予約表は入口に

改装初日の午前、藤崎理容店の床は、真帆の靴まで新品に見せるほど光っていた。入口には段差をなくしたスロープ、店内には大きな鏡、受付には予約アプリを表示したタブレットがある。父の代から残っていた電話予約のノートは、昨日、引き出しの奥へしまった。

「見違えましたね。これなら若い人が写真を撮って、どんどん広めてくれますよ」

広告会社の担当者は、入口へカメラを向けながら満足そうにうなずいた。予約をアプリに一本化したと真帆が話すと、「効率化も大事です」とさらに褒めた。

古い店を継いでから、売上は少しずつ下がっていた。腕には自信がある。足りないのは新しさだと、真帆は思っていた。

「真帆ちゃん、おめでとう」

明るい声とともに、澄江が菓子の包みを抱えて現れた。傍らには、トイプードルのモコがいる。澄江の散髪中、入口近くで待つのが昔からの習慣だった。

「ありがとうございます。モコも入って、入って」

澄江がリードを引く。モコはスロープに前脚を置き、つるりとわずかに滑らせた。次の瞬間、四本の脚をいっぱいに開き、その場へ踏ん張った。

前にも後ろにも動かない。巻き毛をきれいに整えた、小さな新品の置物のようだった。

「すみません、少しだけ待ってください」

カメラを下ろした担当者に、真帆は苦笑した。

「モコも新しいものが苦手なんですね。ほら、抱っこしてあげる」

真帆が手を伸ばすと、モコは腹を床すれすれまで下げ、脚をさらに縮めた。澄江もスロープへ片足を置いたが、すぐに手すりを強く握った。

「あら。ずいぶん、つるつるね」

「光沢のある素材なんです。店が明るく見えるでしょう」

真帆が答えると、澄江は曖昧に笑い、結局スロープを上がらなかった。菓子の包みを真帆に渡しながら、思い出したように言った。

「次に切ってもらう日、電話で決めておこうかしら」

「予約はアプリだけになったんです。電話と両方だと、二重予約が起きますから」

真帆は自分のスマートフォンを取り出し、画面を次々と切り替えた。店を検索し、会員登録をして、日時を選び、確認を押す。それだけのことだった。

「ここを押して、次にこれです。簡単ですよ」

「いまの『ここ』は、どの『ここ』だったかしら」

澄江の指は、まだ最初の画面の上で止まっていた。真帆がもう一度説明しようとすると、澄江はスマートフォンを鞄にしまった。

「髪が伸びたら、また考えるわ」

澄江がリードを引くと、モコは帰る方向へだけは驚くほど軽快に歩いた。真帆は、臆病な犬もいるものだと思いながら、撮影を再開した。

二週間後、店の写真は真帆の期待どおり広まっていた。管理画面には閲覧数が景気よく並び、大きな鏡や看板を撮りに来る若者も増えた。

しかし、理容椅子に座る客は増えなかった。写真を撮っただけで帰る人や、最初の割引だけを使う人が多く、鏡の中には空の椅子が長い時間映っていた。

ある日、河野から電話がかかってきた。父の代からの常連で、杖を使っている客だった。

「明後日あたり、空いてるかね」

「河野さん、予約はアプリに変わったんです。スマートフォンからお願いできますか」

「わしは、そのスマート何とかを持ってないんだが」

「ご家族に取っていただくとか……」

短い沈黙のあと、「そうかい」と通話が切れた。澄江も河野も、それから店に姿を見せなかった。

広告会社の担当者は、予約数の伸びない画面を見ても顔色を変えなかった。

「閲覧されているなら、あと一押しです。追加で広告を出しましょう。露出が足りないだけですよ」

真帆もそう考えた。せっかく店を若返らせたのだ。ここで勢いを止めてはいけない。追加契約の資料を、受付のよく見える場所へ置いた。

改装から二週間後の午後、雨が降った。予約は入っておらず、真帆は静かな店内で広告の資料を読んでいた。

入口の外で、モコが一声鳴いた。顔を上げると、散歩帰りの澄江が、濡れた傘とリードを持って立っている。

「予約してないんだけど、今日は切ってもらえる?」

「もちろんです。ちょうど空いてますから」

