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六月初旬の午後、青葉荘の共用廊下には、朝の雨がまだ匂いとして残っていた。二階の天井には古い雨染みがあり、壁際に寄せられた植木鉢の土は黒く湿っている。杉原玲奈は神田修一の部屋の前で、透明なファイルから退去同意書を取り出した。
「売買契約の期限が今月末なんです。転居費用については、先日お伝えした条件で用意します」
神田は書類を受け取らず、廊下の天井を見上げた。七十四歳の顔には、拒絶よりも、長く同じものを見てきた者の疲れが浮かんでいた。足元では柴犬のハチが鼻先を上げ、遠くの雨を嗅ぐように小さく動かしている。
「俺がいなくなれば、この建物は雨の日に困る」
「管理は買主側の管理会社が引き継ぎます。神田さん一人が残る理由にはなりません」
「その管理会社は、何を引き継ぐ。契約書にも管理記録にも、何も書いてないだろう」
玲奈は返事に詰まり、すぐに仕事用の表情を戻した。神田の言葉を、立ち退き条件を有利にするための駆け引きだと考えることにした。父の会社の返済期限は迫っており、最後の一人の曖昧な事情に付き合う余裕はなかった。
「一週間後に、また伺います。それまでにご検討ください」
玲奈がファイルを差し出すと、神田はようやく受け取ったが、署名するとは言わなかった。階段へ向かう玲奈の背後で、ハチの爪が古い床を一度だけ掻いた。
一週間後の夕方、警報級の雨が青葉荘の庇を叩いていた。退去同意書の返事を受け取るために来た玲奈は、玄関前で神田とハチに出会った。散歩に出るところらしかったが、ハチは外へ向かわず、濡れたリードを強く引いて廊下の奥へ進んだ。
「ハチ、待て」
神田の声にも従わず、ハチは地下扉の前で四本の脚を踏ん張った。扉の隙間へ鼻を寄せ、低く鳴く。その様子を見た神田の顔色が変わり、首から下げていた鍵を取り出した。
扉が開くと、湿った冷気と水音が押し寄せた。地下機械室の排水溝には落ち葉と泥が詰まり、壁際から細い流れが何本も床へ落ちている。裸電球の下で、水はすでに靴底を覆うほどたまっていた。
神田は長靴に履き替える間もなく入り、排水溝へ手を突っ込んだ。泥の塊を引き出すと、玲奈へ棚の懐中電灯を取るよう言った。
「そこを照らしてくれ。水があの線を越えたら、奥のレバーを下げる」
玲奈はパンプスのまま水へ入り、震える光を壁際へ向けた。神田は詰まりを除いたあと、錆びた手動ポンプの柄を何度も押した。玲奈もバケツで流れ込む水を排水溝へかき出し、肩と腕が重くなる頃、ようやく床の水位が下がり始めた。
ハチは開いた扉の手前に座り、二人を見ていた。雨音が少し弱まると、低く垂れていた尾がゆっくり上がった。
神田は機械室の棚から、ビニール袋に包まれた大学ノートを取り出した。ページには日付、雨量、ハチが地下へ向かった時刻、排水溝を掃除した回数、ポンプを動かした時間が細かな字で並んでいた。
「こいつは水の音と湿気に敏い。散歩の途中でも、たまり始めるとここへ来たがる。それを目安にしてきた」
「いつから、こんなことを」
「十八年前に越してきた頃からだ。あんたの叔母さんに教わった。あの人が動けなくなってからは、俺が見てた」
玲奈は濡れたノートと、まだ水滴の落ちる壁を交互に見た。神田を退去させても、この水の通り道まで消えるわけではない。その当たり前のことを、初めて自分の問題として理解した。
大雨の翌々日、玲奈は建物診断士の森田佳代を青葉荘へ呼んだ。地下のノートと、叔母の遺品にあった古い図面を渡すと、森田は壁の含水率を測り、外壁を回り、空室の床下と排水管の勾配を順に調べた。
午前の終わり、三人は地下機械室に集まった。森田は図面の増築部分を指で囲み、外壁側の排水経路が工事の際に狭められていると説明した。壁内へ入った雨水が地下へ集まる一方で、排水設備は小雨を前提にした能力のままだった。
「神田さんの見回りで、浸水するまでの時間を延ばしていたんです。でも応急処置にすぎません。豪雨が長引くか、神田さんが不在なら破綻します。壁の補修と主排水管、それに自動ポンプの更新が必要です」
客観的な言葉になった途端、問題は見過ごせない重さを持った。玲奈はノートを閉じ、神田へ向き直った。
「どうして最初から話してくれなかったんですか」
「証拠もなしに話せば、退去を渋る口実だと言われる。それに、事情を知ってると認めたら、今度は俺が管理責任者にされると思った。金も権限もないのに、何かあった時だけな」
玲奈には否定できなかった。実際、自分は神田の発言を駆け引きだと決めつけ、詳しく聞く前に管理会社へ任せればよいと言った。契約書にない仕事は、書かれていないまま誰かの善意へ押しつけられていた。
