がり、長く地域の者が使ってきた脇道まで塞いでいる。柵の向こうでは、色づいた楓が朝日を受け、濡れた葉を燃えるように輝かせていた。
果樹園の事務所へ戻ると、兄の直樹が予約表を掲げた。すべての枠が埋まり、その予約金の一部はすでに肥料代と選果機の修繕費に消えている。
「これでいいんだよ。無料で通していた道が、今年は農園を救う」
佳澄はうなずいた。不作の年が続き、祖母から継いだ果樹園を守る責任は、借入金の数字となって毎月机へ届いた。紅葉橋を商品にすることにはためらいがあったが、土地も道も野々村家の登記になっている。それを生かさず農園を潰すほうが無責任だと、自分に言い聞かせていた。
入口から声がして、佳澄と直樹は外へ出た。柵の前に、杖をついた澄江が立っていた。その傍らで、果樹園のミニチュアシュナウザー、ロクが落ち着かない様子で白い眉を動かしている。
「この脇道まで閉じることはないでしょう。橋は果樹園だけのものではないよ」
「事故があれば、うちの責任になります。それに土地は野々村のものです」
佳澄が答えると、澄江は紅葉の奥へ目を向けた。
「土地の話をしているんじゃない。あんたのお祖母さんなら、そんな札は立てなかった」
佳澄は言葉を返さず、柵越しに澄江を見つめるロクの首輪を引いた。祖母の名を出されるたび、守れなかった家業を責められているように感じた。
翌朝、開園準備のため外へ出た佳澄は、ロクの姿がないことに気づいた。呼びながら入口へ行くと、灰色の尻が柵の下のわずかな隙間へ消えるところだった。
佳澄が追うと、ロクは脇道を抜け、澄江の家の前で待っていた。やがて戸口から現れた澄江が杖をついて歩き出すと、ロクは数歩進んでは振り返り、彼女の遅い足取りに速度を合わせた。
「ロク」
橋へ続く坂道で呼ぶと、犬は耳を立てた。澄江も振り向き、息を整えながら言った。
「この子は昔から知っているんだよ。文枝さんと私が歩いた道を」
「今は管理の仕方が違います。澄江さんが転んだら困りますし、無断で入られても困るんです」
佳澄はロクを抱き上げた。腕の中で犬は橋の方へ鼻を向けたが、そのまま連れ帰り、柵の隙間を板で塞いだ。偶然ではないと思いながらも、経営者として見過ごすわけにはいかなかった。
その翌朝、ロクは門扉脇の水抜き穴から外へ出た。佳澄はすぐには呼び止めず、気づかれないよう距離を置いて後を追った。
ロクはまた澄江を迎え、紅葉橋まで案内した。谷に架かる小さな木橋のたもとで足を止めると、苔むした祠に鼻を寄せ、低く鳴いた。
「ここへ何度も来たんですか」
佳澄が姿を現すと、澄江は驚いたものの、やがて祠の前の石へ腰を下ろした。
「紅葉の時期は毎日ね。文枝さんと私らで道を掃いて、客を案内して、栗の菓子や干し柿を売った。売上は仕事に応じて分けたよ。最後の記録帳だけ、文枝さんが病気になってから見つからなくなったけれど」
佳澄が知っているのは、祖母が散策路を育て、紅葉橋を名所にしたという話だけだった。パンフレットにもそう書き、自分でも信じていた。
ロクが祠の背へ回り、何度も鼻を鳴らした。佳澄が朽ちかけた背板へ手をかけると、板は乾いた音を立てて外れた。中には油紙に包まれた一冊の帳面が納められていた。
帳面には年ごとの売上と支出、菓子を作った者、清掃や案内を担った者の名が、祖母の細い字で記されていた。澄江の名も、今は亡い近所の女性たちの名もある。最終頁には共同運営者の署名とともに、ひときわ濃い墨で文章が残されていた。
「土地は野々村が預かる。橋の景色と秋の商いは皆に開き、語る人の名を消さない」
佳澄が読み上げると、風が橋を渡り、枝を離れた葉が帳面の上へ落ちた。澄江はその葉を払いもせず、署名を指でなぞった。
「文枝さん一人で作った場所じゃない。でも、私らだけのものでもない。だから開けておこうと決めたんだよ」
同日の午後、佳澄は事務所で記録帳を直樹に見せた。直樹は一頁ずつ確かめたあと、表紙を閉じた。
「これは登記を変える文書じゃない。法的な所有権はうちにある」
彼は帳面を金庫へ入れようとした。佳澄が押しとどめると、直樹は机上の資金繰り表を指した。
「中止したら予約金を返さなきゃならない。その金はもう肥料と修理に使った。返金するなら、収穫した果実を安い卸値で今より多く出すしかない。今年を越せなければ、約束も景色もないだろう」
