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発売初日の朝、工場の出荷場には、段ボールを積む音とフォークリフトの警告音が絶え間なく響いていた。箱の側面には、工場で初めて立ち上げた自社ブランドの名が印刷されている。増産が決まれば工場を拡張でき、他社の仕様書どおりに縫う下請け仕事から抜け出せる。その期待が、油と布の匂いが染みついた出荷場を浮き立たせていた。
品質主任の新井隆は、四十六歳になるまで何度も見てきた出荷風景を、いつもより遅い歩調で回っていた。箱に貼られた製造番号を読み、納入先と数量を台帳に照らし合わせる。数字が合うたびに赤鉛筆で印をつけた。
「もうトラックが待ってる。確認は倉庫の記録で足りるだろう」
営業部長の森田修司が腕時計を示した。隆が一箱を止めるたび、販売店の棚へ並ぶ時間が遅れると言いたげだった。
「倉庫を出たら、箱ごとの行き先が頼りです。売れた数だけ分かっても、何番をどこへ出したか分からなければ追えません」
「追う前に売らなきゃ始まらない」
工場長兼社長の黒田剛は、二人の間で積み上がった箱を見上げた。「販売機会は逃すな」と森田に言ったあと、隆の台帳を指で叩いた。
「ただし記録は残せ。これが、うちの名前で売る最初の品だ」
最後の番号が照合され、荷台の扉が閉まった。隆は遠ざかるトラックを見送りながら、ようやく自分たちの製品を世へ出したのだと思った。
発売から一週間後の夕方、隆は妹の美穂に頼まれ、住宅街で柴犬のマメの散歩に付き添った。新製品のハーネスは茶色い毛によくなじみ、胸の前から胴へ回るベルトも、見たところ正しく締まっていた。
「少し緩い気がするんだけど、これでいいの?」
隆は首回りと胴回りに指を差し入れた。首は細いが、胴は樽のように太い。それでも説明書の範囲内で、金具にも異常はなかった。
そのとき、近くで金属板の倒れる音がした。マメは耳を伏せ、後ろへ跳ねた。美穂がリードを引くより早く、首をすぼめたマメは身体を横へひねり、さらに後ずさった。
調整金具を通したベルトが、わずかに滑った。次の瞬間、リードの先には潰れた輪のようなハーネスだけが残り、マメは裸のまま車道へ向かっていた。
「マメ!」
美穂が車道の手前で抱き止めた。隆は空のハーネスを握り、金具から伸びたベルトを見つめた。抜けないはずの輪が、犬の動きに合わせて自分からほどけたように見えた。
隆は現物と外箱を受け取り、その場で工場へ電話をかけた。「残っている製品は全部、出荷保留にしてください」と告げた声は、自分でも驚くほど平らだった。
翌朝、隆は試験室にこもった。残存品を隔離してからマメの首回りと胴回りを測り直し、美穂に聞いた動きの順序を紙へ描いた。従来の試験記録には、前方へ一定の力で引いた数値しかなかった。
隆は廃材のパイプと滑車を組み、首をすぼめた状態から胴をひねり、斜め後方へ下がる動きを再現する治具を作った。重りを落とすたび、ハーネスがきしみ、金具の中でベルトが一ミリ、また一ミリと動いた。
日が沈んでも反復試験を続けた。Mサイズに特定ロットの調整金具を組み合わせたときだけ、斜め後方の荷重で緩みが蓄積した。首回りと胴回りの差が大きい体形を治具に設定すると、輪は最後まで縮まりきらず、首の側へ抜けた。
隆は脱落する瞬間を動画に収め、試験表へ時刻と荷重を記した。装着ミスではなかった。犬が前へ進むことだけを考え、逃げようと後退する動きを設計に入れていなかったのだ。
発売九日目の午前、品質管理室の机には出荷台帳と販売先一覧が広げられた。隆は対象ロットへ印をつけ、倉庫に残る数を差し引いた。止められたのは一部にすぎず、大半は卸会社や各地の販売店へ移っていた。
「オンライン分には連絡できます。だが店頭の現金販売は、買った人の名前も住所も残っていない。番号が擦れて読めない品や、レシートを捨てた人も出ます」
森田は倉庫の隔離棚を見た。「在庫を戻させて、自社サイトに告知を出す。それでいいだろう。今のところ報告は妹さんの一件だけだ」
「倉庫にある物を止めても、犬が着けて歩いている物は止まりません」
「全員を探し出すなんてできない」
隆は台帳の、すでに販売済みと記された欄を指で押さえた。「できないことと、探さなくていいことは違います」