調査報告が出た日の夕方、玲奈は父、杉原正志の会社の応接室にいた。机の上に森田の報告書を置き、壁の画面には投資会社の担当者、大島拓也が映っている。玲奈が漏水と排水能力不足を説明すると、大島は数秒黙って資料を読んだ。
「神田さんに退去いただき、現状有姿、価格据え置きで引き渡すなら、予定どおり稟議を進めます。修繕するかどうかは、取得後に弊社で判断します」
「管理手順も決まっていない状態で、ですか」
「既知の不具合として開示されれば、取得後の運用は買主の責任です。ただし、入居者が残れば計画そのものが変わります」
父は報告書を閉じ、玲奈を見た。頬は以前より痩せ、机の端には資金繰り表が伏せてあった。
「その条件で受けろ。一円でも返済額が減れば、会社がもたない。修繕費なんて出せないぞ」
神田一人に退去してもらえば契約はまとまる。告知もした以上、その後は買主の判断だ。そう整理すれば、書類の上では誰の責任かが明確になるように思えた。
けれど玲奈の脳裏には、地下で一人ポンプを押していた神田の背中が浮かんだ。叔母から神田へ渡った知恵は管理記録から消え、犬の反応と一冊のノートだけが浸水を防いでいた。所有者の名前を変えても、点検する者と手順が決まらなければ、同じ空白が残る。
「このままでは進めません」
父が顔を上げ、大島は画面の中で眉を寄せた。
「退去させれば問題がなくなるわけではありません。修繕費も管理責任も、誰か一人へ押し戻したままです。いったん契約手続きを止めます。費用と責任を分けた条件を作り直します」
父は机を叩きかけて手を止めた。玲奈は報告書を抱え、応接室を出た。売るか告発するか、退去させるか放置するかではなく、知っている者たちを同じ机につかせる必要があった。
一週間後の午後、青葉荘一階の空室に折り畳み机が置かれた。玲奈、神田、父、大島、森田が向かい合い、窓の外では薄い雨が降っていた。玲奈は森田の修繕案と、大島の会社が予定していた改修後の賃料収入見込みを一つの資料にまとめて配った。
「主排水管と自動排水ポンプの更新は、取得後の設備投資として大島さんの会社に負担していただきます。外壁漏水の補修費は、売買代金の一部を修繕専用口座へ留保して支払います」
玲奈は父の前に、減額後の返済計画を置いた。全額には届かないが、取引を失うより返済は進む。父は数字を見つめたまま、長く息を吐いた。
「会社に入る額は、これだけ減るのか」
「減る。でも不具合を隠したまま売るより、契約が崩れる危険は小さい。修繕を終えれば建物の稼働率も上げられます」
大島は森田へ工期と故障時の対応を確認し、収益表の空室率を計算し直した。修繕によって事故リスクが下がり、改修後の募集計画を早められると分かると、設備投資としての負担を受け入れた。
玲奈は次に、神田の前へ六か月間の管理補助契約を置いた。雨量ごとの確認箇所、ポンプの操作、異音や水染みの記録方法を、新しい管理会社へ引き継ぐための有給契約だった。
「ただし、神田さんは緊急対応の責任者ではありません。不在を前提に、定期点検と連絡網を管理委託契約へ明記します。ノートの内容は手順書にして、管理会社が保管します」
神田は報酬額より先に、責任者の欄を確かめた。それから森田の修繕案を読み、短くうなずいた。
父も最後には、売買代金の一部を修繕へ回し、会社への返済額が減ることを受け入れた。大島が変更契約書へ署名し、続いて玲奈が署名した。雨の日の仕事は、ようやく誰かの好意ではなく、費用と責任を伴う約束になった。
二か月後の雨の朝、玲奈は修繕完了の確認に青葉荘を訪れた。外壁を伝う水は新しい排水路へ集まり、地下では自動ポンプが低い音を立てて作動していた。扉脇の点検表には管理会社の担当者名と次回確認日が書かれ、棚には神田のノートをもとにした手順書が収められている。
玄関では、神田がハチにリードをつけていた。ハチは地下扉の前まで行き、一度だけ隙間の匂いを嗅いだ。だが以前のように踏ん張らず、くるりと向きを変えて玄関の外へ歩き出した。
「もう、呼ばれないみたいですね」
玲奈が言うと、神田は犬の背中を見ながら答えた。
「呼ばれなくていいんだ。雨の日くらい、ただの散歩でな」
神田はハチの後を追い、雨の通りへ出ていった。青葉荘の売買はすでに実行され、父の会社への返済も、当初より少ない額で始まっている。それでも玲奈には、減った数字だけが損失だとは思えなかった。
建物を支えていた知恵は、価格にも築年数にも表れなかった。だからこそ、事情を知る一人に背負わせず、費用と手順と責任の形にして次へ渡さなければならない。玲奈は施錠された地下扉の前で、静かなポンプの音と、遠ざかる犬の足音をしばらく聞いていた。
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