澄江がスロープへ進もうとしたとき、モコの前脚が滑った。モコはすぐさま四本の脚を広げ、雨に濡れた入口で踏ん張った。

そこへ、杖をついた河野もやって来た。河野はスロープの手前で足を止め、杖先で床を二度たたいた。それから靴底をそっと置き、滑らないか確かめている。

澄江はモコを見下ろして言った。

「この子、新しいのが怖いんじゃなくて、転ぶのが怖いのよ」

真帆は反射的に、そんなに滑るはずはないと言いかけた。だが、モコと河野は同じように、入口の床を見つめていた。

自分で確かめようと、真帆はスロープへ靴を置いた。足が前へ滑り、体が大きく傾く。とっさに看板へつかまり、どうにか尻もちだけは免れた。

「若返った店主が、初日から腰をやったら大変ね」

澄江が言い、河野が声を立てて笑った。モコだけは真剣な顔で、なおも四本脚を踏ん張っている。

真帆は笑えなかった。澄江が来なくなったのも、河野が電話を切ったのも、古いものにしがみついているからではない。店へ入る前と、予約する前に、道をふさがれていたのだ。

その日は真帆がモコを抱え、澄江と河野にはゆっくり手すりを使って入ってもらった。閉店後、真帆はすぐに施工業者へ連絡し、スロープと床に滑り止めを施す見積もりを取った。

届いた金額を見て、真帆は広告の追加契約書と交互に眺めた。両方を払う余裕はない。しかも広告を今取りやめれば、解約金がかかる。

翌朝、真帆は広告会社の担当者へ電話した。担当者はすぐ店へ来て、光る床の上に契約書を広げた。

「今やめたら、改装の勢いが消えますよ。若い客へ定着させるには、もう少し続けないと」

「でも、入口で止まっている人がいます」

「新しい客を増やす企画ですから、ある程度、客層を絞るのは必要です」

真帆はタブレットの閲覧数を見た。それから、鏡に映る空の理容椅子を見た。数字の中には、予約できずに電話を切った河野も、入口から帰った澄江も、四本脚で危険を知らせたモコも映らない。

「広告は解約します。勢いより、入口を直します」

担当者は惜しそうに息をついたが、真帆は契約書を閉じた。解約金を払い、滑り止め工事を依頼した。

電話予約も復活させることにした。アプリをなくすのではなく、電話と店頭でも受ける。二重予約を防ぐため、すべての予約を一冊の紙の表へ書き、アプリと照らし合わせる方法に変えた。

一週間後、工事を終えたスロープには、細かな滑り止めがついていた。その脇に、真帆は空いている時間だけを書いた紙の予約表と、店の電話番号を掲げた。

最初に電話をくれたのは澄江だった。予約の時間になると、モコを連れて入口へ現れた。

モコはスロープの匂いを一度だけ嗅いだ。右の前脚を置き、次に左を置く。それから何事もなかったように、澄江より先に店内へ入った。

「合格みたいね」

「ずいぶん厳しい検査員でした」

「この店でいちばん厳しい検査員よ。お菓子でも買収できないもの」

真帆が笑っていると、後ろから佐伯親子がやって来た。改装直後、店頭で写真だけ撮って帰った若い母親と、その息子だった。

「アプリで予約した佐伯です」

「お待ちしてました。どうぞ」

母親はスマートフォンを見せ、息子はモコに手を振った。澄江は電話から、佐伯親子はアプリから、モコは自分の四本脚で、同じ入口を通ってきた。

真帆は紙の予約表へ二組の印をつけた。アプリの画面も確かめたが、前ほど数字だけに目を奪われなかった。

その後、河野も電話で予約を入れ、また杖をついて通うようになった。若い客と昔からの常連が、同じ理容椅子を順番に使った。入口の予約表を見て店頭で時間を決める人もいれば、家からアプリを使う人もいた。

新しい仕組みは残っている。古い方法も戻ってきた。便利さとは、どちらかの客を選ぶことではなく、来られなかった人の入口を増やすことなのだと、真帆はようやく知った。

店先では今日も、モコが滑り止めを踏みしめ、当然のような顔で先頭を歩いている。

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