同日午後、工場の会議室で緊急会議が開かれた。森田は苦情のあった購入者へ交換品を送り、告知は目立ちすぎない大きさに抑える案を示した。拡張を控えた時期に大規模な回収をすれば、初動の売上もブランドの信用も失うという。
隆は治具で撮った映像を再生した。画面の中でベルトが滑り、ハーネスが治具から抜け落ちた。
「苦情が一件しかないのは、安全だからではありません。抜けかけても気づいていないか、うちへ知らせる方法を知らないだけかもしれない」
隆は続けて、店ごとの出荷数と所在不明数を黒田の前へ置いた。通常の返送受付だけでは、この空欄は埋まらない。
「次期商品の広告費と開発予算を回収へ振り替えてください。納入先の販売店を回り、無料の点検・交換会を開きます。番号が読めなくても、レシートがなくても、うちの製品で対象の形状なら受け付けます」
森田が身を乗り出した。「その金を使えば、工場の拡張は一年遅れるぞ。次の商品も出せない」
「分かっています」
隆は映像を止めた。空になった治具の輪が画面に残った。
「設計を承認したのは私です。全会場に立ちます。売った先に危険が残っているのに、次を宣伝する金だけ残すことはできません」
黒田は長く黙り、出荷台帳の角を揃えた。やがて森田ではなく隆を見た。
「拡張は一年延ばす。自主回収を出せ。広告費も次期開発費も使っていい。ただし、形だけの回収にはするな」
決定後の一週間、工場では交換品の製造と販売店への連絡が同時に進んだ。隆は調整金具の仕様を改め、前方荷重に加えて斜め後方への反復試験を行った。抜けないことを確認してから、量産の指示を出した。
販売店への電話では、棚から商品を下ろすだけでなく、店頭掲示と会員への連絡、交換会の場所の提供まで頼んだ。ブランド名が傷つくと渋る店もあった。
「傷があるのに隠せば、名前だけ無傷に見えるだけです。説明も装着も、承認者の私が店頭で引き受けます」
森田も営業網を使い、卸会社と販売店の日程を組み始めた。店ごとの対象数、返送数、交換数を照合する一覧表が作られ、出荷台帳に残された番号が一列ずつ移された。売り場は商品を並べる場所から、使用中の製品を迎え戻す窓口へ変わっていった。
交換会が始まって数週間、隆は「設計承認者」と記した名札を胸につけ、各地のペット用品店に立った。持ち込まれた品を受け取るたびに頭を下げ、犬の首回りと胴回りを測って交換品を装着した。
マメと同じように胴の太い柴犬が来ると、隆は飼い主に後退するときの癖を尋ねた。犬が身体をひねる方向まで聞き取り、交換後は飼い主にリードを持ってもらい、斜め後ろから力がかかっても抜けないことを確かめた。
「レシートも箱もないんですが」
そう言って差し出された擦れた製品も受け付けた。告知を知らず、偶然買い物に来ただけの客が身につけていた対象品も、その場で交換した。
夜、隆は工場へ戻り、返送品の番号を販売店別の一覧表と照合した。回収済みの欄へ線を引いても、未回収の番号は残った。隆と森田は店を通じて再通知を頼み、会員記録や予約履歴から連絡できる相手を一件ずつ探した。
「売るときより手間がかかるな」
森田が未回収表を見ながら言った。
「売るときに、この手間まで考えていなかったんです」
隆は次の番号を読み上げた。回収率という一つの数字にせず、戻らない品をそれぞれ一頭の犬が使っているかもしれない物として追った。
自主回収の開始から数か月後、工場の拡張は正式に一年延期された。その一方で、交換会に持ち込まれた犬の体形と動作の記録を基に、全ハーネスへ逆方向荷重試験が追加された。販売店から購入後の製造番号を登録できる制度も整い、未回収番号の照合は品質管理室の継続業務になった。
新しい出荷日の朝、隆は再び出荷場に立っていた。森田が発送時刻を確認し、黒田が積み上がった箱を見守っている。以前と違うのは、箱の番号の横に、販売先だけでなく購入後の連絡経路まで記録されていることだった。
隆は最後の一箱を台帳と照らし合わせ、赤鉛筆で印をつけた。完成とは、工場から送り出す瞬間のことではない。使う者の手に渡り、その役目を終えるまで見届けて、初めて自分たちの製品になる。
荷台の扉が閉まった。工場の拡大は遅れたが、隆はもう、その一年を失ったとは思わなかった。売った後までが製造なのだという基準が、出荷台帳の一行一行に残っていた。
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