言っていることは正しかった。佳澄自身も同じ数字を見て、高額ツアーを決めたのだ。
机には完成したパンフレットが積まれていた。鮮やかな紅葉の写真の上に、「祖母が守った秘密の紅葉橋」と印刷されている。佳澄はその言葉を見つめ、祖母の名だけを宣伝に使いながら、祖母が守ろうとした約束と、共に働いた人々の名を消していたことに気づいた。
「秘密にしたのは、お祖母ちゃんじゃない。私たちだよ」
「感傷で農園は経営できない」
「分かってる。だから損失も返済も私が計算する。でも、この帳面を伏せて、祖母の名前だけ売ることはできない」
佳澄は直樹の手から記録帳を受け取った。兄の制止を背に、翌日の予約客一覧を抱えて事務所を出た。
翌朝から、佳澄は予約客へ一件ずつ電話をかけた。紅葉橋が地域の人々によって守られてきたことを知らず、果樹園だけの独占商品にしてしまったことを説明し、ツアーの中止と全額返金を伝えた。
残念がる客もいれば、厳しい声を返す客もいた。一方で、「事情を話してくれてよかった」と言う者もいた。電話を切るたび、予約表の名前に一本ずつ線が引かれ、満席だった表は夕方には白くなった。
佳澄は返金額と期日を並べ、果実の卸売り量を増やした出荷表を直樹へ渡した。直樹は険しい顔で数字を確かめた。
「利益はほとんど残らないぞ」
「今年はね。それでも返せる。出荷の手配を手伝って」
長い沈黙のあと、直樹は出荷先へ電話をかけ始めた。不満は消えていなかったが、実務まで放り出す兄ではなかった。
最後の返金連絡を終えると、佳澄は散策路入口へ向かった。「予約客専用」の札を外し、門を大きく開ける。足元にいたロクは、もう柵の下を探さず、開いた道の真ん中を紅葉橋へ駆けていった。
中止決定から三日後の午後、佳澄は澄江と地域の女性たちを果樹園の選果小屋へ招いた。直樹も壁際に立ち、集まった顔を黙って見ていた。
佳澄は机の中央へ記録帳を置き、柵を立てて脇道を閉じたことを謝った。そのうえで、橋は無料のまま開放し、果樹園内で収穫体験と秋の共同市を開きたいと提案した。
「うちは収穫体験と果実販売で収入を得ます。皆さんの菓子や工芸品の売上は、それぞれ作った方のものにする。会場整備などの共通経費だけ、金額を出して分担したいんです」
女性たちは顔を見合わせた。澄江は記録帳を開き、並んだ名前をしばらく眺めてから言った。
「昔に戻すだけでは駄目だよ。口約束にしたら、また誰かの名が消される。参加した人の名前も、売上も経費も、毎年みんなに見えるようにすること」
「はい。記録を公開します。誰が支えた商いなのか、残します」
直樹は佳澄の作った収支案を手に取り、出店料ではなく共通経費の分担額を確認した。やがて、収穫体験の予約数を増やせば現実的だと短く告げた。その言葉を合図にするように、女性たちは菓子の種類や必要な机の数を話し始めた。
翌年十一月、二度目の共同市の日を迎えた。初年度は返金と卸売りの増加で利益が減ったが、澄江たちの栗菓子や干し柿、橋にまつわる昔語りを目当てに、再び山を訪れる客が増えていた。果樹園の収穫体験にも家族連れが集まり、直樹は選果小屋と畑を忙しく行き来していた。
紅葉橋の入口には、新しい案内板が立っていた。佳澄が撤去した柵の板を削って作ったもので、祖母の文枝だけでなく、散策路の清掃、案内、菓子作りを担ってきた人々の名が記されている。
澄江は案内板の前で来訪客に語っていた。橋を架け替えた年のこと、雨の翌朝に皆で落ち葉を掃いたこと、菓子が足りず、祖母と二人で夜通し栗をむいたこと。佳澄は口を挟まず、その隣で収穫した林檎を客へ手渡した。
開かれた道を、ロクが橋と市の間で何度も往復していた。灰色の背に赤い葉を一枚載せたまま、誰かを迎えるように走っていく。
佳澄は、紅葉橋を返すとは土地を手放すことではないのだと思った。景色を支えてきた人々へ、そこに立つ居場所と、自分の言葉で思い出を語る権利を返すことなのだ。
風に押された紅葉が、橋へ続く道を埋めていく。その道にはもう柵も、予約客だけを選ぶ札もなかった。
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